エロスとグロテスクの仏教美術

2007年12月13日の授業への質問・回答


火おこしの絵を見たときは、まさかこれもかなと考えたが、本当にそうだったとは、驚きを超してあきれるような気持ちになった。古代インド人というのは、何でも性とからめて解釈するのが好きだな。でも、逆に言えば、現代(とくに日本だけなのか?)は、性的表現が抑圧されすぎているのかもしれない。これをどう考えるのかも面白そうだ。
本当にそうだったんですね。授業で取り上げるものは、たいてい性的なものか、グロテスクなものですから、あきらめて下さい。そろそろ飽きてきたかもしれませんが・・・。古代インド人が、とくに何でも性とからめて解釈するというわけではなく、人間というのはそういうものだと思います。古代の日本人も、古事記や日本書紀で見たように、性的なモチーフや性行為を堂々と語っています。現代日本で性的表現が抑圧されすぎているとは、私は思いません。だいたい、授業で繰り返して言っているように、人類史上、現代ほど性とかグロテスクなものが、日常世界に浸透していた時代はないでしょう。江戸時代の春画が強烈と思うかもしれませんが、現代のインターネットの中のことを考えれば、かわいいものです。インターネットには国境はありませんが、性的な内容を持つ出版物の扱いなどを考えると、日本は他のどの国よりも規制がずさんな国です。

天女の六道絵が印象的でした。テーマ形式に重点を置いているのでしょうが、美しい建物の前で、汚くつぶれた天人が小さく描かれて。リグヴェーダのウルヴァシーの話に似た昔話を小さいとき、どこかで聞いたことがある気がしてならないのですが、作り直していろいろなところで残っているのですかね。
天道無常相は六道絵の中でも見応えがある幅です。異臭を放つ天人が、憂鬱な雰囲気で、ほおづえをついて横たわっているところなど、なかなかシュールです。ウルヴァシーの話は、異類婚の物語の原型のようなものです。多くの異類婚の物語は、男性側がタブーを破ることで破局を迎えます。羽衣伝説もそうですし、雪女も、鶴の恩返しも同様です。異類婚がハッピーエンドで終わるのは、むしろ物語としては欠陥があり、破局を前提とすると、何かタブーを設定する必要があります。そのタブーに裸を見せることや雷が用いられることが、この物語の特徴です。

火から生まれる祭火(アグニ)というのは、不思議ですね。イザナミは火の神を出産したことによって死んでしまいますよね。そういった意味では、日本では火へのおそれみたいなものも感じられるのですが、儀式の中の火というと、また違ったものなんでしょうか。
イザナミの話は忘れていましたが、おもしろい指摘ですね。たしかに、日本人とインド人とでは、火に対するとらえ方や、その宗教的な意味が違うのでしょう。火を生むことは、インドでは祭式の起源として積極的に評価されます。火が文化や秩序をもたらすのでしょう。それと同時に、これは授業でもお話ししますが、火が自然のものではなく、命あるものとしてとらえられていることも重要でしょう。ただし、日本も火の神を生むことによって、イザナギとイザナミの国産みが一段落するということは、そこで秩序が誕生し、すでに役目を終えたイザナミには、死を受け入れることしか、選択はなかったのかもしれません。死の出現は秩序の誕生でもあったのでしょう。イザナギの冥界探訪は、それを確認するための手続きになります。

水の中に火とか、水から火が生まれるなど、対抗すべきもの(例えば五行説では水は火を制すはず)が生まれてくるところに、不思議さを感じました。火と水が交わってできるわけではないのですが、男=陽、女=陰で交わって子どもができますね。房中術も陰陽の交わりですよね。
陰陽五行説における水と火の関係については、他にも指摘してくれた方がいます。私はあまり意識していませんでしたが、おもしろいですね。ただし、この考えはやはり中国的で、インドではおそらくなかったでしょう。相反するものを世界の根本原理とする二元論は、中国では好まれましたが、インドではむしろ一元的な世界観が支配的でした。前回から紹介しはじめている物語や儀礼でも、相反する二つの要素が交わるという感じではなく、水から火が生まれるという一方向的なとらえ方です。その中で、仏教、とくに密教では男性原理と女性原理の統合が、悟りと結びつけられるので、特別かもしれません。また、反対物の一致というのは、宗教学者エリアーデが好んで用いる概念で、その場合、世界のあらゆる宗教的観念には、反対物の一致が見いだせることになります。

