ヒマラヤと東南アジアの仏教美術

2008年5月12日の授業への質問・回答


大日如来の画を見たときに、くびれたウェスト、小顔、細いマユ、アイラインや口紅といった化粧をしているかのように見える特徴から、女性かと思ってしまいました。素朴な疑問なのですが、仏教で描かれているものには、手が何本もあったり、顔が何体もあったりするものが多いような気がするのですが、なぜでしょうか。あと、座ったものを描くときは、なぜあぐらなのでしょうか。
ラダックの壁画の仏たちは、皆、女性的な雰囲気を持っていますね。当時の人々にとっての仏のイメージが、女性的な優美さと通じていたからでしょうか。逆に、女性と男性とを区別するための特徴があまり明確ではなく、独特の髪型や装身具、乳房の有無などに限定されます。顔や腕が多いのは、密教系の仏の特徴で、日本でも明王や変化観音などにしばしば見られます。理由はよくわかりませんが、われわれ人間と異なる姿を持つことで、その特殊性、崇高さが強調されると考えたのでしょう。インドではヒンドゥー教の神々に、このようなイメージが広く見られます。シヴァ、ヴィシュヌ、ドゥルガーなどです。そこではとくに密教的とか、グロテスクとかは意識されていません。座った姿は「結跏趺坐」(けっかふざ)といい、あぐらではありません。座禅をしているときの足の組み方です。仏は悟りの境地に到達しているので、それにふさわしい坐法として、このような静穏なポーズをとるのです。逆に、多くの菩薩はわざとそれを少し崩した坐法(半跏坐や遊戯坐)をとります。

女性形の大日如来の額には、縦長の模様(化粧?)がありましたが、前ページの大日如来の額にも丸い模様らしきものが確認できました。こうした描きわけは、他の絵画でも同じなのですか?また、縦長と丸という形には何か意味があるのですか?
大日如来の額の丸は、おそらく白毫を表したものです。仏の三十二相のひとつで、日本の仏像でもしばしば見られます。女性形の大日如来の額の模様が、縦長の独特なものであるのは、私も気になっていましたが、よくわかりません。女性の装飾(化粧)のひとつかと思います。ターラーや般若波羅蜜にも同様なものがあります。額の中央に装飾をするのは、インドでよく見られます。よく知られたものでは、特定の宗派の行者や僧侶が、その宗派のシンボル(たとえばシヴァ派であれば三叉戟)を額に描きます。額の中央というのは、なにかエネルギーが集中するところのような意識があるのかもしれません。

腕が複数ある像(絵)について、肩の方から出ているのと、ひじの方から出ているのでは役割などに違いがあるのだろうか。
絵の場合、重なってしまうので、肘から出ているように見えるのですが、実際は肩から出ていると思います。このような多臂の像の典型は、日本の千手観音ですが、バランスよく付けるだけでもたいへんな上に、腕がもげてしまったり、上半身が大きくなりすぎて不安定になったりと、仏師にとって至難のイメージです。

図像集のオリジナルはたしかにアレンジされたものより見にくく感じたけど、とても動きがあってよかったです。図像集の仏たちは、女尊に限らず、どの仏も胸が豊かに見えますが、女尊以外はすべて男性なんですか?両性具有でしたっけ?忿怒尊はよくわかりませんが、どの仏もとてもセクシーに見えます。手がポイントなのでしょうか。ラダックの壁画の人物はどれも耳がすごく長いのですが、それもラダック固有の特徴ですか。
三百尊図像集のオリジナルと描き起しの比較は、チベットのイメージをヨーロッパ人(この場合はロシア人)がどのようにとらえたかという点でもおもしろいですね。三百尊図像集の仏たちは集会樹にも登場します。そのときにまた取り上げたいと思います。仏教美術に見られるエロス的な表現については、昨年度の後期に「エロスとグロテスクの仏教美術」という授業をしました。私にとっても気になるテーマです。なお、仏教の仏は原則として男性か女性かのいずれです。残念ながら両性具有はいません。耳たぶ(耳朶<じだ>といいます)が長いことは、ラダックを含め、多くの仏像に見られますが、仏の身体的特徴である三十二相には含まれていません。しかし、日本でも「福耳」という言葉があるように、長い耳朶には何か独特の力が感じられるようです。

インド的や西アジア的等、わかるようでよくわからない。
たしかにそうですね。私も具体的な説明をしていませんでした。インドについては今回の授業で少し作例を紹介しながら説明するつもりです。西アジアやペルシャなどの特徴は、漠然とした印象でしかありませんが、小ぶりの頭やするどい目鼻立ち、独特な横顔、痩身といった身体表現や、衣装、装身具に見られる様式、さらに、背景の装飾文様やモチーフなどがあげられるのではないでしょうか。

