インドと日本の仏教儀礼の比較研究

2008年10月23日の授業への質問・回答


インドでは神は宇宙を作るが、宇宙=神であり、人間も宇宙=神の一部なのに対し、キリスト教では神と宇宙は別物だということに納得した。日本でも山や岩などに神を見いだし、自然崇拝が行われていましたが、キリスト教ではそういったことをまったく聞いたことがなかったので。日本ではキリスト教よりも仏教が普及しているのは、距離的、時間的な問題だけではなく、そういった要素も関係しているのでしょうか。
はじめのところはそうなのですが、自然崇拝と結びつける云々という点については、私は少し考えが違います。宇宙は神であるというインド的理解と、自然には神が宿るというのは、かなり異なる考え方だと思うからです。宇宙が神であるというのは、宇宙全体をひとつのまとまりとしてとらえ、それが神として顕現しているということです。これに対し、日本的な「神が宿る」というのは、全体は問題にされず、われわれのまわりのさまざまな構成要素に、神がひそんでいるという理解です。そこでは、宇宙全体の創造や持続、消滅などが意識されることはありません。基本的に、日本人は「宇宙」とか「全体」といった考え方が不得手な民族だと思います。われわれのまわりにあるのは、山や川や田んぼであり、それは漠然とした広がりはもっていますが、特定の構造をもっていません。別の言葉で言えば「自然」なのですが、自然は全体がひとつのまとまりをもたず、われわれと自然との関係もあいまいです。そう考えると、一元論を基本にする古代インドの梵我一如の思想などは、およそ日本人には理解しがたいものなのでしょう。むしろ、創造主を世界の外に置いているヨーロッパの思想の方が、日本人の世界観よりもインドに近いかもしれません。ちなみに、昨今の環境問題に関しても、欧米の方が危機意識が高く、日本人に切実感がないのも、宇宙全体をひとつのシステムとしてとらえることに、われわれが慣れていないからとも思えます(飛躍しすぎかもしれませんが)。

ヴェーダ祭式の中の宇宙・祭式・祭官そして作用を及ぼす力もすべてブラフマンで、祭官によっても力が生み出されるのであれば、たがいにどれもブラフマンでありながら、力を及ぼし合っている気がして不思議でした。
たしかに不思議ですね。でも、一元論というのは、そういうものなのでしょう。このような考え方は、おそらく通常の状態では理解不可能というか、発想自体が生まれなかったでしょう。そこで重要なのは祭式で、その非日常的な状態で、おそらくトランスに入ったようなバラモンたちが直観したのでしょう。

今回見せてもらった写真に、ヴェーダを学習するバラモン親子がありましたが、なぜ、文献を見せるのではなく口承なのでしょうか。また、ヴェーダには4種4部門があるとおっしゃっていましたが、子どもの頃からすべて覚えさせられるのものなのか気になりました。それにしても、インドには多くの儀礼があることに驚きました。しかし「儀礼」をあらわすことばに「行為」の意味を持つ言葉があるということから、さまざまな行動に神がいて力があると思われていたのかもしれない。今回見たのはほんの一部なんだろうとも考えました。あと、私的には儀礼と火の関係にも興味があるのですが、やはり、神話が絡んでくるのでしょうか。
ヴェーダはすべて覚えるわけではありません。大きく4つのヴェーダに分かれるのは、それを担当する祭官が4種類いるからです。さらに、それぞれのヴェーダの中の、どの部分を専門とするかで、さらに細かく分かれたでしょう。おそらく、儀礼に即した実践的な知識として、特定のヴェーダを学修したと思います。しかし、それでも膨大な量の知識を記憶しなければならなかったはずです。口承伝承は、われわれから見ればたいへんなことで、不正確だと思えるのですが、おそらく、人類がもっていた重要な能力だったのでしょう。ヴェーダの文献は、想像を絶する正確さで、驚くべき長い年月にわたって伝えられました。ホメーロスのイーリアスとオデュッセイアも、あるいはインドのマハーバーラタやラーマーヤナもそうですが、とてつもなく長い文章を、人々は口承伝承で伝えています。文章に書くという記録方法は、むしろ、それほど優れていると思われていなかったのかもしれません。書き間違えをすることもありますし、書いたものがなくなれば、それっきり二度と復元できません。極論ですが、人間は文字と筆記を発明したことで、記憶能力を退化させたのでしょう。現在のパソコンの普及は、それにさらに拍車をかけていることになります(単なる私の記憶力の減退の言い訳かもしれませんが)。インドにはさまざまな儀礼があるのはそのとおりです。授業で紹介したのは氷山の一角どころか、砂漠の一握りの砂程度です。儀礼と火と神話の関係は、今回少しふれますが、あまりくわしくは取り上げられません。火そのものは密教の護摩のところで、もう一度あつかいます。

