インドと日本の仏教儀礼の比較研究

2008年10月9日の授業への質問・回答


儀礼という形から見る文化の相互関係、相互作用の流れ?もしくは大きなフィールドの動きのようなものがあるのだなと思ったが、文化のソースをどこにたどるのかということは、日本に限ってもむずかしいことなのに、インドから中国から日本という大きな世界の中で考えることは大変。
そのとおり、たいへんなのですが、それがおもしろいということなのでしょう。起源や流れをたどるという作業は、歴史的なつながりを見つけることですが、このあいだのように、インド、中国、日本というように広範囲の地域を対象にすると、歴史学のような厳密さがなかなかともないません。しかし、文化の大きな枠組みや個々の文化の特色などは、細かいところを捨象してしまっても、大きなスケールの中から見つかるような気がします(私自身は、ほき内傳に見られた南北の間違いのような細かいところも好きですが・・・)。この半期の授業では、儀礼を手がかりにそのような文化の枠組みや特色をいくつか示してみたいと思います。それを補うためにも、日本史や東洋史の学生の方などで、関連する文献などの詳細な情報をお持ちでしたら、教えて下さい。前回の内容の場合、陰陽道の文献で、ほき内傳とは異なり、職人巻物の内容とよく合致するような文献の存在とかです。

密教にヴァーストゥナーガの記述がないにもかかわらず・・・というのが本当に不思議です。中国で何かが起こったという説だと道教でしょうか。盤古は道教に出ていた気もしますし、道教と陰陽道でも共通点を見いだせるようにも思うのですが。
そうなのです。私も驚いたのは、密教にないインドの儀礼が、なぜか日本の神道や大工の儀礼に出てくるところなのです。授業では「千年前のインドの儀礼が、只見地方の山奥に伝わっているのがすごい」と言いましたが、じつはそれはむしろそれほど驚きではありません。インドの密教儀礼(あるいはその起源となるヴェーダの祭式に似た儀礼)が、現在の日本でも行われているのは珍しくはありませんし、授業でもこれから紹介していきます。それよりも、密教に欠落している儀礼が、突然そのようなところに現れたことに驚いたのです。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼として伝わる可能性が高いので、土地の浄化の目的で行われたはずなのですが、実際はインドの建築儀礼と近い目的で行われているのも驚きなのです。盤古については授業では簡単に触れただけですが、龍伏の儀礼を考えるカギになるのではとも思っています。道教、陰陽道、それに風水などがこれに関係する可能性があります。また、土公神や神楽もポイントです。土公神の神話では、世界を碁盤目に区切り、その四方に四季を配当して龍王の兄弟に分けて支配させたところ、五番目の龍の持ち分がないために戦争になり、調停にあたった神が四方から一部を削って、五番目の龍に与えて丸く収めたというのがあります。これは、神楽の重要な演目のひとつだそうですが、四季を土地の四方に配当することや、それを龍が支配することなど、ヴァーストゥナーガや龍伏とのつながりを想起させます。前回配布した私の文章は、とりあえずこのトピックのおもしろさを伝えるために書いたもので、もう少しくわしく調べて、きちんとした論文にしようと思っています。

土公神の龍伏では、体は一年かけて360度回転しているわけではなく、春から夏にかけて、また秋から冬にかけて180度回転してしまっている。そこが興味深いと思った。
よく気がつきましたね。私も龍伏とヴァーストゥナーガでは龍(ナーガ)の動き方が異なることが気になっています。ヴァーストゥナーガの場合、時計の針のように一年で1回転するのですが、龍伏はあっちを向いたりこっちを向いたりで、連続しません。夏と冬を逆にするなどして現在の順序を入れ替えると、ヴァーストゥナーガと同じように連続するので、あくまでも推測ですが、伝承の過程で、順序が混乱したのではないかと考えています。前回、黒板で紹介したように、体の部位を示す順序や方角が文献によって異なりましたが、そのような変更の中で、四季との対応がずれてしまったのかもしれません。

