ヒマラヤと東南アジアの仏教美術

2008年6月23日の授業への質問・回答


青い色がとてもキレイ。「ミラレパとその生涯」がいちばん好きです。日本人が好きな色彩だと思います。着物にしたら美しいだろうなぁ。カタログ化面白いです。少しずつ違うのですね。パッと見たら同じものに見えてしまいますが、先生は区別がついているのでしょうか。まちがい探しみたいです。
私にとって「ミラレパとその生涯」のような作品は、チベット美術としては特異な色遣いなので、変わったものとして紹介したのですが、おっしゃるとおり、日本人(とくに現代の)にとっては好みの色彩感覚なのでしょうね。パステルカラーっぽい色や中間色が見られ、原色や暗い色が中心のそれまでのチベット美術よりも、親しみを感じるのでしょう。着物の柄という発想はありませんでした。カタログ化は、17世紀以降の時代のチベット美術のひとつの傾向として、とくに取り上げました。図像集があるのはチベットに限られないのですが、ここまで徹底して集め、さらにそれを分類し体系化するところが特別なのです。ここで見られる仏のイメージの画一化は、じつはインドの密教美術でも見られます。チベットはそれを受け継ぎ、さらに徹底化したと考えていますが、そこに、美術の様式の変化とリンクする要素があるように思うのです。パッと見て同じように見える仏たちは、私にも同じように見えます。でも、細部を見ると違いがわかるときもあります。また、図像集の場合、下に名称が記入されているので、それを手がかりに違いを探します。『五百尊図像集』や『三百尊図像集』に見られる、版による違いは、ほとんど間違い探しの世界です。でも、そういう細かいところの発見が、大きな事実の解明につながることがあります。(もちろん、そうならないときも多いです)

・立体マンダラというものがあることを知って、驚きました。仏単体にとどまらず、仏の世界全体を立体的に表現するという発想は、この時代の仏教美術制作者が、全体を見渡す視点を持ち得たことと通じるのではないかと感じました。
・マンダラを立体で表現しようとする中国の気概がすごいと思いました。ただ、何となくですが、立体は全体が一度に見にくいのもあるかもしれませんが、私には平面に大きく広がっているマンダラの方が、迫力があるように見えました。白描図は色がなく、雰囲気が見にくいですが、模様などを見るためには見やすいなと思いました。
立体マンダラは私もおもしろいと思います。別のところに書いたことがありますが、私はこれを「神々のドールハウス」と呼んでいます。(ご存じだと思いますが、「ドールハウス」というのは、欧米のお金持ちの子どものおもちゃだったものです。日本では「シルヴァニアン・ファミリー」という動物中心のものもあります。これなら一般庶民も買えます)。立体マンダラをはじめて見る人は、たいてい驚くのですが、私は「ウソっぽい」と思ってしまいます。これは、インドや初期のチベット美術に、このような立体マンダラがないことにもよります。たまたま作らなかったのではなく、そのようなものを作る必要がない、あるいは、マンダラが立体的に表されるわけがないと彼らが考えていたからだと思います。インドの人々にとって、宇宙や神々の世界は、具体的なすがたかたちを持つものではなく、もっと象徴的に表されるものだからです。チベットで立体マンダラが現れたのは、先週とりあげた17世紀以降のことと思います。はじめのかたの指摘にもありますように、そのころのタンカの表現が、従来の尊格中心のものから、景観の中にちりばめた鳥瞰的なものへと変化したことと、これは関係があるのではないかと考えています。すべて、同じ結論になってしまいますが、中国の芸術のリアリズムのようなものが、タンカの形式を変え、マンダラを立体化し、尊像をカタログ化したのです。ただし、あまりに中国の影響を過大評価しすぎているかもしれません。チベットの内在的な要因も考えるべきかとも思っています。白描図が模様などを見るのに便利というのは、そのとおりでしょう。だから、イメージのカタログとして、集会樹のような他の複雑なテーマのタンカを描くときに、用いられたと考えられます。

