エロスとグロテスクの仏教美術
2008年1月24日の授業への質問・回答
終わりにあたって
「エロスとグロテスクの仏教美術」と題した今期の授業も、無事、終了しました。いちおう、予定していた項目はすべて取り上げましたし、皆さんの出席率も良好でしたので、よかったと思います。皆さんのコメントにも「大学でこんな授業をしていいのか」というお叱りや、「スライドの絵や教員の話で不快になった」という苦情もなかったので、それも安堵しました(匿名にすれば、あったかもしれません)。
この授業は、今期がまったくの初めての企画なので、私自身、試行錯誤でした。それでも、はじめに組み立てた授業の構成が、いちおう最後まで維持できたのは、よかったと思います。一部のトピック、たとえばマトゥラーのヤクシニーの解釈や、シンハラ国物語は、他の授業でも別の文脈で取り上げたことがあったので、二回目の方もいらっしゃったかもしれませんが、「エロスとグロテスク」というとらえ方は今回が最初です。毎回、授業の前は準備におわれ、結局、消化不良のままで授業にのぞんだこともしばしばでした。そのため、授業で話しながら、結論を考えたり、場合によっては、どこにも落としどころがなかったりということもありました。おそらく、聞いている皆さんも、「よくわからなかった」という感想を持つ回も多かったと思います。学期の途中でも言い訳したように、「今、新しい考えが生まれつつある」ということで、大目に見てください。
授業全体を通じての、私自身のねらいは以下のような点でした。
(1) 仏教美術とは相容れないような「エロスとグロテスク」のイメージを、数多く知る。
(2) エロスとグロテスクは全く無関係ではなく、一方から他方に容易に転換する。
(3) エロスとグロテスクは、人間の生と死と直接結びつくテーマであり、宗教美術には不可欠である。
最終回の感想を拝見すると、いずれもある程度は理解いただけたようで、よかったと思います。ただし、これらは、私自身は授業の開始の時から念頭にあったねらいで、実際の授業では、それを超えるような新しい視点や枠組みを見つけたいと思っていたのですが、なかなか難しかったのが実感です。今のところ、授業の中で気になった疑問点としては、次のようなものがあげられます。
(1) エロスもグロテスクも、容易に「滑稽」に転換するが、そのメカニズムは何か。
(2) インドと日本で、エロスとグロテスクのあり方に大きな違いがあるが、それを明確にできるか。
(3) 説話のモチーフや図像のイメージを、インドから日本につなげることができるか。
(4) 根本的な問題として、人はなぜエロスやグロテスクにひきつけられるのか。
いずれも、明確な答えは出せませんでしたが、これからも考えていきたいと思っています。
私自身の反省点としては、最後の方で取り上げた日本の美術関係に、あまり深く入れなかったことがあります。私の専門と少しずれることもあって、一部の参考文献に頼ることが多く、その紹介に終始して、オリジナルな見方を示すことができませんでした。もう少し勉強して、あらためて取り上げたいと思っています。摩多羅神がマートリカーで、天川弁才天がチンナマスターという思いつきも、どこまで実証できるか関心があります。半期通して、立川流とダキニ天信仰なんていう授業もあっていいかと思っていますが、受講生にはついて行けないかもしれませんね・・・。
取り上げたテーマの中で一番印象に残っているのは、ちょうど中間あたりで登場した『観仏三昧海経』のエピソードです。自分の性器を誇示する釈迦や、娼婦への一種のハラスメントは、私も今回の授業で初めて知ったのですが、驚きました。エロスとグロテスクの不可分性という、この授業の第一のテーマにぴったりの内容でした。『観仏三昧海経』は、源信が『往生要集』を執筆するときに大きな影響を与えたことでも知られていて、日本の浄土教美術にも何か関係があるかもしれません(たまたま、今期は特殊講義で「浄土教の美術」をとりあげていました)。
今回の感想に「これまでに見たことのない絵や彫刻を、たくさん見ることができた」というものが多く見られました。おそらく大半の人も同じような印象をもったと思います。私自身、授業の準備で図版を探す過程で、このテーマに関する作品にはいろいろなものがあることに、改めて驚かされました。最初の回に、主にヨーロッパの美術における裸体像を中心に紹介しましたが、エロス=裸体という図式が、いかに一面的(しばしば男性的)であるかが、授業を通しておわかりいただけたのではないかと思います。あわせて、東洋の美術の多様性にも気づいたのではないでしょうか。世の中には、不思議なもの、おもしろいものがたくさんありますので、これからも広く関心を持ち、皆さん自身の研究に役立てていただけるとうれしいです。