疑問に思ったのですが、ヴァーストゥナーガの儀礼にしたがって、インドの建築(家の入口とか)が決められていたということでしたが、家の入口はいつの時点でのナーガの位置に合わせて決めるのでしょうか。建てる前なのか、完成予定日なのか、入口を作るときなのか…。また、そうなると、家の入口が少しずつ斜めになっていって、町の景観がめちゃくちゃになると思うのですが、そこまでしてナーガの儀礼に従う必要があるのですか。それとも、ナーガで町の景観を壊さないようにする方法でもあったのでしょうか。
家を建てる時期によって、家の向きが変わってしまうというのは、私も疑問に思っている点です。ナーガの位置を確認するのは、建築儀礼の中できまった段階ですから、いつから儀礼をはじめるかで確定します。基本的には建てる前で、整地などをすませたあとです。家を建てる時期も占いなどで決定したと考えられますし、おそらく、季節によって建築に適不適もあったと思います(金沢でも冬場は雪が降るので不向きです)。それほどちゃらんぽらんには建て始めないと思いますので、それなりに統一感も生まれたのではないでしょうか。また、あくまでもヴァーストゥナーガの検査は形式的にすませ、実際は現実的な理由(日当たりとか道とか隣接家屋との位置関係とか)から、家の向きを決定したでしょう。マンダラの制作儀礼で、家の向きではなく、土地の浄化としてヴァーストゥナーガの儀礼を行ったのは、マンダラの家の向きはすでに確定しているので、それには用いずに、他の目的に転用したからではないかと考えています。

大工の秘伝書に古代インドなどに伝わる建築儀礼に通じるものがあるとは知らなかったので驚きでした。インドにおいては「僧院などを建立する際の建築儀礼」と資料にはありましたが、普通の人々の家を建てる際は、顧みられるものではなかったのでしょうか。また、この場合において、インドでその知識を持つものは「阿闍梨」だけで、大工にはその知識はなかったのでしょうか。今回の講義では、宗教と大工の意外な結びつきを見ることができておもしろかったです。
インドの建築儀礼は、大工の棟梁のあいだに伝わったようです。知識階級のバラモンも関与したようですが、基本的には大工の領域です。これは日本の「番匠秘書」などでも同様だったようで、お坊さんではなく、大工が自らさまざまな儀式を行いました。密教儀礼としてのヴァーストゥナーガの儀礼は、マンダラを作る一部なので、密教の僧侶である阿闍梨(文字通りには先生という意味です)が担当しました。インドでどの程度、建築儀礼が行われていたかはよくわかりません。おそらくすべての建造物というわけではなく、寺院のような宗教建築、あるいは王宮のような大規模建造物に限られていたかもしれません。インドは厳格な階級社会なので、バラモンやクシャトリアで、しかも裕福な者たちも行ったと思います。今でもインドの村落に行くと、驚くほど小さな家に人々は住んでいます。このような規模の家屋には、いちいち建築儀礼は行わなかったでしょう。

土地の浄化については、建物の下になる土中に木炭など有機物があれば、腐敗するし、石(現代ではコンクリート塊)などが埋まっていれば、まわりの土と地耐力が違い、不当沈下を起こす。ということで理にかなっています。曲尺の裏には、病、離などの文字が刻してあります。その使い方を規矩術と呼び、聖徳太子が伝えた(?)と大工は言っております。
インドの建築儀礼も理にかなっているようですね。ヴァーストゥナーガの儀礼に先立って、土地の選定と土地の判別という儀礼もあります。そこでも、いろいろな土地の条件が示されますが、おそらく実際の経験から蓄えられた知識なのでしょう。「番匠秘書」や三輪神社の「番匠の大事」には、そこで説かれる建築儀礼や作法が、聖徳太子の時代の奈良大工兵衛慰朝清という伝説の大工に帰せられています。おそらく、日本の大工の祖のような存在で、大工の権威付けに必要だったと考えられます。ところで、石川県や皆さんの地元の大工さんは「職人巻物」のようなものをお持ちではないでしょうか?もしあれば教えて下さい。

