ヒマラヤと東南アジアの仏教美術

2008年7月14日の授業への質問・回答



インドの神話とギリシャ神話とで、通じるものがたくさんあっておもしろいなと思いました。ヨーロッパとインドはそんなに近くないと思うのですが、文化の交流があったんでしょうか。
ヨーロッパとインドは、たしかに距離では近くないのですが、民族や言語的にはとても近いです。世界史などで習ったと思いますが、インド=ヨーロッパ語族(印欧語族)というのがあって、インド、中近東、ヨーロッパにひろく分布しています。もともとは小アジアのあたりが印欧語族の起源と考えられ、それがこの広大な範囲に拡散したと言われています。言語学の誕生は、この印欧語族の研究から始まりました。とくに、ウィリアム・ジョーンズがサンスクリットに、ギリシャ語やラテン語との共通性を見いだし、それを公にした有名な講演が、言語学(とくに比較言語学)の始まりといわれています。1786年のことです。英語やフランス語、ドイツ語などのヨーロッパ系の複数の言語を学ぶと、その共通性にすぐ気がつくと思いますが、同じようなことが、多かれ少なかれ、サンスクリットをはじめとする他の言語でも見いだせます。このあたりのことを手軽に知るには、以下の風間先生の本が適しているでしょう。
風間喜代三 1978 『言語学の誕生 比較言語学小史』岩波新書。
風間喜代三 1987 『ことばの生活誌  インド・ヨーロッパ文化の原像へ−』平凡社。
風間喜代三 1990 『ことばの身体誌  インド・ヨーロッパ文化の原像へ**−』平凡社。
神話の比較研究も、言語の比較とともにおこなわれました。とくに19世紀後半は比較神話学が隆盛で、それが昂じて仏陀もキリストも太陽神になってしまうというような乱暴な説も登場します。それはともかく、印欧語族は共通の神話を持っていることが早くから知られ、とくにフランスのデュメジルによる三機能説などは、神話学以外の分野にも大きな影響を与えました。デュメジルについては、日本の神話学の吉田敦彦氏が積極的に紹介してきましたが、最近、ちくま文庫から主要な著作の翻訳が出て、容易にその内容に触れることができるようになりました。なお、授業でも言及しましたが、印欧語族やその神話の共通性から、「アーリア人」という概念が拡大的に用いられ、民族優劣主義が生まれ、ナチスによるユダヤ人迫害の根拠などにもなりました。いわゆる「アーリア神話」です(この場合の神話は別の意味です)。単なる学問的なレベルにとどまらず、人類史に大きな影響を与えた考え方であることにも、注意が必要です。

ヴェーダが四種類あるというのは知っていたのですが、その中にさらにさまざまな書が含まれると知り驚きました。また、アスラ対デーヴァについて、インドではデーヴァが主流で、よい神とされるのに対し、イランの方では逆にデーヴァは悪とされるという、価値の反転が起こっているのがおもしろいと思いました。
ヴェーダという用語は、高校の世界史や倫社で勉強した人が多いと思いますが、ぜひ、そのときに、前回のような説明を、簡単にでもしてもらえるといいのですが・・・。ヴェーダ聖典は巨大なテキストの総称であるということです。そして、それが祭式、つまり儀礼を中心とした体系を構築していることも、あわせて知っておく必要があります。もう一つ重要なこととして、このようなテキストが、文字に表されたのではなく、すべて口承で伝えられたこともあげられます。ヴェーダが文字化されたのは、ずっと後のことです。同じことは、初期の仏典やマハーバーラタなどの叙事詩の場合も同様です。テキストの成立とその文字化には、時代的に大きなギャップがあるのです。デーヴァ対アスラという図式は、インドの神話でもっとも好まれたパターンです。アスラはいつも敵役ですが、アスラがいるからはじめてデーヴァの活躍が物語になるのです。これについては、私の『インド密教の仏たち』(春秋社)の第二章で取り上げているので、読んでみてください。密教の大日如来(その前身は大乗仏教の毘盧遮那如来)のヴァイローチャナも、アスラの王の名として、古くから知られていました。それを手がかりに、インドの神話を縦横に駆使して、仏教とヒンドゥー教の神話の交渉を扱っています。ただし、イラン系の神話まで視野に入れられれば、さらにおもしろくなったのですが、そこまでは手が出せませんでした。

ヒンドゥー教では海を渡るのは不浄(不吉)といわれていた(いつか、きちんと調べたいとは思っているのですが、まだ手つかずです・・・)はずなのに、なぜ、インドネシアに渡ることになったのでしょうか。
私も、そのようなタブーを聞いたことがあるので、不思議ですね。ひょっとすると、それはヒンドゥー教一般の規則ではなく、バラモンにのみ関係するタブーだったのかもしれません。バラモン、すなわち聖職者は、家庭祭式を毎日おこなうことが定められていたので、旅行も自由には行けませんでした。ヒンドゥー教の神のイメージを伝えるのは、バラモンではなくてもいいでしょうし、交易商人たちはむしろ、自分たちの信仰の対象を、つねに身近なところに置いておきたかったと思います。また、実際に像を造るのは職人であり、ジャワ島で仕事があると知れば、新天地を求めて海を渡ったかもしれません。いずれも想像なので、自信はありませんが。