ラダックの仏教美術の特徴は、仏像を平面上に表現したことによるものという説明がありましたが、なぜ、ラダックでは仏像をもとに絵画を描いた作品が主流になっているのですか。
とくにラダックでそうだったわけではなく、彫刻と絵画がしばしば相互に影響を与えあうということです。対象を彫刻として表現する場合と、絵画として描く場合に、共通したデフォルメの方法や様式が現れるということです。ところで、彫刻と絵画は芸術作品のもっとも一般的な表現形式ですが、その表現方法は両者で大きく異なるはずです。いうまでもなく、彫刻は立体であり、絵画は平面だからです。本来、表現される対象は立体的ですから、それをそのまま立体で表すのと、平面に置き換えるのとでは、まったく異なる原理やプロセスがあるはずです。絵画はすべからく一種のだまし絵とも言えるかもしれません。しかし、それにもかかわらず、彫刻と絵画が共通する形式や様式を持つことがあるのは、おもしろいことだと思います。

大日如来の女性尊像は日本にあるのですか。
大日如来が女性の姿をとるのは、金剛界マンダラの羯磨マンダラと呼ばれるものだからです。このマンダラは日本の金剛界マンダラでは九会の供養会に相当します(中段の左)。しかし、日本では女性的な表現がとられることはありません。おそらく、そこには日本の仏教美術における女性像の冷遇というか軽視があるのでしょう。なお、金剛界マンダラや羯磨マンダラについては、私もあちこちで書いていますが、近著『マンダラ辞典』でも簡潔にまとめています。

私がインドでテンプルクロスの技術を学んでいたときに、男性を表現するところに、余計な布を描き加えたために「女性になったよ」と指摘されてしまいました。デザイン上、男性と女性の表現が基本的にわかれていることに比べ、今日の大日如来などは違うのだなと実感しました。図像を見てディスクリプションを行うことで、改めて、自分が対象とする布との違いが明確になるので勉強になりました。
実際に制作をされる方のコメントは、私にとっても勉強になります。いろいろ教えてください。作品を見てディスクリプションを行うのは、美術史の分野ではとくに重要です。一般の人は美術作品を前にしても、見ればわかると思ってとくにそれを説明することなどしませんが、じつは大きな違いがあります。見ているつもりでも見えていないことがたくさんあるのです。「百聞は一見にしかず」というのは、美術史では当てはまりません。一見では見落とすことがたくさんあるからです。少なくとも、漫然と見ることと、注意深く見ることと、さらにそれを言葉に置き換えることの三つの段階が、まったく異なることを自覚する必要があります。とくに、最後の「言葉に置き換える」ことで、対象はクリヤーに浮かび上がってきます。言葉にするというのは、人間にとって、対象を捉えるもっとも有効な方法なのでしょう。それと同時に、作品のイメージが記憶にもしっかり定着されます。

スライド9の「大日如来」は、手の形が合掌しているようには見えません。指を手で押さえているように見えました。
大日如来の印は智拳印で、合掌ではありません。たしかに指を手で押さえているように見えますが、左手の人差し指を右の掌で軽く握っているという形です。日本の金剛界大日如来でも共通します。最近話題になった、アメリカのオークションで日本の宗教団体が購入した運慶の大日如来像もそうでした。

たしかにオリジナルの刷りは悪かったですね。加えたり、直したくなる気持ちもわからないではないですが、そんなことをされるとややこしいですね。アルチ寺の天井装飾はたしかに西アジア的ですね。下段にグリフィン(グリフォン)のようなのがあるのが私的に気になりました。絵画の様式も詳しく見るとおもしろいですね。たしかに言葉にしないとわからないなと思いました。
グリフィンに見えるのですが、頭部が鶏かオウムのような鳥で、何だか変な動物です。グリフィンについては、今、奈良博で開催中の「天馬展」でいろいろな作品が来ています。シルクロードを中心に、ギリシャ、ローマ世界から日本の密教美術まで、スケールの大きな展覧会です。私も先週見てきました。招待券が数枚ありますので、希望者にはおわけします。

三百尊図像集は多すぎて逆によく分類したなと思いました。仏教美術の作品ひとつひとつに表現されたパターンの共通点が、まるで申し合わせたかのようでおもしろかったです。あくまで主題はインドの仏教であるのに、モチーフに西アジアの文化が混ざって現れているのも、当時の文化の反映なのだと思いました。
たしかに、同じ主題が異なる様式で表されるのが、仏教美術の魅力ですね。同じ主題が地域や時代でどのよう表されるかで、それを生み出した仏教のあり方や人々の考え方を読み解くことができるのです。


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