最終回の質問や感想は、原則として全員の方のものを紹介しています。そのぶん、私のコメントはほとんどありませんが、この全体のふりかえりを、それに代わるものと思ってください。
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からみあうヘビが多産の象徴だと初めて知りました。私はヘビが苦手、かついいイメージがないので、ヘビを避けてしまいがちですが、インドでは大切にされているのかなと思いました。生と死も、エロスとグロテスクも、全く別のものではないと私も思います。境界があいまいだから、つながりがあるように感じるのではないかと思いました。がんばってレポートを書こうと思います。
仏教芸術のエロスとグロテスクには、常に生と死の概念がひそんでいる。普段は目にすることのない作品を鑑賞することで、愛と死のつながりと対比について考えることができ、とても有意義な勉強になった。西洋芸術にはみられない、東洋芸術独特の描写は、とても強いインパクトを伴って鮮明に焼きつけられてしまったのが印象に深い。
立川流の話を聞いているとエロスとグロテスクのイメージを同時にうけました。最後のまとめを聞いて宗教は人間存在をリアルにあつかうほど、エロスとグロテスクが強くなるのだと思いました。
立川流については知らなかったので、このような流派があることに驚きました。ドクロを使う修法なんてあるんですね。ドクロを使うのはわりと一般的だったと聞いて、また驚いてしまいました。『ダ・ヴィンチ・コード』の中で、キリスト教の中でも女性と交わることを儀式とする修派があると読みますが、それと似ているなと思いました。
後醍醐天皇が立川流を行なっていたことは、なんとなく知っていました、立川流が筋の通ったものであることは驚きでした。
立川流の秘儀には不気味な印象を受けた。グロテスクなエロス的行為といえる。
立川流の話は、日本史の平瀬先生の特殊講義でも聞いたことがあり、そのときは驚きましたが、とても興味をひかれたのを覚えています。調べてみたら面白そうだと思いました。私は勝手に仏教美術はとても崇高でとっつきにくいようなイメージを持っていたのですが、授業を聞いてもっと親しみやすいものなんだと感じました。生も死も、エロスとグロテスクも自分にとって身近に感じました。
首の取れた絵がいくつかあって、エロスとまざってすごくグロテスクさが協調されて感じました。エロスとグロテスク両方に一気に描かれていて、おもしろかったです。チベットの仏たちの絵は色彩が派手というか・・・ 西洋にはなかなかない色づかいですね。
チンナマスターの首を切った後の血しぶきをダーキニー達が飲むというのにはびっくりしました。「飲ませるほうも飲むほうもすごい」と私などは思ってしまいますが、血というのはしばしばモチーフとして出てきた気がします。現代日本において見るとグロテスクでも、聖なる意味を持っていたのだと感じます。
授業お疲れ様でした。毎回楽しくきかせていただきました(たまに睡魔に負けましたが)。やはりダキニ関連は面白いですね。磁石みたいにくっついていくのが面白いです。先生が紹介されてた図と似たので摩多羅神といわれているのもありました。マザー説(母神説)非常に面白いと思っています。私が思うに稲荷にもそういう磁石みたいな要素があるのだと思っています。ダキニと稲荷の接点はキツネ(野干)ヘビとの関連も気になりますね。レポートがんばります。
天川弁才法はどこが気持ち悪いのかわからないという人も多かったようですが私もこういうのは生理的にダメです ノ 先生が蛇の頭の人間は平気だけど中から出てきてるのがダメとおっしゃっていましたがすごくわかります。ゾッと鳥肌がたちます。
ダキニ天法の話はすごいですね。死者のドクロが生身になったもの、ということは生首がご本尊ということになるのでしょうか。想像すると人間の生首をまつり上げるというのはちょっと気持ち悪いし異様だと思います。
半年間ありがとうございました。知識が及ばない部分もありましたが楽しい講義でした。
