エロスとグロテスクの仏教美術

2007年12月6日の授業への質問・回答


『九相詩絵巻』で死体が腐乱し、骨だけになっても、髪がかたまりになって残っていたのがすごく不気味で、印象に残った。髪は日本で昔から、最もエロスを感じさせるものとされてきたが、やはりエロスとグロテスクというのは表裏一体で、どちらにも通じるのかもしれない。それと、以前「八寒地獄」というのがあると聞いたことがあるのですが、本当に何かの文書に残っているのでしょうか。
髪の毛に不気味さというのは、たしかにありますね。宗教学や民間信仰では、髪の毛は体の部位の中でも重要な位置を占めています。髪の毛に関するタブーもいろいろあります。『九相詩絵巻』に見られたように、体が簡単に腐っても、髪の毛は最後まで残ることも、その背景にあるのでしょうね。その一方で、体の一部でありながら、切っても痛みを感じないという特別なものです(レポートの文書でも書きました)。両義的な存在なのです。『旧約聖書』のサムソンの物語で、怪力サムソンの力の源が髪の毛にあったというのは、このような髪の持つ神秘的な力に由来するのでしょう。その一方で、女性の髪の毛のもつエロスは、それとは別の次元で宗教的な力は持っているような気がします。『グリム童話』のラプンツェルなどはその一例でしょう。そこでも性的なモチーフが長い髪の毛とともに現れます。「八寒地獄」はちゃんとあります。『往生要集』にも登場しますし、地獄絵の中には、これを描いたものもあります。でも、あまり怖そうではありません。実際は、熱い地獄よりも苦しいことになっているのですが、寒さを絵画で表現するのは難しいようです。

『往生要集』のような文字資料は、地獄などの様子の描写が細かくよく理解できるが、迫力には欠ける。一方、絵になると細かい部分は意味がわからずとも、すさまじい迫力がある。やはり、絵によって見せるというのは、そういったインパクトが重要だったのだろうなと思った。漫画家は、恐ろしい絵を描くときは、自分も恐ろしい顔をしているという話を聞いたことがあるが、今回、見たような気持ち悪い絵を描いた人は、一体どのような顔をしていたのだろう。
文学と絵画の違いは、文化を考える上で重要でしょう。たしかに、文学に比べて絵画は視覚に直接訴えるので、わかりやすく、迫力もあると思われがちですが、実際はそれほど簡単ではないと思います。われわれは絵を見ていても、そのすべてが理解できるわけではありません。私もそうですが、知っている作品でも、専門の論文などを読んでから同じ作品をあらためて見ると、違ったように感じることがあります。見ているようで見ていないことがたくさんあるのです。その一方で、文学作品は一定時間、読み手の意識を拘束しますので、より印象が強く残ることもあります。そもそも、人間は想像力を持っているので、文字から紡ぎ出すイメージの世界は、絵画のようにはじめから与えられたものよりも、より強烈である場合もあります。人が本を読むのは、そういう世界を体験できるからでしょう。漫画家の顔の話は、そういうこともあると思いますし、芥川の『地獄変』などは、まさにそのような狂気にとらわれた画家の壮絶な姿が主題の作品です。でも、私の個人的な考えですが、たいていの漫画家はどんなシーンでも普通の顔をして描いていると思いますよ。

