エロスとグロテスクの仏教美術

2008年1月17日の授業への質問・回答


今回のこの回を楽しみにしてました!天川弁才天はひとつしか見たことなかったので、こんなに数があるとは驚きです。ダキニ天についてはちょっとだけ勉強しましたが、知れば知るほど深みにはまるおもしろさがあります。皇室との関係ができていく(即位儀礼、狐=アマテラス・・・など)の点もとてもスリリングです。「外法」たるダキニ天法やダキニ天が、いつの間にか稲荷として明るいところに現れるようになるのもおもしろい。先週の愛染明王同様、ダキニも敬愛と調伏の関係にあるのだと思う。
楽しみにしてくれていたダキニ天ですが、前回は十分な咀嚼した話ができませんでした。なぜ、ダキニ天と稲荷神が習合したのかという質問も複数、見られました。これらについては、今回少し補いたいと思います。ダキニ天の資料は阿部先生のものをはじめ、いくつかあるのですが、実際にどのような場面で、どのように使われたのかが、正直なところ、よく分かりませんでした。立川流の中で位置づけられるのではないかと思っているのですが・・・。即位灌頂の話もその流れで重要なようです。しかし、これも難しいですね。天川弁才天は「気持ち悪い」と言って紹介したのですが、図像が小さくてどこが気持ち悪いか分からないというコメントもいくつかありました。スクリーンが教室の割に小さいので、中央の席の前の方でなければよく分からないかもしれません。今回、これもアップにしてもう一度紹介します(しつこい?)。前回の授業の趣旨を簡単にまとめれば、愛法と外法の神である愛染明王、弁才天、聖天、ダキニ天は、ひとつの大きなグループを構成していること、そこには象、ヘビ、狐という動物がモチーフとして現れること、後世になると、これらの神々が合体してグロテスクなイメージが作られること、などでしょうか。これまでの授業の流れからは、エロスの神が習合すると、グロテスクな神になるというのもポイントになります。

聖天さんと大根との結びつき、また供養が浴油法であることは、「鼻長大臣」の話から来ていたんですね。はじめて知りました。男天を鎮める観音は十一面観音ですか?以前、調べたときに何観音なのか文献が見つからず・・・。秘仏が見れてよかったです。まったく見ることができないものと思いこんでいました。
聖天と大根の結びつきは、インドでも見られます。仏教のマンダラにもガネーシャは登場し、そこでは四臂で、三叉戟、甘いお菓子、斧、大根を手にします。若干、私自身勘違いがあり、大根をラッドゥカ(la.d.duka)というと思ったのですが、これは二つ目の「甘いお菓子」に相当する語で、大根はmuulakaというのが原語です。エピソードに見られる難しい名前の解毒剤は、ラッドゥカの音訳だと思いますが、甘いお菓子を指すことが分からず、植物の一種と考えたのではないかと思います。また、図像の説明で大根を手にしていると説明しましたが、大根ではなく自分の牙を持っているものもありました。これもインドに作例や神話があります(研究室に戻ってから、インド留学経験のある卒業生と話していて、指摘を受けました)。

大臣は自分が王妃と通じていたくせに、毒を飲まされて起こって王室に乱入するなんて、わがままだ。本当なら、処刑されてもおかしくない。王様も毒なんかよりもっと直接的に殺す方法があったと思うのに。大臣が后を抱いているから歓喜天は双身だというなら、后も象頭だったことになりますね。そんなはずない。どうしてこの物語は作られたのだろうか。
ほんとうに、めちゃくちゃな話ですね。鼻長大臣の話は天台宗の図像文献である『阿娑縛抄』(あさばしょう)からの引用ですが、その典拠がどこにあるのか分かりません。根拠はありませんが、中国あたりででっち上げられたような気がします。でも、精力絶倫というか、性的なエピソードが背景にあることは、この仏の本質に関係があると思います。シンポジウムで田中貴子さんは、双身の歓喜天はインドにはいないことを強調していました。たしかに、インドではガネーシャが夫婦になることはないようで、まして、抱擁しあう姿はありません。しかし、女神との結びつきは古い時代からあり、このあたりに起源があるのではないかと思います。これについても、今回取り上げます。

