インドと日本の仏教儀礼の比較研究

2008年10月16日の授業への質問・回答


神のための儀礼がいつの間にか儀礼そのものが大切なことになるというのは、何となくわかりますが、私たちだって、形式的にやってることが多いですし。和室のふすまは踏んじゃだめとか、箸渡しはだめとか、どうしてやっちゃダメかもわからないけど、やっちゃダメっていわれています。そういうのって、形式化の典型ではないかと思うわけです。いつも、どんなものでも、儀礼中心、形式主義的なことになるんではないでしょうか。
まさにそのとおりです。儀礼というのはつねに形式主義に陥る結果になります。たとえば、われわれも日常的に「これは儀礼のようなもの」と言ったりしますが、その場合、「意味はないけど形だけしたがっておくもの」というニュアンスで「儀礼」という語を使います。そこでは、儀礼は因習や慣習となんら変わらず、人々の行動を非合理的に拘束するだけのものです。その一方で、儀礼とは日常的な世界に、非日常的な時空間を出現させる装置のようなものです。祭や特別な儀式(卒業式とか結婚式とか)を考えればいいでしょう。そこには儀礼がもつ刷新力のようなものが期待されます。いずれも儀礼がもつ本質であり、儀礼とはもともとこのような二面性を持った人間の行為なのでしょう。私自身は、そこにテキストの存在が重要になると考えています(これは授業では言及できませんでしたし、配付資料にも書いてありません)。テキストの存在は、この儀礼がもつ「形式化」を確実にするとともに、それをつねに変化させる可能性ももっています。たとえば、前回紹介したヴェーダ祭式において、新しい層の儀礼では、儀礼の解釈や説明までも儀礼の中の言葉として唱えられると言いましたが、これによって、それまでの儀礼をあたらしく作り替えることができます。形式主義に堕した儀礼を、ことばによってよみがえらせることができたのではないかと思います。なお、われわれの日常的にやっている形式化されたことがすべて儀礼というのも、ただしいとらえ方で、ひところの儀礼研究ではそのような立場をとる研究者が多かったのですが、それによって、儀礼研究の対象が拡散しすぎて、かえって実りある考察が生まれなかったようです。現在の儀礼研究の低調さの原因のひとつも、そのあたりにあるのではないかと思います。

儀礼は神話やその起源を表しているということだが、たとえば、日本の能などでも、神話や伝承の再現をする。芸能の起源は「物まね」らしいが、儀礼が何らかの再現であることも関係しているのかもしれない。
すべての儀礼が神話の再現ではありませんが、多くの儀礼がそのようなものであるのもたしかです。宗教学者のエリアーデはとくにこの点を強調しますし、数ある神話の中でも、創世神話が儀礼の基本になっているとも言っています。儀礼の中で、神々のかわりに人々は宇宙を創造するのです。芸能と儀礼の関係も重要ですね。芸能の多くは神事に由来します。能や歌舞伎などの日本の伝統芸能のほとんどはそうなのではないでしょうか。

ヴェーダ=聖典というイメージは捨てろと言っていたが、それならどうして高校の世界史では、聖典であるかのように教えてしまうのだろうか。バラモン教の聖典のようなイメージを持っていたが、話を聞くと、本当にバラモン教が「宗教」であったのだろうかと思ってしまうのだが・・・。
基本的に、教科書というのはそれほど最新の研究成果が含まれているものではありません。この場合はとくに「聖典」という言葉の意味が問題なのでしょう。宗教的な文献を「聖典」と呼ぶのであれば、ヴェーダ文献も立派な聖典です。しかし、聖典からイメージされる聖書やコーランと、ヴェーダ文献は相当に異なります。神々への讃歌を中心とした口誦伝承の総体で、儀礼の説明が中心であるというのが、ヴェーダ文献の最も簡単な定義です。なお、キリスト教(そしてユダヤ教)の旧約聖書には、このような儀礼に関する記述が意外に多く含まれます。古代の人々にとって、神の御心にかなうのは、信仰心だけではなく、それをどのように行為に移すのかが重要だったのでしょう。バラモン教が「宗教」であるかどうかも、宗教の定義によりますが、私はこのような儀礼中心の考え方も、宗教ととらえた方が適切であると考えています。現代の日本人の宗教観とはかなり異なるかもしれませんが。

私は以前の仏教文化論をとっていたのですが、この授業でも同じ神話があげられるとは思わなかったので、感心しました。ひとつの神話からさまざまなことが読み取れるのですね。今回、関心を持ったのは、インドの儀礼において、テキストが占める位置が大きいということでした。無文字の文明が儀礼をもつ場合を考えても、必ずしもすべての文化において、儀礼とテキストが結びつくわけではないと思うのですが、なぜ、インドではここまでテキストと儀礼が密接に結びつくことになったのか気になりました。インドでの言葉のあり方は、たいへん奥が深いもののように思えます。
ウルヴァーシーとプルーラヴァスの神話は、たしかに昨年の仏教文化論でも取り上げました(授業全体のテーマは「エロスとグロテスクの仏教美術」)。同じネタの使い回しですみません・・・。でも、結構おもしろい神話ですし、神話と儀礼の関係を示すには格好の題材なのです。テキストと儀礼の関係と、その背後にある言語観は、たしかに重要です。今回紹介しますが、ヴェーダの補助学には、言語に関する分野がたくさんあります。私は、儀礼の中の言葉のイメージとして、儀礼という装置を動かすための、エネルギーと思っています。儀礼というのは人間も道具も場所も含む壮大な装置のようなものなのですが、これを動かすために、インドでは言葉を用いたのです。人間の行為が装置を動かしているように思うかもしれませんが、行為も儀礼の一要素にすぎません。儀礼行為が意味を持つのは、その意味を与える言葉だからです。言葉やテキストに力があるというのは、このようなイメージから来ています。言葉そのものの神秘的な力についての考察も、インドでは古来盛んでしたし、文法学派と呼ばれるような人々を中心に、言葉に関する探求は、インド哲学の大きな流れを作っています。