地獄絵で何度も同じことを繰り返す罰がありましたが、親より先に死んだ子どもが、河原で石を積み上げて、あと少しで完成というときに、積み上げた石を番人にくずされてしまい、また最初から積み上げていくというのを繰り返すという話があったような気がするのですが、これもその罰のひとつなのでしょうか。親より先に死んだだけで、どうして罰を受けなければ行けないのかが、昔から疑問です。また、糞尿の中に入った人をつつく蜂のような虫がいましたが、漫画『犬夜叉』にそっくりな虫(毒をもっている)がいます。また、牛頭馬頭が出てきたり、「どく(虫を三つ書いて、下に皿)毒」の儀式もやっていたりしていました。
賽の河原での子どもの苦しみですね。三途の川のほとりの情景として、地獄絵でもよく描かれますが、地獄草紙や聖衆来迎寺の六道絵には見られません。これは、親よりも先に死んだ子どもは、「不孝」つまり孝行ができないということで、その償いをしていると説明されます。儒教的な忠孝思想が背景にあり、もともとのインドの仏教には見られないものです。地獄絵は鎌倉から室町にかけて、中国の新しい形式が入ってきて、変質しますが、そのころに導入された新しい地獄です。ちなみに、賽の河原でで子どもを救ってくれるのが地蔵です。そのため、水子供養のような子どもに関係のある信仰には、地蔵は不可欠の存在です(観音の場合もありますが)。岩を使った無意味な拷問は、ギリシャ神話の「シーシュポスの物語」が有名です。私は『犬夜叉』は読んだことがありませんが、漫画に出てくる地獄のモチーフは、当然、このあたりのイメージを参考にしているのでしょう。ジブリのアニメにも、地獄絵や絵巻物のモチーフがたくさん含まれます。

グロテスクな絵を見るにつけ思うのですが、とても怖いと思うのですが、人々が実際に来世というものを、どれだけ本当のこと・・・というか疑いなく存在すると思っていたのか疑問に思いました。今の時代でも、来世を信じて苦行を積むという方々がいらっしゃいますが、そんな感じですか。先生が、平安時代、目前には地獄絵図のような光景が広がっていたという話をされていましたが、絵を見る人々は「明日はわが身」と思っていたんですか・・・ね?
たぶん、当時の人々は本当に来世があると信じていたと思います(今だって、無いと思っている人とばかりではないでしょうし、あるかないかは、誰にもわかりません)。とくに、現世が苦しければ苦しいほど、来世に期待をつないだのではないでしょうか。浄土への往生や弥勒の世の出現などは、具体的なイメージとして、当時の人々の圧倒的な支持を得たと思います。当時、人々の暮らしは地獄絵さながらだったというのは、正しいと思いますが、逆に「地獄絵」を見て、自分たちの日常の世界と変わらないと思うことは、あまりなかったと思います。そもそも、地獄絵は一般の人々の目に触れることはありませんし、それを見ていた貴族の人々は、やはり特権階級として、社会の上層にいた人々でしょう。

今日の絵は見ているのがしんどかったです。これじゃ、日本人が他の文化(レポート課題のインド仏教)などと比べて、極端に「死」を忌み嫌うようになるわけですね。また、今まで当たり前のように見ていたのですが、地獄(死後の世界)にも、体という概念はあるということに、少し不思議な感じがしました。一度肉体は滅んで、死を迎えたのに、地獄ではまた体をえている。不思議です。この体は虐げられるためだけのものに思われますが。
地獄にも体はあります。地獄は正確には「死後の世界」ではなく、死ののちに生まれ変わった世界です。輪廻の一部ですから、天とか人とか、動物とかと同じなのです。地獄では身体は虐げられるだけのものというのは、なかなか卓見ですね。そこでは身体のもつさまざまなはたらきがすべて無視されています。筋骨隆々としたアスリートのような亡者が、地獄で筋トレをしているようなことはありませんから。それに、地獄の苦しみがほとんど身体的な苦痛で、精神的なものがきわめて少ないのも、おもしろいですね(幼児虐待者のところに少し登場しますが)。地獄の住人は精神をともなわない肉体のかたまりという感じです。

