ヒマラヤと東南アジアの仏教美術

2008年4月28日の授業への質問・回答


サキャパンディタとパクパのやり方はとても賢いと思った。仏教とは多神教であるが、自分が信仰している宗派以外の開祖などには、敬意を払わないのだろうか。また、信仰の対象とならないならば、仏教に影響を与えた歴史上の人物の位置づけはどうなっていたのだろうか。
サキャパンディタはチベット史上、最も重要な人物のひとりでしょう。彼によって、その後のチベットの生きる道が決まったような存在です。パクパは、世界史でおなじみのフビライ=ハンの先生にもなり、アジアの支配者のブレインだった人です。モンゴルの文字を制定したことも、彼の業績のひとつで、「パクパ文字」と呼ばれます。ただし、現在のモンゴルでは使用されていません。高僧の位置づけはむずかしいですね。特定の宗派の開祖は、その他の宗派の人たちから崇拝されることもあります。ニンマ派の開祖と呼ばれるパドマサンバヴァの像は、チベットではいたるところで目にしますが、ニンマ派以外のところもたくさんあります。パドマサンバヴァはほとんど伝説上の人物なので、チベット人共通の神話の登場人物のようなものでしょう。それはともかく、高僧の絵画や彫刻は、チベット美術で大きなウェイトを占めていますが、チベットの細かい歴史が前提となるので、なかなか本格的な研究が進んでいません。授業で取り上げる高僧も、そのごくわずかです。

ダライラマは歴代全員が同じ宗派ではないのですか? 今、現在のダライラマは、ゲルク派なのでしょうか。資料では神がクラスを超えるのは、時代によって変わるという説明がされてたかと思うのですが、宗派や国によっても変わるものなのでしょうか。
ダライラマは全員ゲルク派です。もともと、転生ラマ(活仏)制度というのは、特定の宗派の継続的な発展を目的にして生み出された制度なのですから、ダライラマの転生者が、突然、ニンマ派の転生ラマになったり、場合によってはキリスト教の聖者になったりしてはまずいのです(これからの時代は、なってもいいかもしれませんが)。転生ラマ制度の現実的な理由については、前回配布した小野田先生の資料や、田中公明氏の『活仏たちのチベット』(春秋社)に詳しいので、読んでおいてください。神がクラスを越えるのは、いろいろな場合に起こります。国によって変わるのはもっとも一般的でしょう。ただし、それは限られた仏で、ほとんどの仏たちはあまり変化しません。観音はインドでも日本でも中国でもチベットでも菩薩です。仏教の仏の歴史を長いスパンで見ると、一部の仏にそのような変化が現れるのです。金剛手や文殊などがそうですし、女尊の扱いも、ずいぶん違います。本来は異教の神であるヒンドゥー教の神々も、その位置づけはさまざまです。このような「クラスを越える仏たち」に着目すると、それぞれの時代や地域の仏教の特質が浮かび上がることがあります。

宗派のお話の際にいくつかの肖像画を見せていただきましたが、どの絵もひとりで描かれているものはなく、マンダラに近いものを感じました。開祖の肖像であるなら、単体で描いた方がわかりやすいと思いますが、そうすることには何か特別な意味や目的があるのでしょうか。パンテオンで「観音」は「変化観音」「観音」「八大菩薩内の観音」と3カ所にありました。それぞれが異なる観音なのですか。
高僧の肖像画はチベット仏教に固有の主題で、とくに興味深いものです。周囲に小さく他の人物や仏たちをたくさん描く形式が一般的です。これをマンダラ的と感じるのもよく理解できますが、じつは、本来マンダラには高僧のような歴史上の人物は登場しません。これはインドの仏教美術に、高僧や世俗の人物が現れないことと関係があると思います。マンダラの形式はチベットでも厳格に守られましたので、チベットのマンダラもすべて仏だけで構成されて、人間は現れません。しかし、タンカや壁画にマンダラを描くときには、そのまわりに人間を描くことが広く見られます。そして、マンダラの仏たちを、マンダラという枠組みから外して描く場合は、このような人間たちと混在させることになります。これもインドではありえなかった表現方法です。観音については、いずれも観音であることにはかわりはありません。単独で信仰される観音、変化観音と総称されるさまざまな特殊な観音、そして、八大菩薩のメンバーとしての観音です。このように観音にはさまざまな種類があるので、日本密教では「観音部」という独立したグループをたて、その他の菩薩と区別することもあります。

「神々の世界」の図がランクわけ、グループ分けされていて、わかりやすかったです。授業中に読んだ「パンテオン ??密教の神々」の中で、インドでは女性の神の人気が高かったが、日本の密教では女尊はそれほど重要視されなかったという部分が興味深く感じました。女性的な観音の人気が高いのだから、女性の神も歓迎されそうに思えるのですが。
女性の神や仏の扱いは、日本仏教をとらえるときに重要なポイントになると思います。日本に女神を崇拝する伝統がなかったわけではけっしてなく、たとえば、アマテラスは女神ですし、イザナミやオホゲツヒメなども古事記に現れる重要な女神です。山の神も多くはそうですね。しかし、仏教のパンテオンの中では、女尊という独立したグループは確立せず、天部の一部に女性の神が含まれる程度でした。弁才天や吉祥天、鬼子母神などがこれにあたります。質問でも言及されている観音が、女性のイメージをとるようになることが、これに関係するかもしれません。観音のグループがそのまま女尊のグループの役割を果たしているようにも見えるからです。もう一つ重要なことは、日本の仏のイメージで、女性の肉体を意識した作品があまりないことです。これはインド美術が、女性の肉体美を露骨なまでに強調する傾向が強いことと、大きな違いです。日本人の身体観や美意識に関わる問題でしょう。