チンナマスターの三つの絵で、どれも性交している男女の姿が、男性が横たわっていて女性が上位で踏みつけている形なのが面白かったです。今まで見てきたものでは、女性がすごく強いイメージですね。
人形杵は実際に現在使っている人はいるのですか。あと、チンナマスターの血が三筋でてる図がなかなかこわかったです。
今日はドクロとか、男女の精液の赤白とか、想像して気持ち悪い感じが多かったです。でも女性の絵は身体のラインがきれいでした。首がない女性も多かったですけど。
いろいろなもののシンボルがまとめて出てくると確かにすごそうだと思いますけど、もともとの(1つ1つの)権威が弱まってしまう感じがします。そうやってただのシンボルとしてしか残らなくなった神もいたんでしょうか。
業平が歌舞の菩薩であり、多くの女性と関係を持つことでその女性たちを極楽へと導いたという話は謡曲で多々ある(今、具体的なやつが出てこないのですけど ノ『朝顔』とかそうだったかも?)。それは、伊勢物語の古注釈に依拠していると考えられるのだが、その考えの根底となったものが立川流などであるのだろうか。
立川流の秘儀(?)にとても興味を持ちました。これまでいろいろなお話を講義の中で聞いてきたからか、そこまで驚きはしませんでしたが、疑問に思う点が何点かありました。例えば女性の精液?が赤いといわれること。これは血のイメージを含んでいるのでしょうか。また、和合水を八年ドクロにぬりつづけると・・・とありましたが、八年間毎日ぬり続けるのでしょうか。和合水(男女)の組み合わせはずっと同じでなければならないのでしょうか。よく考えるとつっこみ所がたくさんありますね。
弁才天、ダキニ天の曼荼羅は、実に様々な要素を盛り込めるだけ盛り込んだという感じて、にぎやかだと思いました。インドでも日本でも、元々は美女としてイメージされた女神が、次第にグロテスクな姿に変わっていく例が見られます。決して美しいとは思えないけれど、何かものすごい力強さを感じます。
「立川流」はそれだけだとすごく異端な流派に見えるけれど、インドからの流れから考えるとそんなに不自然ではないのかと思った。いろいろ普段は見ることのできない画像をみることができたのでおもしろかったです。ありがとうございました。
先生のまとめをきいて、ずっと整理できなかったことがやっとできたなと思いました。立川流やドクロについては京極夏彦「狂骨の夢」を思い出しましたがやっとちゃんとした知識を得れた気がします。大変面白かったです。来年もきっととります。きっと。
最後のまとめに関してですが、全くてらわずに(とこちらが思う程)エロスやグロテスクを表現できるのは、「生」や「死」について真剣に向き合った結果なのだろう、と感じました。
立川流の即身成仏の方法が今まで自分の聞いたことのあるものと全く異なっていて驚きました。例えば雨月物語などで読んだものでは、地中に生きたまま埋められる、というものでしたし、その作品では色欲と仏道は切り離されていました。まさか即身成仏にエロスが関係することがあるとは・・・と、本当に意外でした。また、今回の授業のまとめは、非常に納得できました。エロスが生、グロテスクが死、そしてその境界は曖昧で、明確に区別されるものではない、という話は、今までの授業を思い出すと、確かにそうだと思われます。「仏教文化論」は、私にとって大変楽しい授業でした。
半年間ありがとうございました。聖と俗は相容りしないものと捉えがちですが、何かしらつながりがあるということは新鮮でした。
今日の講義で出てきたチンナマスターが今までで一番グロテスクでした。先生がグロテスクだと言っていた最初の頃の絵より、今回見た絵は気持ち悪いものが多かったと思いました。
とうとう授業が終わってしまいました。立川流の骸骨に男女の性液をぬるというのは、生の抜けたものに生を与えるという点で、あまり死というもののまがまがしいイメージを和らげるというか、死をあいまいかするようなものの捉え方だと思った。
立川流の秘儀が西洋のサバトに思えて仕方がなかった。でも「生命」とか「誕生」とかのイメージを持つものに性液というのは最もわかりやすくふさわしいといえるかもしれない。邪とされるのは恥や常識の文化があるのだろう。なんとなくだが山田風太郎を連想した。(全く関係ないが)
立川流の男女の性液を交ぜて髑髏にぬるという方法は、最初はけがらわしいと思ったが、視点をかえれば男女の交わりによって生命が生まれる、というあたり前のことを基にしていると思った。これも性交という生のイメージとどくろの死のイメージが交じったものだと思った。