往生要集の中で、同性愛の男性が拷問を受けるというのがありましたが、同性愛を罪とするのはいつからはじまったことなのでしょうか。それから、九相詩絵巻では高貴な女性が腐敗していく姿が描かれていて、男性の視点から見たエロスが隠れているという解釈がありましたが、女性ではなく、男性の死体が腐敗していく様を描いたものはありますか。
よく知られているように(知られていないかもしれませんが)、日本では比較的、同性愛に対しておおらかでした。西鶴の『好色一代男』などでも、世之介が女性だけではなく、どれだけの男性を相手にしたかを自慢するところがあります。僧侶の間でも「お稚児さん」という形で、少年僧と関係を持ったことが、知られています。『往生要集』は中国やインドの経典に典拠を求めているので、同性愛に対しては厳格な姿勢が貫かれていますが、実際は、同性愛自体は問題にはされなかったのかもしれません。むしろ、色欲や、とくに出家僧が姦淫をなすことに対して、厳しい罰がくだされたということでしょう。九相詩絵巻の男性版は、残念ながら日本にはありません。この作品の説明はあまりおこないませんでしたが、基本的には「無常」を理解するための瞑想が基本にあります。これは初期仏教以来行われた実践で、「不浄観」といいます。実際に墓場で死体を観察しながら行ったとも言われますが、その場合は男女の違いは問題にならなかったでしょう。インドや中央アジアには、九相詩絵巻の原型となる壁画がありますが、そこでは女性ではなく男性です。あえて女性を選んだところに、日本人の嗜好がうかがわれます。

六道絵の中に、パッチワーク的な技術が使われているということですが、それはよく使われた技法なのですか。何のために行われたのですか。短歌に昔の有名な歌をさりげなく混ぜるような技法(名前忘れました)がありますが、何か、そういった意味合いがあったのでしょうか。
有名な歌をふまえた短歌の技法は「本歌取り」というのではなかったでしょうか。六道絵でパッチワークとかコラージュといったのは、特殊な技法ではなく、一般に見られるものです。六道絵の重要な場面は、すでに先行する図像例が日本や中国にあり、それを踏襲しているというものです。六道絵を含め、仏画は絵画なので、作者のオリジナルが発揮された芸術品と考えがちですが、そのほとんどは先行例があり、それを組み合わせて描いています。もちろん、その時代固有の表現が出現することもありますが、それはむしろ例外的です。ちなみに、画家は芸術家というよりも、職人に近いと考えられます。職人は何よりも伝統を重んじますが、すでに確立したイメージこそが伝統なのです。

地獄絵の炎をはじめ、赤色が目立ちます。この地獄の炎と、不動明王の火炎を比べると、後者が聖なる炎と思えますが、悪を懲らしめるという意味では、同じものとも思えますが。
不動をはじめ、明王には炎がつきものです。その表現にはかなりヴァリエーションがあり、時代によって異なりますが、授業でもふれたように、地獄草紙の炎の表現に近いものもあります。かわった形の炎としては、迦楼羅炎といって、迦楼羅の形をかたどった炎を描いた不動明王もいます。これは地獄絵には登場しませんが、火の鳥のように描かれます。火がどのような機能を持ち、聖なるものとしてとらえられるかどうかは、状況によると思います。密教の場合は、火を用いた儀礼である護摩が重要で、そこでは火は聖なるものであり、浄なるものでもあります。この火が地獄の火と同一視されることはないでしょう。

病草紙についてくわしいことはわからないんですけど、病気の記録という観点から、もしかしたら医学書的な役割があったのではないかと思います。あてずっぽうですが。そうじゃなくて、単に自分たちとは違うものを見て、笑いを得たいという人間が持つ汚い欲から出たものかもしれません。かくいう私も、九相詩絵巻はずっと見たかったんです。ずっと前から。美だったものも腐り果てていく。生が死となるなど・・・。なんかこの前のレポートを思い出します。無意味なことを繰り返す・・・そういうのが地獄だとしたら、現実も地獄になりそうです。トリ目はビタミンA不足です。イチゴを食べましょう。
病草紙の制作の目的は謎です。たしかに医学書という説もあるのですが、詞書きや病気の種類から考えて、どうもそうではないようです。体の不自由な人を見て笑うというのは、現代では許し難い発想ですが、残念ながら人類の歴史では、つい最近までそれが普通でした。見せ物小屋などはその典型です。サーカスのような娯楽も、基本的にはそのような要素を含んでいます。それがおかしいという考えが浸透したのは、少なくとも、人権教育や社会のモラルが広がったからでしょう。生と死の隣り合わせは、この授業の基本なので、レポートも含め頻繁に登場します。そのパターンに文化の違いを見いだしたいと思います。