神々の世界の図の、丸の大きさの違いは何を表しているのですか。図の中で中央にある方が徳が高いというか偉いのですか。秘密集会って何ですか。
丸の大きさはとくに意味がありませんが、重要な仏を大きめに表したり、中にたくさんメンバーがいることを表すために大きくなることがあります。丸の中の小円の位置にはじつは意味があり、マンダラなどでの位置関係を反映させています。たとえば、五仏で中央に大日がいるのは、マンダラで中央に描かれるためで、その他の四仏もその四方のきまった方角に描かれるため、図でもそれにしたがっています。中央にいるということは、他の仏とは格が違うので、「徳が高い」と見ても間違ってはいません。なお、変化観音の大きな丸の中は、小さな丸が無秩序に並んでいますが、これは変化観音の個々のメンバーは独立した存在で、集まってメンバーを構成したり、グループとしてマンダラに描かれることがないからです。秘密集会は後期密教の代表的な仏の名前です。『秘密集会タントラ』という経典に説かれる至上尊であるため、この名で呼ばれますが、阿?や金剛薩?と同体とみなされます。

チベット仏教という分野があるように、チベットの神の分野というものが別に存在するのか。日本の神仏習合のように、混在しているのかどうなのでしょうか。仏教以前の土着の神信仰があるような気がするのですがどうでしょうか。
チベット土着の神は大勢いるようです。仏教が導入される前の信仰されていた神々もいますし、導入されたあとも、その影響を受けながらあらたな神々も生み出されたでしょう。チベット土着の宗教というと、ポン教(ボン教)が有名ですが、この宗教はなかなかむずかしい存在で、その神々の大半は、仏教の仏を借用したものです。ポン教のパンテオンはきわめて人工的に作られているのです。仏教以前にもポン教はあったといわれますが、現在ではその伝統はほとんど残っていません。また、その頃は神々の姿を絵や彫刻で表すこともなかったようです。神や仏がいることと、そのイコンがあることとはまったく別なのです。その点では日本の神道も同様です。

サンヴァラの像はヒンドゥー教の神を踏んでいるとのことでしたが、ヒンドゥー教の神とチベット仏教の神は仲が悪いのですか?その辺が気になりました。ナクタンは怖い神を描くときに使われるとのことでしたが、マルタンはどんな神の時ですか。
サンヴァラはすでにインドで信仰されていた仏で、そこでもヒンドゥー教の神を足の下に踏んでいます。密教において、仏がこのような姿をとることは、かなり早い段階から現れ、日本にも作例がある降三世明王などはその代表的なものです。仏教とヒンドゥー教の敵対関係を示すようですが、実際はそれほど両者の関係は険悪ではなく、仏教側が勝手にそういう図像を好んで作っただけのようです。足の下に他の人物や動物を置くのは、ヒンドゥー教の神々でもしばしば見られ、そこでは敵対者ではなく協力者や配下の者だったりします。赤いタンカのマルタンは、敬愛という修法で用いられることがあります。これは本来、男女の関係を成就させるための修法で、安産祈願や子授けなどにも利用されます。赤は恋愛の色なのです。これに対し、黒は黒魔術ですね。怨敵退散や呪殺などがその目的です。調伏とか降伏とも呼ばれます。ただし、高僧のタンカでナクタンやマルタンもありますので、必ずしもこのような修法とつねに結びついていたわけではありません。

パワーポイントの18ページにある馬が描かれた護符ですが、ネパールの街でも山の方でも、色とりどりの旗に同じように牛や神様が描かれたものを見ました。あの周囲に書かれている文字はチベットのお経ですか。そして、それは中央に絵が描かれているものが違っても、同じ内容が書かれているのでしょうか。
護符に書かれているのは、いわゆる呪文です。仏教では陀羅尼とか真言と呼ばれます。それを含むお経もたくさんあります。絵とこれらの呪文の内容は、多くの場合対応していると思いますが、どんなものにも仕えるオールマイティな呪文が書かれていることもあります。私自身は護符については詳しくありませんが、海外の研究者には護符に関心を持つ人も多く、研究書が何点か出版されています。比較文化の研究室にも一冊入れてあります。プリミティヴな絵がなかなか魅力的です。見に来てください。

今日のお話でも「高僧」という言葉がたくさん出てきましたが、何をもって「高僧」とされるのでしょうか。現在の日本では高い位置にゆくには、お坊さんの試験があるようなのですが、やはりチベットの昔の僧の方々も試験をしたのでしょうか。
チベットの僧院制度は非常にしっかりしていて、その地位を上るためには何度も試験を受けなければなりません。そのために、問答を繰り返し、日頃から仏教の思想や哲学を理解し、身につける努力をしています。最終試験に合格すると「ゲシェー」という位に就きます。これはいわば博士号みたいなもので、なかなかそこまで行けるお坊さんはいないそうです。「高僧」という言葉は便利なので、よく使うのですが、チベット語にこれに相当する語はじつはありません。高僧図や彫刻などに表されているのは、多くは転生ラマで、とくに歴史的に重要な人物です。有名な寺院の歴代の座主などもいます。


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