エロスとグロテスクの仏教美術

2007年11月29日の授業への質問・回答


本当に日本の絵巻物って暗いですね。餓鬼気味悪いって思いますけど、これって、私たち自身なんですよね。今生の行ないで来世が決まる、六道のどこに生まれ変わるかが変わってくる。明日は我が身かもしれない餓鬼を、こんなに多く絵にして残すところが日本人の暗さというか、怖いものをブラックユーモアにしてしまう滑稽さが出ていると思います。日本人らしいですね。
前回は餓鬼草紙しかお見せできませんでしたが、これに地獄草紙と病草紙が加わると、もう、だんだん麻痺してきて、何が気持ち悪いかわからなくなります。とどめが九相詩絵巻です。「餓鬼が私たち自身」というのはそのとおりです。それは来世のことではなく、この現世のことでもあります。人々が飢えに苦しんでいるのは、長い歴史の中のほとんどの時代です。現代は違うと思うかもしれませんが、アフリカの飢饉などを考えれば、今なお、それは続いています(それにしても、現代の日本人が食べ物を粗末にするのはすさまじいですね。来世はみんな餓鬼になるでしょう)。手や足は棒きれのようにやせて、その一方で、おなかはボールのように丸くふくれるのは、極端な栄養失調の症状です。とくに子どもに顕著に表れます。餓鬼草紙が描かれた時代の京都は、まさに絵巻の中の光景がいたるところで見られたはずです。地獄草紙の拷問や殺戮も、この世のできごとです。これらの絵巻のリアルさは、現実のものだからこそ可能だったと思います。その一方で、絵巻の中の餓鬼がどこかユーモラスで、滑稽感を漂わせているのも不思議です。「哀れさ」を感じるという感想も多く見られました。これまでにも見てきたように、グロテスクさを徹底させると、どこかで変換が起こるようです。

日本の話に入り、今日は日本史を勉強している自分にとっては興味深かった。平安末期から武家社会に入り、鎌倉にこれらの作品が書かれたが、餓鬼、地獄、病といったグロテスクな面が描かれた背景には、六道思想や、繰り返す輪廻から逃げれない心の叫び、痛みが感じ取れた。やはり、これらの作品は旧仏教の僧侶によって描かれたものなのか。「〜草紙」については、作者、時代背景、地域等、地理学、歴史学、民俗学など、多くの分野と結びついており、当時の「悪」「ケガレ」「罪」を考える上で大事な作品なので、もっと知りたいと思った。
私も日本史が好きなので、授業の素材も日本のものを取り上げることが多いです(専門はインド仏教ですが)。絵巻物の研究はたしかにさまざまな分野にまたがります。仏教美術史という分野そのものが、宗教と美術の両分野を基礎とする学際的な研究領域です。かつて日本史では、文字で書かれた史料が研究対象となり、絵巻物などの図像資料はほとんど扱われませんでしたが、近年ではその資料的価値が再認識され、多くの研究が出てきています。絵巻物はその中でも、学際的な研究の中心的な位置を占めています。六道絵などが生まれたのは、いわゆる旧仏教の方です。鎌倉新仏教はあまり芸術作品の制作に意欲を見せませんでした。これは、一種の保守化で、キリスト教でも宗教改革のプロテスタント側に、美術作品が少ないことと似ています。

シンハラ国の話が『観音経』に引用されていますが、シンハラ国の話が先にあり、それを『観音経』が取り込んだのでしょうか。羅刹といい、先週出てきた女性を懲らしめるために釈迦が遣わした美青年といい、人間は美しいものに弱いようです。しかし、今回のような餓鬼草紙や地獄草紙のようなグロテスクなものも好きだったりと不思議なものです。美の中にグロテスクを見いだすことができますが、グロテスクの中に美を見いだすのは難しいような気がしますが、どうなのでしょうか。
シンハラ国の話が先にあり、それを『観音経』が取り込んだというので正しいです。『観音経』は『法華経』「普門品」が独立してできています。『法華経』そのものが段階的に成立し、「普門品」はその最も新しい層に属します。シンハラ国物語を知っているという前提で、あの一節は加えられたのでしょう。知らなくても経典の意味は理解できますが、実際に浮彫などの作品を作った人たちは、当然、それを知っていたはずです。美とグロテスクの問題はむずかしいですね。だから、授業でも取り上げているのですが・・・。絶対的な美とかグロテスクというのは、おそらく存在しないでしょう。ひとりひとりでも微妙に違いますし、インドと日本のように、まったく異なる文化では、明らかに違います。美を見るのもグロテスクを見るのも、非日常的な視覚体験であるという点では共通します。それは、宗教体験における視覚体験ともどこか通じると思います。崇高なるものは美しくもあり、場合によっては恐ろしくもあるからです。私自身は、グロテスクの中にも美を見いだすことはあると思っていますが、そのあたりは皆さんもよく考えてください。