今日の授業はとてもおもしろかった。はじめてヴァーストゥナーガやプルシャの儀礼を知ったとき、コミカルな格好のおじさんや蛇が、四角の中に書き込んであって、それを守らないとたたりがあるとか、まことしやかに言っているので、すごく変だ、笑える、インドっぽいと思っていました。しかし、同じ儀礼が日本にも伝わっていたなんて、その時点で衝撃でした。今日は三輪流神道や密教や陰陽道の話も出てきて、それらがリンクしていたこともはじめて知りました。しかし、中国にはないとかで、ミステリー小説のようなどんでん返しがあって、久々に90分集中できました。ところで、途中でマンダラは神のすみかということをおっしゃっていたので思いつきました。矢口先生のヨーロッパ建築の授業の最初のトピックが、神の家をデザインすることだったのですが、ヨーロッパ人は人智を越えた存在を感じさせるために、巨大で荘厳な空間を演出するという発想に至った。ということが印象に残りました。しかし、インド・・・ヴァーストゥナーガやマンダラでの神の領域をプロデュースするときの着眼点は、そのような目に見えるところではなく、その領域の神聖さや正統性を重視することにあったのではないかと思いました。
私も、龍伏とヴァーストゥナーガについては、ミステリーのように思いました。日本とインドのあいだにブラックボックスがあり、そこがまだ謎のままなのですが、もしわかれば、さらにおもしろい展開になると思っています。宗教建築が神の家であるのは矢口先生のおっしゃるとおりで、キリスト教の場合、古代ローマのカタコンベなどは、まさにそのとおりだと思います。それを大規模化するときの発想は、「神が人智を越えた存在だから」という説明も可能でしょうが、ほかにもいろいろあげることができます。たとえば、神の家ではなく「神の国」すなわち天国を地上に再現することもあったでしょうし、教会の構造を「神の身体」と重ねたり、十字架との構造の一致をめざしたこともあったでしょう(専門ではないのでよくわかりませんが)。インドの場合、たしかにそれとは違う発想があると思います。他の授業でも紹介しましたが、インドでは神やそれに関わることを、リアルには表現できないと最初からあきらめてしまう傾向があります。もちろん、神の家や神の国は、寺院などとして再現したいのですが、それを規模や豪華さで示すのではなく、単純化したシンボルなどで表すことの方が多いようです。東南アジアではアンコールワットやボロブドゥールのような大規模な「神(あるいは仏)の世界」があるのに対して、インドではそれに匹敵するものがありません。お椀を伏せたようなシンプルなストゥーパや、さらに小規模にして、円と四角だけでつくりあげるマンダラになってしまいます。

龍の体の部位や方角、季節の組み合わせがまるで暗号のようで、正直よくわからなかったが、今日の講義の内容が、シンポジウムでの発見だったということに驚かされました。どこに何がひそんでいるのかわかったものではない、もしかしたら意外に宝はすぐ傍らに転がっているのかもと漠然と思いました。
話が複雑なので、授業だけではわからなかった人も多いと思います。配付資料の文章を読んで、理解してみて下さい。論文や授業のネタになるような宝が、どこにでもひそんでいるというのはそのとおりです。それだから、わざわざいろいろな学会やシンポジウムに参加して、最新の情報を入手するようにつとめているのです。比較文化のセミナーの授業では、いつも学生の皆さんに「質問をするように」と言っているので、私もこのシンポジウムではヴァーストゥナーガとの関係で、その時点で気がついたことをコメントとして発言しました(陰陽道などについてはその後で調べました)。そのときに、儀礼と文献との関係についても、インド学の立場からいくつか指摘したのですが、今回の授業でとりあげる「儀礼とテキスト」の基本的な考えも、そのときのコメントに由来するものです。


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