エロスがグロテスクに変わっていくのは、エロスの概念の中にグロテスクが含まれているからなのかもしれないと感じた。どちらにせよ人間はエロスでありながらグロテスクなものをもってうまれてきているのだと思う。性器なんて、まさにグロテスクで、エロスなものだと思う。
怪しげな呪法にはドクロと心臓がお決まりですけど、何ででしょうかね?よく心は心臓にあるのか頭にあるのかという話が言われてますけど、やっぱり人間の核として重要な役割を持っているんですかね。
私たちは一人の人間として完成しているのに、一人だけでは子孫を作れないというのはおもしろいと思います。別に男性と女性が交わらなくても、男性は男性の子孫を産んで、女性は女性の子孫を産んだ方がずっと効率がいいと思うけど(それこそ分裂するみたいに)生物って不思議ですね。
生物学的には、性を分けて、その両者から子孫を残すのは、遺伝子レベルで含まれているエラーを少しでも減らすというメリットがあるそうです。
死者を再生させるためにドクロに男女の性液をぬり続けるというのは、文字通りエロスとグロテスクの要素が満載で、かなり異様な世界観だなと思いました。でも、男女の精液からは妊娠、出産をイメージすることもできるので、死者の再生のためというのも、それなりに理にかなっていることなのかなと感じました。
楽しみにしていた立川流の講義だったので、非常に興味深いものでした。立川流の秘儀のその方法については知っていましたが、珍しいものではないということが驚きでした。性愛についてですが、新宗教教団の衰退と新新宗教の興隆には性愛について新宗教は消極的で、新新宗教は積極的に教義の中に受け入れたことがあるそうです。立川流も旧来宗教との隔離を性愛によって表そうとしたと思っていたのですが、違っていて残念でした。
習合は本地垂迹説に比べて、民間的な印象を受けた。形にとらわれずに言ってしまえばいいとこ取りをしてみたり、自分の好きな神(仏)同士をくっつけてみたりというイメージが浮かんだ。パッチワークのようなパロディのような。合体ロボみたいです。
大阪市立美術館のダキニ天マンダラは宗教画というよりもモダンアート、ポップアートのようだなと思った。
エロスとグロテスクが聖性の出現・演出であれば、いつから美=崇高、神秘的なものとしての考え方が一般的になったのだろうか。
この授業では、美術作品をスライドでたくさん見ることができたのでおもしろかったです。今まで仏教とエロス・グロテスクが関連しているなんて思ってなかったので、そういう作品・神がけっこういることに驚きました。個人的には蛇、象、キツネとの関連がおもしろかったです。これから違う視点をもって仏教美術見れていけたらいいなと思います。今日の授業の感想じゃなくて全体の感想になってしまってすみません。後期の短い間でしたがありがとうございました。ちなみにスライドの最後の方、首と体が離れているチンナマスターのスライドはかなり気味悪かったです。
後醍醐天皇は欲張りな人だと思った。なぜなら、いろいろな神様を信仰していたので、きっとなんでも手に入れて、自分の思い通りにしたかった人だと思ったからだ。
エロスとグロテスクの仏(宗)教美術をたくさん観てきました。エロスはともかく、グロテスクは嫌悪感を抱くようなものだと思っていました。実際に相当スリリングです。けれど、ほとんどの作品は、少し滑稽で愛着が湧くものが多いです。聖と俗の変換ですね。来年も楽しみにしてます。
立川流は本当にあまり分かりませんでした・・・。あそこまで性的なことが儀式に含まれていると、驚きました。神話や説話にあるそのような話ではなく。性に神秘を感じているのか、禁欲的な宗教たちに対する反動みたいなものなのか、よく分かりませんでした・・・。
立川流に関してはけっこういろいろな場面で話が出てくるので、詳しい話が聞けてよかったです。かなり興味深いものでした。個人的には天川弁財天よりも今回出てきたチンナマスターのほうがグロテスクに感じられました。首から血が吹き出しててそれを飲むって・・・。下で交わる男女もよく分かりません。
今期の授業で、何でもグロテスクだと言われればそう見えてくるような気がしました。特にこの授業では、グロテスクという前提を持って様々なものを見ていくと、意外と様々なものがそう見えてくるのだと思います。そう考えると何がグロテスクなのか、何が聖で俗なのかということを言い切るのは難しいですね。普段と違う、これまでと異なるものがグロテスクと言った方が適切なのかと思いました。