餓鬼草紙は気持ち悪いなと思ったんですけど、気持ち悪いと思いながらついつい気になって、見たくなってしまうものですね。ホラー映画のような。今、学校へ来る途中の道にタヌキの死体があります。見たくないなと思いつつ目がいってしまいます。だんだん腐っていく様子を見たくなるのは、死後の世界への関心があるからかなと思いますけど・・・。高貴な女性の死体を観察した絵がありましたよね。
「怖いもの見たさ」という感覚は、おそらく人間に共通してあるのでしょう。授業でも言ったかもしれませんが、人間の五感の中で、視覚ほど冒険ができる知覚はありません。触覚や味覚など、あまり危ないことをすると、命を落としますから。タヌキの死体は私もその前日に見ました。ネコかイヌかと思ったのですが、タヌキだったんですね。高貴な女性の死体が腐るプロセスは、宿題の文章でも取り上げ、今回の授業でも詳しく見る予定です。『九相詩絵巻』といいます。

地獄草紙や餓鬼草紙は小さいころ、墓参りに行ったお寺で見たことがあり、その日の夜は怖くて眠れませんでした。でも、今日見て思ったのは「餓鬼がかわいそう」ということでした。彼らはあそこまで苦しめられなければならないようなことを、生前に行ったからああなったのですか。それとも、人は死ねばみんなまず餓鬼になるという考えなのですか。いいことをした人はすんなり天国に、悪人は地獄に・・・というイメージがあったので、すこし気になりました。あと、どうして餓鬼は排泄物を食べるのですか。食べ物や酒、水ならまだわかるのですが、なぜ排泄物を食べるのでしょうか。
あまり小さいころに地獄絵などを見るのは、トラウマになって良くないでしょう。ある程度、大人になっていろいろな意味で成長してから(場合によっては鈍感になってから)見るべきです。「餓鬼がかわいそう」と思えるのは、大人になった証拠ですね。餓鬼草紙に描かれている餓鬼については、典拠となる経典があります。それぞれ、どのような行いをしたから、このような餓鬼になるという説明があります。すべての人が餓鬼になるわけではなく、あくまでも六道輪廻のひとつで、しかも、地獄などよりははるかにましです。排泄物を食べることに、多くの人が疑問を示しました。このあたりは、私もよくわかりませんが、排泄物に対して、人間が関心をよせるのはけっして珍しいことではなく、小さい子どもや認知症になった高齢者などには広く見られます。自分の体から排出したものは、まったく異質な物質ではないのです。ただし、そういう年齢でもなく、そのような嗜好が顕著になると、スカトロジーとか性的倒錯などのアブノーマルな人間と見なされます。

餓鬼は本当は怖ろしいものなのだと思うが、絵巻を見ると、どこか哀愁を漂わすものがあったように感じた。絵師の人たちは、ただ怖いものとしてだけではなく、餓鬼道に落ちてしまった人間だということを考えつつ描いているのだろうかと思った。私も鳥取の出身だが、一角仙人と麒麟獅子の関係については、そんな風にも考えられるんだなと思った。比較文化的な視点で、なんかすごいと思った。
一角仙人と麒麟獅子は、そのあいだに能が介在するのではないかということで、いろいろ調べてくれました。結局、結論としては立証できなかったのですが、なかなかおもしろい卒論でした。今年の6月に、私も初めて鳥取に行きました。麒麟獅子は見られなかったですが、町おこしなどで麒麟獅子舞に力を入れていることを知りました。なお、麒麟獅子の本物は、意外に近いところで見られます。金沢の隣の鶴来に獅子吼公園がありますが、そのなかに日本とアジア各地の獅子舞の獅子が展示された獅子舞資料館があります。それほど大きくありませんが、なかなか充実した資料館です。麒麟獅子はかなり目立つところに置いてあります。

はじめにシンハラの話で、「美しいこと」と「グロテスクというか奇なこと」が相通じているというのがおもしろかった。醜と同じく美も、討伐の対象となるのであれば、美と同じく醜も崇め拝む対象となったりするのでしょうか。
なると思います。それだから、授業で美(あるいはエロス)をグロテスクと並べて扱っているのです。シンハラ物語は『今昔物語集』で強調したように、美とグロテスクが明確に分けることができないところがひとつのポイントだと思います。「美麗ながら気疎け気」というフレーズは、その典型です。これからの授業では日本の作品や信仰を扱っていきますが、そこではグロテスクなるものが信仰の対象として重視されたことが、頻繁に登場するでしょう。