日本の九相詩絵巻は女性、インドは男性になっていますが、なぜでしょう。天人五衰や六道十王図などでも女性がメインですが・・・。実際、現代でも男性より女性の方が、いろいろな意味で美とグロテスクをあわせもっているような気がします。命を生むのも女性ですし・・・。昔からそのような意識があったのでしょうか。それにしても、火と水の関係がとても不思議です。
女性が中心になるのは、いろいろな理由がありますが、ご指摘のように、命を生むのが女性というのが、私も根本にあると思います。これは、見方を変えれば、男性よりも女性の方が完全であるということかもしれません。完全なものは美しいですし、場合によってはグロテスクです(理由はよくわかりませんが、なんとなく)。それに対して、男性は不完全で、むしろこっけいです(これもなんとなく)。生物学的に見ると、女性が完全で男性が不完全であることは、むしろ常識です。生物学の本の受け売りですが、雌雄のある生物は、はじめは女性として受精卵などの形で誕生するのですが、成長の過程で、無理やり男性に作りかえるのだそうです。XX遺伝子のほうが安定して、XY遺伝子は欠陥のようなものなのです(女性の方が男性よりも、平均寿命が長いのもそのためです)。授業で、エロスとグロテスクに加えて「滑稽」とときどき登場させていますが、これは不完全なもののイメージで、おもに男性像に見られるような感じもします。

地獄絵のことだが、後世になるにつれて形骸化していくというのが印象的だった。絵が描かれ始めたときと比べて、周囲に与えるインパクトというものがなくなり、絵を描くことで「何かを伝える」ということよりも、「絵を描くこと」それ自体が目的になっていったのかと思った。
そのとおりですね。「絵を描くこと」自体が目的化すると、絵の持つインパクトはたしかになくなります。それは宗教美術の一種の運命のようなものかもしれません。しかし、形骸化や形式化がつねにマイナスであるわけではないとも思います。別の話になるかもしれませんが、平安時代の絵巻物に引目鉤鼻という技法があります。これは、高貴な男女を描くときの形式化された表情ですが、その当時の人々が、本当にこのような顔をしていたわけではありません。その証拠に、授業で見た餓鬼草紙や病草紙、あるいは、有名な信貴山縁起絵巻や伴大納言絵詞などには、個性あふれる登場人物がたくさん現れます。引目鉤鼻は、わざと個性をなくした形式化した人物表現をとることで、見るものが感情移入することができたとか、高貴な人々の顔は、個性を持たせずに描くことで、その高貴さを保つことができたなどといわれます。源氏物語絵巻のような絵巻物の傑作が、ほとんどこの引目鉤鼻で描かれていることを考えると、形式化によってインパクトが失われたとも言えないでしょう。なかなか難しいですね。ちなみに、インドの宗教美術も、写実性よりも形式性が優先されます。

四苦の一つ「老」のところで、老婆が鏡を見て嘆く姿があったり、天女の絵で、若い女が水浴びをしているのと、臭い老いた天女の対比があったのですが、老いが苦しいというのは女性の方がその苦しみは大きいのではないかと思います。今でも男性は年を取った方が魅力的といわれる(男は30を過ぎてから、とか)けど、女は25過ぎたらもう終わりといわれるそうです。女って損ですね・・・。(森による注・このコメントは女性の方からです)
今の日本の社会はそのような見方をする人が多いかもしれませんが、それはかなり人為的なものだと思います。だいたい、男性と女性で、年齢と美しさや魅力が、逆転するというのは単純すぎるでしょう。現代の日本は、不必要なまでに「若さ」を持ち上げる傾向があります。「若いこと」が「純粋」で「美しい」のは、ほとんど幻想でしょう。同じことを「自己中心的」とか「未熟」といえば、若いことはネガティヴになります。若さを売りにするのは、現代のテレビやマスコミがすさまじいまでに低年齢化していることの自己弁護のような気もします。

安産と雨乞いの話でしたが、前回も雨=精子=妊娠というような話を聞いていたので、やはり雨と性的なものは深く関わっているんだなぁと思いました。
たしかに、一角仙人のところですでに基本的な考え方は示していましたね。今回の特徴は、神や仏のイメージに見られる動物を中心に、古代インドから平安時代の日本へのつながりをたどります。一角仙人では神話や物語のモチーフの伝播ですので、かなりそのつながりは明瞭ですが、今回は、動物というイメージのみが手がかりです。しかし、そこにも一本のラインがあることを、いろいろな材料で確認したいと思います。

どうしてウルヴァシーは、プルーラヴァスに対し、裸身を見せるなといったのですか。夫婦なら別に恥ずかしがることでもないとおもうのですが・・・。天女には男性の裸を見せてはいけないという戒めでもあるのですか。というか、天人は性行為を行うのですか。天人はどこから生まれてくるのでしょう。人間と同様、性行為→妊娠→出産みたいな感じなのですか。
まぁ、神話というか物語ですから、細かいことにはあまりこだわらずに・・・。裸身を見せるなというのは、雷で裸身を見せるための伏線でしょう。天人一般がどのように生殖行為を行っていたかは、一概には言えません。プルーラヴァスを取り戻したガンダルヴァたちは、好色な天としてよく知られています。ガンダルヴァだからこそ、このような神話が生まれたのでしょう。その一方で、天の世界では上の天に行くほど、性行為がどんどん簡単に(あっさりしたものに?)なるという考え方もあります。下位の天では抱き合うだけで子どもができるのですが、その上になると手を握るだけで、さらにその上では見つめるだけでと、変わっていきます。それで満足できるのだそうです。



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