祭壇を儀礼のあとで焼却してしまうのが意外だった。日本では祭壇の再利用も多いような気がする。しかし、燃やすこと自体が儀礼なら、何かいろいろな意味があるのかもしれないと思った。儀礼の形式化によって、儀礼の持つ力が失われるのはわかるが、伝統が生まれるというのが不思議な感じです。三千年前の儀礼が伝わっているというのは、それなりに形式化された結果なのだろうか。
祭壇を破壊して焼却するのは、古代インドの儀礼のひとつの特徴です。祭壇に相当する日本の護摩炉や壇は、破壊されることはありません。儀礼のあとでその舞台や装置が壊されるのは、マンダラの場合も同様です。これについては、マンダラ儀礼の時に紹介しますが、簡単に言えば、宇宙創造が儀礼の主題であるならば、次の儀礼でまた創造するために、いったんその宇宙には消滅してもらわなければならないということです。また、儀礼の場というのが非日常的な空間であるならば、儀礼が修了して日常が回復したときに、非日常的な空間がそのまま残っているのも都合が悪いでしょう。儀礼が形式化されることと伝統については、相撲とか華道とか茶道を考えればいいのではないでしょうか。部外者から見れば何の意味もないような形式が、ずっと継続され、それが伝統とよばれています。しかし、それを省けば合理的になるかといえば、そんなことはなく、それそのものが存在理由を失ってしまいます。そういう意味で「三千年伝わる云々」というのはそのとおりで、形式化されることが合理的でかつ洗練された結果なのです。しかし、それによって、形骸化も起こり、儀礼そのものの持つ力が失われる危険性があります。

火と水の話で思い出しました。仏教の儀礼で阿闍梨が火の中にいろんなものを投げて燃やすというのがありますが、あれはヴェーダの儀礼と似ていますね。阿闍梨の場合は香木だかなんだかを浮かべた水を用意するそうです。ヴェーダのそばに水がありましたが、あれも香木が浮いているんでしょうか。そして、どんな意味があるんでしょうか。
それが護摩です。ヴェーダの儀礼を「ホーマ」といいますが、それが発音どおりに中国で訳されると「護摩」になります。護摩は1回分の授業を予定していますので、そこでヴェーダ祭式との関連もお話しします。火と水がそろって現れ、儀礼で重要な役割を果たすのではという指摘は、鋭いです。火の儀礼であるホーマは、同時に水も重要なアイテムとして持っています。私の理解では、火も水も神々と交流するための回路となるのです。ちなみに、火と水は正反対の、相容れないものではなく、古代インドでは親密な関係にあります。火の神アグニは水の中に隠れることでも知られています。火も水も、単なる物質である場合と、生命を持った「生き物」である場合があるのも、共通です(これについては私の『マンダラの密教儀礼』の第5章のはじめで紹介しています)。

バラモンは昔々のことだと思っていましたが、現在でもいることを今日知りました。祭壇を燃やすことで思い出したことですが、日本の神輿も壊されたり燃やされたりすることがあるそうです。神の乗り物であり、祭りの期間中は神そのものになる神輿ですが、厄神を乗せて厄神を村の外に追い出すことをする祭りがあるそうです。その厄神を載せた神輿は焼かれることがあるそうです。
儀礼の道具を燃やすことには、そのような意味もたしかにありますね。日本の儀礼や祭礼では、そのような事例が多く見られそうです。インドでも、ドゥルガープージャーという女神の祭りで、同じようにドゥルガーの神像を祭りの最後に河に流します。ガネーシャの祭りでも同じようなパターンがあります。インドでは神の像に厄を乗せるという感覚はおそらくないので、意味は違うようですが、形態はよく似ています。日本の民俗学では、ケガレという観念が重要で、儀礼の基本的なところに、このケガレをいかに無くすかがあります。厄もケガレの一種です。

祭官と祭主は違うのですか?祭式の役割からすると、祭官の方が重要な位置にいるし、重要な役割を果たしているように見えるのですが。祭主の方が地位が高いのですか。
いわゆるカースト制度では、バラモンが社会の最高位にいます。その下が王侯貴族や戦士階級のクシャトリア、その下に一般のヴァイシャとなります。祭主はこれらのクシャトリアやヴァイシャが中心だったはずです(とくにクシャトリア)。カースト制度ではヴァイシャの下にさらにシュードラがいますが、シュードラはアーリア人ではないので、ヴェーダの祭式には関与できません。バラモンとクシャトリアとでは、バラモンが上でクシャトリアが下となっていますが、もともとは、社会の上層階級が、それぞれの職能に応じて分業したと見る方が自然です。ただし、戦争や国家の存亡に、直接作用を及ぼすことのできたバラモンが、クシャトリアよりも上位に置かれるようになったのも自然の流れでしょう。バラモンが儀礼を行うことで、王位に就くことができ、戦争にも勝てたのですから(実際は武力で勝ったとしても)。そもそも、神と直接交渉できる能力を持っているのは、バラモンだけです。


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