ウルヴァーシーにプルーラヴァスの裸体を見せないという条件は、夫婦という関係に矛盾しませんか。火おこしの道具をふたりに見立てた上、火を子どもとする以上、セックスをしないとは思えないのですが、それとも、キリスト教のマリアのように処女懐胎ということなのでしょうか。そもそも神々がそうした条件をつけた意味が気にになります。(ふたりを引き離すための策略のためだけ?)
神話の解釈はおもしろいですね。私はこの物語のカギは雷だと思っています。ふたりの別離の契機となったのが、雷です。しかし、それによって、その後の物語の展開が生まれ、その結果、子どもであるアーユスが生まれます。プルーラヴァスの生殖能力は、雷によって象徴されているのです。雷から火が生まれることも、容易に理解されますが、アーユスこそ、儀礼における火です。「裸体を見せない」という条件は、逆に見れば、時期が来るまでは生殖能力を発揮しないということでしょう。神話や昔話においてタブーとなっていることは、しばしば物語を成立させるためのカギになります。雷が生殖能力の象徴であるのは、インドラという神のシンボルが、雷に由来するヴァジュラ(仏教では金剛と訳します)であることからも想像できます。インドラはヴェーダを代表する勇壮神ですが、それと同時に好色な神としても知られます。話は飛びますが、密教ではヴァジュラに相当する金剛杵を男性原理とみなしたり、それを手にする普賢菩薩を安産祈願の仏にしたり、雷の生殖機能を意識した考え方が随所に現れます。昨年の仏教文化論では、このようなことをテーマにしました。

フィールドワークを中心とする民俗学、史料中心とする歴史学、どちらかだけではなく、両方用いたら、あらたな学問ができるのではと感じた。
たしかにそうなのですが、そんなに簡単にはいかないのが、学問の世界です。インド学では20年ほど前から、人類学者と文献学者(古典研究者)のあいだで、学際的な共同研究が盛んに進められましたが、それほど大きな成果を上げずに今では下火になっています。私自身もそのいくつかに参加した経験がありますが、現在ではあまり魅力を感じていません。研究発表自体は興味深いのですが、それを自分の研究に生かしたり、あるいは、共同で何か新しい成果をあげるというところまでにはなかなかつながらないのです。おそらく、フィールドワーカーと文献学者は、最終的にめざすところが決定的に違うのではないかと思っています。これを、比較文化の故島先生は、インド学の学際的研究のドレッシング説と呼んでいました。サラダ油と酢をどれだけ混ぜても、しばらくたつと元通り、分離してしまうイメージです。金沢大学の人文学類では、フィールド文化学という分野がたてられ、私もそのメンバーですが、このような結果に陥らないようにと用心しています。

ウルヴァーシーの神話と「羽衣物語」が関係があるのですか。もっと調べたいと思います。それで、先生がヴェーダなどの名前を全部カタカナで書いていらっしゃるのは、気になりました。ローマ字で書けばどうでしょうか。
ウルヴァーシーと羽衣伝説は関係があるかもしれませんが、天界の女性と地上の男性の婚姻の物語は、広く世界中に見られると思います。日本でも羽衣伝説以外に、雪女や鶴の恩返しなどもそうです。結末が悲劇的であるのも、ほぼ共通しているでしょう。神話の伝承をたどるのはおもしろいのですが、エスカレートすると、単なる「似たもの探し」になってしまうので、しっかりした方法論が必要と思いますが。サンスクリットをカタカナで表記するか、ローマ字で表記するかは、やっかいな問題です。ローマ字の方が正しい表記ができるのは当然ですが、サンスクリット固有の記号がありますし、読み方もただしくできないかもしれません(ほかの言語にくらべればずっと簡単ですが)。カタカナ中心で、必要に応じてローマ字という方針で進めることになると思います。

真実語が誓願になるのはわかりますが、それが加持祈?になるのは飛躍があるような気がします。加持祈祷というのは、本質は呪文を唱えることにあるかもしれませんが、その他の動作や祭場も含めた言葉のように思えるので、儀礼の要素がまた入ってくるのではないでしょうか。真実語→誓願→真言という理解では間違いがあるのでしょうか。
たしかにそのとおりですね。真実語は言葉そのものを指すので、それに対応するのは真言や陀羅尼なります。誓願は言葉ですが、同時に誓願するという行為も指します。それに対応する密教儀礼が加持祈祷ということになります。真実語の場合、特定の儀礼や儀式の名称ではないので、真実語を唱える呪術的行為が出発点になり、それが誓願という性格が与えられて、さらにそれにふさわしい形式や場所をともなうようになると、儀式化され、その流れをくんで、密教儀礼としての加持祈祷が現れるということになるのでしょう。その中の言葉として、意味よりも音を重視する真言や陀羅尼に、重要な役割が与えられていることになります。しかし、真言とはマントラのことで、マントラ自身はヴェーダ祭式において神々に唱えられる言葉を指す語です。言葉が儀式を動かすというパターンが、密教儀礼ではふたたび姿を表すのです。


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