孔雀や象というモチーフが今まで出てきたことは多かったが、狐というモチーフがたくさん出てきたのははじめて?日本では狐は怪しい生き物ですが、仏教と関連するとどのような意味を持つのでしょうか。首が切れていて、首からヘビが出てくるモチーフはとてもグロテスクだと思いました。今までいろいろな動物が出てきましたが、それぞれに意味を持っていて、絵巻の中でどんな意味で用いられていたんだっけ・・と思い返してみたりします。
たしかに狐ははじめてです。インドにも狐やそれに近い動物がいると思いますが、特定の神や宗教と結びつくことはないようです。日本では九尾の狐のように、昔話や説話に、かなり妖しい狐が登場します。これらは中国にもさかのぼれるかもしれません。動物をたどっていくと、神や仏の世界の構造が見えてくるというのは、私が好んで用いる方法ですが、狐は少しむずかしいです。首から上がなく、かわりに蛇が出てくる天川弁才天は、ヒンドゥー教の神の図像と結びつける予定です。ただし、これもあまり直接の関係があるわけではないのですが・・・。

弁才天は七福神の羽衣をまとったきれいな女性というイメージがあったので、剣を持った勇ましい姿だったり、童子をつれていたり、他の神と一緒になっていたり、首から蛇や狐が出ていて気持ち悪かったり、さまざまな姿をしていておもしろかったです。とくに、最後の首がない弁才天は、とても特異でした。今までは美人さんの弁才天ですが、天川弁才天がなぜこんな姿をしているのかとても気になります。腕や足ではなく、「頭」がないことが気味悪さのひとつですが、それにも何か意味があるのでしょうか。
七福神の弁才天の姿は、琵琶を持つタイプが元になっていますが、それにさらに飛天(天女)のイメージが加わっています。このような弁才天のイメージは、おそらく江戸時代頃に定着したのではないかと思います。授業の中でもふれましたが、七福神の中のほかの大黒天や毘沙門天、吉祥天なども、前回とりあげた図像の中に登場します。じつは、七福神信仰は日本における「愛法と外法」の流れをくんだ信仰なのではないかと思います(このほかの布袋、エビス、福禄寿は仏教起源ではないので登場しませんが)。Wikipedeiaによると、稲荷神が七福神に含まれることもあったそうです。天川弁才天の気持ち悪さは、たしかに頭がないことによると思いますが、ハ虫類だから気持ち悪いのではというコメントもありました。たしかに、獅子や馬などの動物の頭なら、それほど気持ち悪さはないですね。ガネーシャも気持ち悪いという感じではなく、かわいいとか滑稽という印象を与えます。

ダキニ天は衆生の死ぬ瞬間の肝魂を食べるということをはじめて知ったので、意外に恐ろしい神なのだなぁと思いました。ただ、日本のさまざまな古典にその名が見られるという点が興味深く、またよく他尊と習合しているというのもおもしろかったです。また、今回一番印象に残ったのは、双身歓喜天の話で、絵を見たときはその不思議な姿に驚きました。象の肉が人間にとって毒であることも不思議で、やはりそれも「象」という動物の持つシンボル等に関係しているのかと考えました。他にも象が人間にとって毒としている話はたくさんあるのでしょうか。気になります。
象の肉にまつわる物語は、私はこれ以外にはわかりません。おそらく、食べても死ぬような毒は入っていないと思いますが・・・。象はこのあいだから取り上げていますが、普賢や帝釈天の乗り物の象の場合、とくに物語やエピソードと結びつくようなことはないようです。

私は能楽サークルに入っているのですが、今度「竹生島」をやります。しかし、竹生島が実在するとは思いませんでした。しかも滋賀ですし・・・。近いですね。知らなかったのは不覚でした。それから、私は昔から人を食べる怪物とかが大の苦手だったので(洋画とかでよくあるんですが)ダキニ天は本当に怖いなぁと思いました。ところで、人肉を食べる風習って本当にあるのですか?
能の「竹生島」は知りませんでした。調べると、たしかに有名な演目であるのですね。登場人物にしっかり弁才天もいます。龍神も登場します。先回紹介した図像の通りです。竹生島は琵琶湖のまわりのあちこちの港から船が出ていますが、便利なのは長浜港でしょう。JRの長浜駅から10分ほどのところにあり、船に乗っているの30分ほどです(授業では1時間といいましたが、もっとはやかったです)。「弁才天象」や「弁天十五童子像」なども拝観できます。長浜から少し北の高月のあたりには、有名な渡岸寺の十一面観音をはじめ、多くの優れた観音像もあり、「観音のふるさと」と呼ばれています。あわせて一日で回れますので、行ってみてください。人肉を食べるのはカニバリズムといって、倒錯した性癖のひとつとして有名です。欧米ではよく聞くのですが、日本ではあまり取り上げられることがないですね。