雲馬の話が興味深くおもしろかったです。もともとの話で、半分が残り、半分が逃げるという話もおもしろかったのですが、未練を残したものが振り落とされ、羅刹の餌食になるという『今昔物語集』の方が、救いを求め、一度助かりそうになりながらも、見放されたというようで、未練を残すことの危うさに対する教訓が出ているように思われ、興味深く感じました。この話を読んでいて、昔の怪談に伝わるような、はじめは美女の姿で、後々本性を現すというパターンの物語を、いくつか思い出しました。あれらも「美」と「グロテスク」を内包し、また、「死をもたらす愛欲」「警戒すべき美しさ」を示唆している部分があったのでしょうか。
私もシンハラ物語の、未練を残して落馬するというモチーフが好きです。たぶん、自分でもそうなってしまうでしょう。イザナギやオルフェウスもそうでしたし、その場合は、逆にふりかえらなければ生と死の秩序がくずれてしまうような気もします。美女が怪談で重要な役割を果たすのは、たしかにたくさんあるでしょうね。雪女もそうですし、ラフカディオ・ハーンの「むじな」もそうです。だいたい、四谷怪談など、ほとんど美女が主人公ですね。新しいところでは、20年ほど前に日本中で流行した「口裂け女」も同様です。美からグロテスクへの一瞬のうちの転換や、美が秘めている恐ろしさが、基本にあるのでしょう。

インドにはグロテスクな絵、彫刻が少なく、日本には多いという話だったが、日本の仏教での「死」へのイメージは、本来、不浄、けがれたものではなかった気がする。そのことと関係があるのだろうか。小さいときに茶碗を箸でたたくと、よく祖母に「餓鬼来るよ」と怒られたものです。
浄と不浄の観念は、多くの文化で宗教と結びつきます。日本の場合も同様で、不浄なものを忌避することが一般的です。おそらく、死はケガレと最もよく結びつき、さまざまなタブーを生みました。しかし、ケガれているから排除されるのではなく、そこに宗教的な価値を見いだすことも日本の宗教や民俗の特徴です。日本民俗学では、ハレ、ケ、ケガレという三つの概念をしばしば用います。「ハレ」は「ハレの日」とか「ハレの舞台」というような形が今でも用いられますが、非日常的でかつプラスの状態を表すことばです。ケガレはその反対で、マイナスの方です。「ケ」はこれらの逆にある日常的な状態で、宗教的にはプラスでもマイナスでもないニュートラルな状態です。「ケ」が「枯れた」から「ケガレ」となるという解釈もあります。グロテスクを扱うときには、この「ケガレ」の概念も検討する必要があるのですが、あまり話を広げ過ぎると、授業では収拾がつかなくなりそうな気もします。お茶碗をたたくと餓鬼が来るというのは、私もよく聞かされました。そのような世代の人たちにとって、餓鬼は想像上の存在ではなく、しっかり実在しているのでしょう。

ふと思ったのですが、美術作品で死の対比の性として、性交のシーンが多いのですが、出産シーンをモチーフにしたものってないですよね。生=出産だと思っていたので、少し疑問に思いました。エロスの要素が少ないからでしょうか。
餓鬼草紙には出産のシーンがありましたね。これとよく似たモチーフが、六道絵の中にも登場します。今回取り上げる予定ですが、餓鬼道ではなく人道、すなわちわれわれの世界の一コマです。これは仏教の基本にある四苦、すなわち生老病死のうちのはじめの生苦を表すものです。本来、生苦は生きていることすべてが苦しみなのですが、図像として表す場合は出産の苦しみとなります。ただし、たしかにエロス的なイメージはあまりないようです。

羅刹女に気付くきっかけが、美しいが不気味というのが興味深かった。完璧すぎるものに、恐怖心をいだくという感覚はわかる気がします。あと、羅刹女の話を聞いて、妖怪二口女の話を思い出しました。美人の妻がほとんどご飯も食べないのに、毎日かいがいしく働くのを夫が不審に思って・・・という流れが似ているなと。
ご飯を食べない美人の女房がじつは山姥で、頭の後ろに口を持っていて・・・という「食わず女房」などの名で知られる民話ですね。たしかに、この女房は羅刹女のイメージがあります。よけいなことですが、頭の後ろの口というのは、同時に女性器のイメージも込められているでしょう。ギリシャ神話などでは、女性器に歯がある女性がいて、性交をすると男性は命を落とすというモチーフがあります。マトゥラーの雲馬王物語の浮彫で、上段で性交をし、下段で舌を垂らして食欲旺盛な羅刹が表されたものがありますが、この論理にしたがえば、上段も下段も、羅刹にとっては同じことをしているのです。「完璧すぎるものは不気味」というのも、普遍的に見られるようです。少し、話は違いますが、テントウムシとかダニとかがびっしり並んだ写真を見ると、多くの人が気持ち悪いと感じるようです。ひとつひとつは別に気持ち悪くはないのですが、同じものが規則的に配列していると、ダメなようです。これも「完璧なものは不気味」のひとつの例なのかと思っています。整然とした模様はきれいな場合も多いのですが、何が違うのでしょうね。


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