エロスとグロテスクの仏教美術

2008年1月10日の授業への質問・回答


わら人形に五寸釘というと丑の刻参りですが、ルーツ?が愛染明王法にあるとは意外でした(カーマ≒キューピッドくらいしか、今日の授業は得られないかなと思ったら・・・びっくりです)。恋愛を成就させるものが人を呪い殺すものと紙一重の関係だということは、愛と憎しみが表裏一体であることと同じなんでしょうね。愛しすぎて相手を苦しめるというのは、そういう意味で切ないです。この愛染明王法は、現代小学生がやっているおまじないともにていておもしろいです(調伏したい者の名を書いた紙を・・・好きな人の名前を書いた消しゴムを使い切ると両思いになるとか・・・)
ご指摘のように「愛と憎しみが表裏一体であること」がポイントです。ただし、わら人形に五寸釘のルーツが愛染明王法にあるわけではなく、類似の儀礼が密教儀礼の中にたくさんあるのです。とくに初期密教の経典には、現世利益的な儀礼が多数含まれていて、その中には、あきらかに丑の刻参りと同じ方法の呪詛の儀礼があります。愛染明王の儀礼では五寸釘にあたるものが矢ですが、実際に釘のようなものを用いた儀礼もあり、そこでは釘が呪術用の独特のもので、インドでは古くから呪術で使われていました。サンスクリットでキーラk?laといいます。キーラを用いた儀礼については、以前にいくつかの論文を書いていますし、『マンダラの密教儀礼』の中でも簡単に触れています。調伏とが降伏は、四種法の中のひとつとして重要で、後期密教では調伏がさらに細分化されて、さまざまな黒魔術が現れます。インドでも日本でもチベットでも、頻繁に行われたはずです。四種法は息災、増益、敬愛、調伏の4種ですが、人間のたいていの欲望はこの4つのどれかに当てはまるのでしょう。

クルクッラーの足の下と台座の下に、動物らしきものがいるのですが、これは何でしょうか。台座の下にいるのは猫に見えたのですが・・・。右端下と左端下に、骨のぶっちがいがありますが、これは飾りでしょうか。骨のぶっちがいは海賊旗のイメージがあります。後三条天皇のエピソードは知らなかったので興味深かったです。実際に呪い殺そうとしたのか、呪いで死んだのかはわかりませんが、ここに愛染明王法が使われたことに意味があるのだと思います。それにしても人の愛欲は今も昔も変わらないものですね。
作品をよく見てくれています。足の下にいるのは動物ではなく、人間です。本当は死体なのですが、ここでは生きているように描かれています。台座の下にあるのは髑髏で作った容器です。容器の中の供物とあわせて、猫のように見えたかもしれません。供物は血や内臓です。左右にある交叉した骨と同じようなものです。いうまでもなく、これらはいずれも死や死体のイメージです。実際にクルクッラーに対しては、このような供物が供えられたのでしょう。インドの密教文献には、そのような儀礼に関する記述がたくさん見られます。この絵は私が20年ほど前に翻訳した『聖なるチベット』(平凡社)からとったものですが、特に印象的な絵のひとつです。他の人にもそうだったようで、『月間百科』という平凡社の広報誌(現在は廃刊)の中でも、同書の紹介のところで用いられていました。「人の愛欲は今も昔も変わらない」というコメントは、他にも多くの人に見られました。その通りです。人間は千年や二千年では簡単に変わりません。比較文化というのは、人間の文化の違いを研究する一方ですが、その普遍性も重要だと考えています。時間や空間を超えて、同じ人間として共感できるところに醍醐味があるのでしょう。

わら人形の呪いとカーマの呪いとキューピッドの共通点には、納得できる。そういえば、日本でも女性を「目で殺す」とか「女殺し」「悩殺」とかいって、「殺す」という言葉が恋愛の領域で使われる。マンガでよく弓矢が心臓に突き刺さるイメージがあるが、よく考えると弓矢は男根を思い起こさせるし、心臓が女性器だとすればエロティックなイメージだ。
恋愛感情を抱かせることと殺すことが重なるというのも、普遍的に見られるようです。殺すこと=死と、愛すること=生が、ここでも隣り合わせです。その介在となるのが愛染明王であり、その儀礼です。弓矢が男性器というのはありえなくはないと思いますが、心臓が女性器というのは少し苦しいかもしれません。心臓は心であり、その人格の中心にあると考えられていましたし、おそらく今でもそうでしょう。マンガで心臓に矢が突き刺さるイメージはあっても、頭というか脳に突き刺さるイメージはありません。精神や思考をつかさどるのは脳であることをわれわれは知っていますが、そこに刺さるのではないのです。なお、このような脳と心臓のイメージについては、樺山紘一『歴史のなかのからだ』(筑摩書房)で取り上げられています。

愛染法の降伏は、第2次世界大戦の時も使われたのですか。しかし、廃仏毀釈や国家神道化が進んで、元々は仏教的な愛染明王の手法がつかわれたとは少し考えにくいのですが・・・。
戦前の日本が国家神道一色だったということはありません。伝統的な仏教教団はしっかり活動していました。場合によっては神道以上に国家主義的な立場を打ち出した教団もあります。廃仏毀釈は確かに明治初期における仏教への大きな弾圧となりますが、それは地域によって程度が異なりますし、伝統的な教団の多くは、いちはやく政府との結びつきを強めて苦境から脱しました。太平洋戦争末期に日本の密教寺院で怨敵退散のための修法が行われたことは有名な話です。その場合、元寇の時に実際それがうまくいったという意識も強かったでしょう。皇室と結びついた密教の修法は、現在でも行われています。たとえば、皇室で出産があるときには、おそらく日本中の有力な密教寺院で、安産祈願の修法が行われています。昔の話ではけっしてないのです。