ミニ・ポタラ宮の話題について、乾隆帝がミニ・チベットを作ろうとしていたというのは興味深かった。どうしてそのようなものを作りたかったのだろうか。やはり、宗教的考えがあってのことだろうかと思った。
清朝の歴代の皇帝たちは、熱心なチベット仏教徒たちでした。それは、明代やその前の元代からすでに始まっています。そのことは、単に敬虔な仏教徒だったというだけではおさまらなかったでしょう。日本でもそうですが、仏教は国家のイデオロギーとして、しばしば有力な思想となります。国家統治の理論と、そこに君臨する王のイメージとして、仏教はきわめて便利だったからです。そのあたりのことは、私はあまり詳しくないのですが、清代の国家イデオロギーとしてのチベット仏教については、早稲田大の石濱さんのつぎの本が決定版です。
 石濱裕美子 2001 『チベット仏教世界の歴史的研究』東方書店。
それとは別の次元ですが、チベット仏教の修行法や悟りの境地が、皇帝をはじめとする清朝の貴族たちを魅了したこともよく知られています。以前に見たベルナルド・ベルトリッチ監督の『ラスト・エンペラー』の中で、溥儀たちが紫禁城から立ち退きを強いられたときに、何百人というチベットのラマ僧が紫禁城の庭で整列して、嘆いていたシーンがありました。宮廷の中に、そのくらいたくさんのラマ僧がいたのです。

白傘蓋仏母はとてもきれいなので、頭の後ろの赤や白がすべて顔だと聞いて、びっくりしました。18世紀の絵画は色づかいにとくに力を注いでいるように思われました。また、どの絵も躍動感にあふれいていて、見ていておもしろいです。背景に建物なども入ってきて、より人に近い存在に感じられました。さまざまなシーンを一枚の絵にまとめてストーリーをなすことは、すごく変わっていると思うのですが、この方法は、仏教絵画に独特なことなのですか。明・清代の彫刻は豪華ですね。
白傘蓋は驚きですね。この形式のタンカはチベットで好まれ、多くの作品が残っています。私も学生の頃にはじめてみたタンカの本(その名も『タンカ』同朋舎)に、白傘蓋がたくさん掲載されていて印象深かったです。顔も手も足も、ほとんど模様ですね。新しい時代のタンカの方が、親しみやすいというのは、多くの方の共通した印象かもしれません。逆に、これまでの授業で取り上げてきたタンカや壁画が、われわれの持つ仏教絵画のイメージから、かなりかけ離れたものだったのかもしれません。それが、インド的、ネパール的、カシミール的、などと呼んできた形式でもあるのですが。説話図が複数のシーンで構成されるのは、けっして特別なことではないと思います。日本でも釈迦八相図、涅槃八相図などのように、一枚の大画面に複数の場面(この場合はいずれも8つ)を描いています。その場合、切れ目はほとんど表されず、全体がひとつの景観になっています。それ以外にも、観音経絵図や法華経曼荼羅などにも、同じような構図が見られます。さかのぼれば、インドのアジャンタ石窟に、やはり大画面にさまざまな場面を描いた壁画がたくさん残されています。日本の場合、絵巻物という形式が流行しますので、このような大画面も、その影響を受けます。つまり、親鸞聖人絵伝や法然上人絵伝のような、高僧の生涯を描いた絵図には、画面を水平の区画に等分し、絵巻を下から上に重ねたように描きます(不思議に、上から下ではなく、必ず下から上です)。このような説話図の形式をくらべてみても、おもしろいですね。

集会樹などはコラージュだといっていたけれど、図像集はコラージュを作るための素材集のようなものなのでしょうか。図像集は信仰のためというよりも、画集のような個人的に見て楽しむという性格なんでしょうか。
素材集としても用いられたと思います。実際、集会樹のひとりひとりの人物表現などは、図像集からそのままコピーされたようなものもあります。しかし、図像集がまったくそのような絵画制作の実務的なものだけであったかは、よくわかりません。『五百尊図像集』は、「成就法集」という文献がベースになっています。成就法とは仏の瞑想をするためのマニュアルで、図像集はその具体的なイメージを、あらかじめ知っておくための便利なカタログだったようです。清朝の皇帝や貴族たちが灌頂を受けるために作られたということも伝えられています。灌頂という儀礼では、灌頂を受けるものが仏のイメージを瞑想しなければなりません。そのときにも参照されたのでしょう。実際、チベットの仏教美術の分野でも、図像集の研究はあまり進んでいません。ここであげた以外にも、いろいろや機能がこれからも見つけられるのではないかと思います。


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