チベットのマンダラの尊格は足が開いていたり動きがあったりするイメージなのだが、マハーカーラはちょこんと足を閉じているので珍しい気がした。顔もマンガみたいでおもしろい。
エロス系イメージの仏の習合については分かりにくいところだったので、今日改めて メ増殖するイメージ モと言われたことで少しイメージがつきました。複数の仏やそのシンボルが同時に存在したり、複在したり・・・。解説がつくと読み解くのも楽しいですが、やはり難しいです。
今まで仏教美術(その他についても)でグロテスクなものを、あえて取り扱うことについて理解できずにいましたが、半期授業をうけてみて、それが聖性を認めているから、とまとめることにも納得がいくように思います。
チンナマスターと天川弁才天マンダラはたしかに似てるなと思いました。性瑜伽の前の「秘密潅頂」の描写が気持ち悪かったです。エロスがグロテスクに変化していくというよりも、エロスそのものがグロテスクに感じました。
習合について初めにありましたが、よく考えるとよくわからない概念だなぁと思いました。発生、経緯やその意味って何だろうと思います。
オットーにはじまり、インドをめぐって立川流にいたる広範囲の授業でした。広いだけでなく、個別テーマが毎回にように出てくる興味深いものでした。
本日の授業では、画像を拡大してくださり、ありがとうございました。よく見えました。天川弁才天のヘビ(顔が3つあるうち中央)はめがねをかけているように見えましたが気のせいでしょうか。
インドの宗教美術にとてもひかれました。ガネーシャも、ダーキニーもチンナマスターもどこか可愛らしいです。
エロスとグロテスクの授業とてもおもしろかったです。真逆なのに深くつながっているという感覚が好きで死から生がよみがえってくるというのもまさに仏教だなと思いました。
レジュメ12の「世界の終わりの女神と始まりのシヴァ」 なぜ死が「終」で水が「始」?経済学部では、エロスとグロテスクなんて授業はないのでとても楽しかった。もう三年生だが文学部の方が向いているのでは・・・とも思った。そのくらい楽しかった!私は人が死んでいって腐っていく過程の絵が一番好きだった。一番身近にあるものだからか?
たしかに、経済学部では「エロスとグロテスクの経済学」なんていう授業はないでしょうね。あってもいいとは思いますが・・・。経済学部の皆さんも、文学部の授業はある程度は卒業の単位にもなりますし、単位を気にしなければ、いくらでも取りに来てください。せっかく高い授業料を払っているのですから。
あまり関係なさそうでも、よく考えるとつながりというか共通点があったりにているところがあったりする仏って多い気がした。神とか仏の世界はこんなにグロテスクな部分やエロスの部分があるとは思っていなかった。
私も「あまり関係なさそうでも、よく考えるとつながっている」というのが好きです。みんなが気づかないところで見つけると、けっこううれしいものです。
以前、立川流の密議が少し書かれた小説を読みました。赤白〜、八年〜、というのを見て、異常さが先だったのだけれど、密儀の形状をとらなければ、生命を生み出す行動なのだと考えを改めることになった。
神と仏の堺がどこにあるのか、元々はっきりわかっていたわけではないのですが、神仏習合などを見ていると更ににわ分からなくなった。また、仏教といえば講義を受ける前は「聖」のもので「性」は関係ないと思っていたのですが、そうではないようだとも思うようになりました。この講義で色々なメッセージが混ざり合い、境があやふやなものになり、おもしろかったです。
立川流についてだが、男女の性的な交わりが即身成仏につながり、死者の再生を呼び起こす手段となる、と聞いて驚いた。立川流が奇異だというよりは密教そのものに髑髏を用いることが一般的であり、その中には性的なニュアンスが多く含まれていると聞いて理解できた。愛染明王が立川流においていかに密接に結びついているか、エロス、性の観点から数回にわたり理解できた。14回の授業、毎回楽しみで深くインド、チベット、日本などのアジア文化を比較できたと思います。ありがとうございました。
半年間ありがとうございました。
先生が頭だけはヘビの絵が無理だといわれていましたが、僕はそうでもありません。この講義ではほかにもっと絵があったはずです。他の絵は大丈夫なのですか?