地獄草紙は、小学校の頃、お寺の日曜学校という、お経を唱えて説法を聞くものに行っていて、よく見たものでしたが、この年になって見てみると、とてもグロテスクだと感じました。ただ生々しくはないので、ゾッとはしない気がします。鶏や炎はとてもリアルですが、(火とが小さく描かれているからなのか?大きく細部まで描かれていたらけっこうイヤかもしれません)けっこう人間の体はあっさりしていると思いました。あと、小学校当時から少し疑問だったのが、血の海です。もちろん入れといわれれば、とてもではないけれどイヤですが、地獄の中でのいろんな責め苦よりも、ただ入るだけなら、けっこう苦しいことではない気がします。(皮はがされたりするよりは)。血に対して、何か今の私たちより、強烈に嫌悪を感じるものがあったのでしょうか。
地獄草紙の方が、六道絵よりもグロテスクさは少ないような気がします。聖衆来迎寺の六道絵は、細部までけっこうリアルです。でも、何度も見ていると、それほど気持ち悪くはなくなり、むしろ、美しさを感じるようになります。試してみてください。血の池地獄は、古い時代にはあまり描かれないモチーフです。聖衆来迎寺の六道絵にも見られません。これは、女性専用の地獄で、女性と血との結びつきが背景にあります。経血や出産時の出血がが不浄と見られたのです。不産(うまずめ)地獄という別のタイプの女性専用の地獄もあります。このような地獄は宋や元の中国で流行し、日本でも室町時代頃からの地獄絵からはじまります。『血盆経』とよばれるお経も伝わります。血の池地獄や不産地獄は立山曼荼羅にもあります。

鋭い針(剣)の山の上に美女がいて、それにむかって男性が傷ついていくという地獄の様子は、謡曲にも取り入れられていますね(作品名は忘れてしまいましたが)。その謡曲では邪淫にかられた男女が二人で落ちたとされ、誘惑する側の女性も、自分が愛する男性が苦しんでいる姿を見せられて苦しむというような内容になっていましたが、この地獄には女性側の罪人はいなかったのでしょうか。
謡曲があるのですね。作品名を思い出したら教えてください。刀葉樹に女性のためのものがあることは、今回の授業で紹介するつもりです。そこでは、女性が罪人として遍歴します。グロテスクでありながら、同時にエロスも意識した地獄絵だと思います。

性的な罪業を犯したものは、獄卒に直接、拷問を受けるわけではないという共通点があるように思えます。刀葉樹は、自身の性欲によって自身を傷つけますし、幼児虐待は、自身の子どもが虐待されるのを見て苦しみますし、同性愛は燃える相手によって苦しみますから。
それもそうですね。獄卒の手を借りなくてもいいということに、何か意味があるのかもしれません。

今でこそ「六道絵」は電灯など明るいところで見れるが、当時は薄暗い家屋やお堂で、ろうそくの揺れる灯の下で見ていたんだろうなと想像すると、今よりも絶大な効果(悪いことしたら地獄だよ等)をもたらしたんだろうなと思う。
地獄絵は年に一度、虫干しもかねてひろげられ、それを絵解きするという習慣が、日本各地であるようです。それを見て、とても怖かったという感想を持つ人も多くいます。これは、本来、平安貴族の風習だったようで、清少納言の『枕草子』にも登場します。このような作品を見るときは、たしかに、それを見ていた当時の状況を考慮に入れる必要がありますね。



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