インドの神は唇が厚く、鼻が低い。インドネシアの神は太っている。日本の神は淡泊な顔立ちであると思いました。他の地域から伝わったものでも、それがそのまま現れるのではないのだと思いました。
それぞれの地域のイメージについてのストレートな表現は、興味深いです。たしかに、地域によってさまざまな様式の変化が現れるでしょう。伝わった当初は外来的なイメージが消化されずにそのまま現れるところが、次第にこなれて、各地域の独特の様式に変化するのが見られます。今回取り上げる予定のクメール(カンボジア)の仏像などは、これまで以上にそれが顕著です。久しぶりにチベットの仏画を見ると、意外にチベットのは日本に近いような感じがするかもしれません。どのように変化したのか、それは何が要因となっているのか、何を残して、何をあらたに加えたのか、などを考えることが、それぞれの文化理解にもつながるでしょう。

動物が生き生きと表されていて、とても人間らしくかわいく感じました。人間らしいといえば、日本にも鳥獣戯画がありますが、動物を擬人化する表現は普遍的に見られるものなんですか。
たしかに鳥獣戯画が有名ですが、動物を擬人化するのは、日本では必ずしも一般的ではないような気もします。実際、鳥獣戯画以外に、動物を主人公とする芸術作品はあまり知られていません(絵巻に数種あります)。インド神話やインド美術、さらに、その影響を受けたインドネシアの美術の場合、動物が現れるのは、神々が変身したもの(ヴィシュヌのヌリシンハや亀など)、神々そのもの(ハヌマーンやナーガたち)、さらに神々の眷属や乗り物(ガルダ、ライオン、水牛)などの場合があります。いずれも、鳥獣戯画のウサギや猿とは、かなり趣が違います。なお、鳥獣戯画は正式名称は鳥獣人物戯画で、ウサギやカエルや猿が登場する有名な巻以外にも、他の動物をいろいろ描いた巻や、人間の風俗を描いた巻などがあります。比較文化の研究室に、全巻の復刻版がありますから、興味のある人は見てください。

水牛を殺す神というのが印象に残りました。何かを殺す神とか、破壊をおこなう神とか、やはり神が畏れるべき対象としてあるのだと思いました。それは神に救いを求めるキリスト教などとは異なるものだと思いました。文献を読むと、やはり救いを求めるのではなく、何かをもたらしてくれるよう願う神という感じで、神のいる意味というのは文化によってずいぶん違うと思いました。できあがった根本は似ているのかもしれませんが・・・。
神のあり方はむずかしい問題ですね。古今東西の宗教学や神学が、それを考察し続けてきました。そんなに簡単にわかるものではないのでしょう。たしかに、インド世界の神々とキリスト教の神はずいぶん違います。しかし、インドにおいても、ヴェーダの神々と、ヒンドゥー教の神々、とくに最高存在とされるシヴァやヴィシュヌとでは、性格も機能もずいぶん違います。水牛を殺す神は女神ですが、それも同時代の男性神とくらべると、独自の性格を持っています。でもそれは、キリスト教世界でも、キリストとマリアの役割分担や、ユダヤ教の神々との違いという形で、よくにたパターンが見られるかもしれません。質問文中にある「何かをもたらす神」と「救いを与える神」と「畏るべき対象としての神」という分類は、かなり蓋然性を持っていると思います。いろいろ考えてみてください。

高校時代に世界史でラーマーヤナとマハーバーラタは名前だけは覚えていたが、内容は全然知らなかった。それにしても、「神」はどうしてさまざまな姿と名前を持つものだろう。シヴァの妻(パールヴァティー、ドゥルガー、カーリー)は全部、同一人物なんですよね。
ラーマーヤナもマハーバーラタも、名前だけではもったいないので、ぜひ、本文も読んでみてください。マハーバーラタはちくま文庫から上村勝彦先生の翻訳で読めます。最終巻に至る前に、上村先生がお亡くなりになったのは、残念なことです。現在、その門下生などで刊行の準備が進められているそうですが、なかなか刊行されません。ラーマーヤナは日本語の全訳は残念ながらありません。東洋文庫ではじめの部分が岩本裕先生の訳で出ていますが、こちらも一巻と二巻だけ出て、岩本先生がお亡くなりになりました。かなり前に、抜粋(というか翻案もの)が河出書房新社から出ていす(河出世界文学大系 2)。これはOPACで調べたら中央図書館の書庫にありました。内容を知るだけであれば、これも役に立つでしょう。女神の名前については、本来は別の女神であったものたちが、シヴァの妻に統合され、同一視されたというのが、簡単な流れです。インドではこのようなグローバル化(?)が神話の世界では頻繁に起こります。ローカルな小伝統が汎インド的な大伝統に呑み込まれていくのです。


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