「この像が左手に○○を持っているから△△という意味を持つ」という推測は、どんな研究からできているのですか。研究者によって意見がまったく違って、結局どちらが正しいか分からないという事態にはならないのでしょうか。時代がさかのぼればさかのぼるほど、人々の考え方を推測するのは難しくなると思うんですが。
仏像などの意味を探るのは楽しいことですが、ご質問のような恣意性がつねに問題になります。意味の解明には、いろいろはレベルを設定する必要があります。たとえば、経典や儀軌などの文献に、はっきりと「○○を意味する」という書いてある場合があります。これが図像の典拠となります。しかし、話はそれほど単純ではなく、このような意味には後からこじつけられたものが多いのです。たとえば、「観音の蓮は衆生救済の慈悲の心を表す」という記述は、仏像の入門書んどにしばしば書かれていますが、どうして蓮が慈悲の心を表さなければならないのか、その積極的な理由は分かりません。別に蓮でなくても、ヒマワリでもタンポポ、あるいは花ではない何かでもかまわなかったはずです。むしろ、インド以来の蓮のイメージや象徴的な意味を知る必要があります(おそらく、豊穣多産からくるのでしょう)。美術の分野の箴言に「はじめにイメージありき」というのがあります。何かの意味を表すためにイメージが考え出されたのではなく、イメージがつねに先行し、それに意味が与えられるという順序が一般的です。古い時代ほど推測するのが難しいのはその通りですが、そこで「人間の文化の持つ普遍性と特殊性」という柔軟な思考が求められます。研究者によって考えが違うのは当たり前で、あとはどれだけ説得力を持たせるかです。

愛染明王法と平等院や丑の刻参りがつながるものだという点に、驚きました。別に実際には後冷泉は呪殺されたのではなく、病に倒れただけなんだろうと、現代人の私は思いますが、呪術が人の心を支配していたであろう当時においては、後冷泉天のが呪殺されたという噂が広まれば、愛染明王法はすごく人々に恐れられたでしょうね。私はあまり宗教とか呪術とかは信じていませんが、やはり呪われるのは何にせよいやだし、怖いなぁと思います。人智を越えた呪術的なものの効果は、はかりしれなくて怖いです。呪術自体よりも、それを信じる人の心の方が怖いですね。
本当に怖いのは人の心というのは、まったくその通りだと思います。皆さんの多くは、おそらく宗教や呪術とは無縁の生活を送っていると思いますし、信じていないと思います。ですから、後三条天皇の話もまゆつばと思うかもしれませんが、密教の修法がまったく効果がないものとも言い切れません。人間の持つ「思い」や「念」の力が、何らかの作用を持つことだってあるかもしれません。密教の修法は、そのようなものを増幅させるような役割をするようです。なお、皆さんの好きな血液型の性格判断や星占い、あるいは最近、流行の風水も、いずれも一種の呪術です。そうは思っていないかもしれませんが。

シヴァにはドゥルガーという妻もいたと思うのですが、女に興味がなく、パールヴァティーと結婚させるにも苦労したのに、側室(しかもあんな無骨な)がいたなんて不思議な話だと思いました。
おもしろい指摘ですが、シヴァは女性に興味がなかったわけではなく、むしろ女性が大好きなので、あえて苦行して女性を遠ざけたのです。もともと、女性に興味がなければ、苦行とはならないでしょう。苦行によってエネルギー(特にこの場合、性的なエネルギー)が蓄えられるのです。以前紹介したティロッタマーの神話でも、シヴァは好色な神として描かれていますし、インドラや金剛手とも連なる系列に属しています(つまり、象さん系)。ドゥルガーの方ですが、これも無骨な女性ではなく、絶世の美女として神話では描かれています。美女がバッサバッサと敵を倒すというのは、インドの神話だけではなく、ハリウッドの映画でも、日本のテレビドラマでも、おなじみの設定です。だいたい、そういうのが好きなのは男性でしょう。なお、シヴァの妻にいろいろな女神がいるのは、もともと単独の神として信仰されていたこれらの女神が、「大伝統」のシヴァ神崇拝にのみこまれていったからです。

愛染明王の像が小さいのには、修法を行うという実用的な目的があったのですね。なんかかなり生々しい・・・。最初の方のスライドで、愛染明王の持つ日輪に描かれている三本足のカラスは、八咫烏のことでしょうか。あと、いまさらなのですが、明王は何人いるのでしょう(愛染、不動、孔雀・・・)。
三本足のカラスは八咫烏です。太陽と結びつきの深い鳥で、日本以外にも中国や朝鮮半島の神話などにも登場するようです。八咫烏は、神武東征の際、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる三本足のカラスです。現在では熊野三山の旗やお守りに見られるほか、日本サッカー協会のシンボルマークでもよく知られています。明王は密教の時代になって登場した異形の仏たちですが、日本ではとくに不動明王の人気が高いです。五大明王というグループも重要で、不動、降三世、大威徳、軍荼梨、金剛夜叉の五尊です。このほか、大元帥、愛染、孔雀などがいますが、それほど種類が多いわけではありません。


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