たいていは大丈夫です。天川弁才天も、今回の授業でかなり見慣れました。
ドクロを用いる修法は立川流独特のものだと思っていたので、そうではないのだと知って驚いた。授業全体を通した、ともすれば正反対のものととらえがちなエロスとグロテスク、生と死の結びつきの強さを感じた。
習合は本当にごちゃごちゃからまってよく分かりませんでした。絵を描いた人はちゃんと分かって描いたのでしょうか。何となくのイメージで描いたと思うのですが。
レポート課題難しいです。でも今までは先生に教えていただく一方でしたが、今度は自分で考えてみるいいチャンスだと思いました。エロスとグロテスクについて思いをめぐらせたんです。
世界の終わりの女神とシヴァの図はこの授業の中で一番エロスグロテスクが共にあらわになっている図だと思いました。首を切りながら(グロテスク)性交をする(エロス)っていうのが、なかなか気持ち悪かったけど、ただ下に横たわっているだけのシヴァも気味悪かったです。世界の終わり(火)と始まり(川?)の間に性交が置かれているのは、世界は生命と関係があるもの、ということなのかなと思いました。
はじめの回で紹介したマリアとエヴァ(イヴ)の絵も、これに通じますね。
エロスもグロテスクも両者とも聖なるイメージとしてとらえるというのは難しいが、どちらも日常から逸脱しているという点で共通していると考える。恐れという感情も崇拝する心に通じるものがあると感じた。
立川流の秘儀でドクロに塗る赤白二滴は生々しいなと思ったのですが、男性の精液が白いのは分かりますが、女性の精液が赤いというのはどういうことなのでしょう。赤い、というと破瓜の時の血というイメージがありますが、男性は処女ばかりと性交していたのでしょうか。昔は今のように処女信仰なんてなかったとは思いますが ノ性交自体もエロスとグロテスクを併せ持っているような気がします。
女性の赤い体液は経血ともいわれます。インド密教の性瑜伽では、だいたいそうです。
立川流が実は邪教とされるほど特異なものではないという主張がなされているようですが、私は立川流の邪教的側面をもっと知りたいと思いました。『三国志演義』が正史『三国志』より親しまれているようなイメージです(?)
男女の性交による邪法が行われていて、しかも、それが精液を用いるものであるなんてのは、どうも思考の幅を遙かに上回っていて、どんな雰囲気で行われていたのか想像もつきません。
チンナマスターについてですが、食べるものがないときに、「血」を飲ませるという点に、違和感を覚えました。グロテスクな話ですが、手足などを固定物であってもいいのに・・・。血には生命力があってそれを飲ませると生きられるというイメージでしょうか?チンナマスターの絵には、頭部(ドクロ)崇拝と血に対する彼らの感覚が見て取れる気がしました。
あまり関係ないかもしれませんが、生物学的に見て母乳の成分はかなり血液に近いそうです。母が子を養うために与えるものとして、共通するイメージです。
弁財天、大黒天、聖天等と摩多羅、あるいはチンナマスターの首が切れる→ドクロ→立川流といったインドから日本のイメージの伝播というのは非常に面白かったです。論文としてまとめられたら、とてもおもしろそうですね。ただ、そういう事実はともかく、理論的な部分をまとめようとすると、とても苦労しそうな気がしますが。(笑)それにしても、こういうエロ系も、迫害されつつもしっかり伝わるあたり、たいした伝染力ですね。
前に見たミトゥラ交合像でもそうでしたが、赤いダキニのしていた黄金の腰巻きがきれいでした。インドの女性の石像レリーフでも美しい造形の腰巻きもきれいでしたね。血とか首とかドクロとか、インド仏教は生々しいモチーフが多いですね!日本では隠されがちですが・・・。なぜなんでしょう。それともこれは、ごく一部を取り出しているからそう見えるだけですか?カーリーとシヴァの世界の終わりと始まりの絵で、前の方の花咲く野原に頭が散らばっているのがすごく怖かったです。ていうか何故あんなところに頭が?だれのもの?
陰毛を宝としてまつるというのにはおどろいた。そんなデリケートなものをまつっていらっしゃるのだろうか?
グロテスクと思うものにはよく女の人が出てくるのは気のせいだろうか。
美術も文学も、大半は男性が作ったものだからでしょう。
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