ヘビといえば、今昔物語かなんかに、たしか、大蛇が小用をしている女性(外で小用をしてしまった)の前を見て欲情し、女性を金縛りにさせて動けなくし、ずっと見ていた(最終的には通りかかった武士に下女が訴えて助かる)といった話や、ヘビが女性を見て欲情し、交わられてしまった話があった気がしました。弁天の「白蛇」ですが、昔から「白蛇は神様だ」と、よく実家の祖父なんかにいわれていた気がします。民間信仰かもしれませんが、何か関係があるのでしょうか。
『今昔物語集』や『日本霊異記』にはたしかに、蛇と性行為に関する物語がいくつか見られます。人間が動物と結婚をする異類婚のモチーフでも、蛇が圧倒的に多いですね。女性が蛇の場合、蛇の子を産んでから、その家を去るというパターンで、男性が蛇の場合、相手の女性が知恵を働かせることで、結婚を免れるというのが多いようです。白蛇が神や神の遣いという信仰は広く見られます。この場合、蛇であることと、白いという突然変異の特徴の両者が重要でしょう。

象が二つ並んでいる聖天秘密曼荼羅が、お坊さんがオリジナリティーを出したんではないかといっていたんですが、そもそも曼荼羅にオリジナリティーっていいんですか?不必要というか、ルールにのっとって作るものではないんでしょうか?作られた目的が違うとか?まぁ例外的なものなんでしょうか。
曼荼羅がルールにのっとって作られるというのはその通りです。とくに、金剛界と胎蔵界という二つの重要な曼荼羅は、すべて、経典などの文献にもとづいているのが原則です。さらに、日本では伝えられた図像そのものをできるだけ忠実に再現しようとしたので、画家や僧侶のオリジナルな作品が生み出される余地はありませんでした。しかし、別尊曼荼羅という日本密教固有のマンダラでは、この原則が必ずしも守られないことがあります。大多数の別尊曼荼羅も、典拠となる経典や儀軌があるのですが、一部にはそのようなものがありません。その場合、作品成立の背景に、特定の僧侶のオリジナルなアイディアがあると考えるのです。これを「阿闍梨の意楽(いぎょう)」といいます。オーソドックスではない図像があるときに、よくこのような理由を与えます。聖天秘密曼荼羅もその一つです。

人の心臓を食べるっとすごいですね、ダキニ天は。おいしいのかな。人間の姿をしているダキニ天が、死体を解剖して、口のまわり血だらけで、手に心臓持ってるってかなりグロイと思います。そういえば、前出てきたカーリー(でしたっけ?)も敵の魔物を食べるんですよね。何か、女の人イコール食べることってイメージがあるみたいな気が・・・。ところで「ダキニ天は6ヶ月前に人の死を知って、死ぬのを待って、その人の心臓を食べる」というのと、「ダキニ天は生きている人間の精魂をとって食べるから、その人は6ヶ月で死ぬ」というのがありました。ということは、ダキニ天は6ヶ月を挟んで、一人の人間を2回食べるということになるのでしょうか。なんか「死神」っていうイメージを持っちゃいます。
ダーキニーやダキニ天は、インド密教と日本の外法をつなぐ重要な尊格と思っています。カーリーなどの「血を飲む女神」にも通じますが、もともとカーリーやチャームンダーが、人々西をもたらす民間信仰の女神として、インドで信仰されていたのです。日本の立川流とインドの後期密教を正しく結びつけた研究は、これまでありませんでしたが、共通点は予想以上に多いようです。ダキニ天が人の精魂を食べるという考え方は、屍体を食べる→死者の精魂(人黄)を食べる→人の人黄を食べるので死ぬ→人の生死を支配できる、という流れではないかと思います。2回食べるというのは、これらを一緒にするとそうなるだけで、それぞれ、独立して信じられていたのでしょう。


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