エロスとグロテスクの仏教美術

2007年11月22日の授業への質問・回答


女性に化物性と美性の両面を見いだすのは、都市伝説によくある夜笑うモナリザとか彫刻が歩くとか、美しく聖性をともなうものへの畏れが転化しているからではないかと思いました。でも、聖女伝などには発生しませんね。用途の問題でしょうか(神や神話という装置に意味付与して、使うのは人間ですが)
「夜笑うモナリザ」とかのことは私はわかりませんが、なかなか不気味なものがありますね。美しいものが怖ろしきものに転換するというのは、今回のはじめに取り上げるシンハラ国物語でも共通です。美とグロテスクが共存しているというのが、この授業の基調ですので、そのあたりのメカニズムが解明できればと思います。キリスト教世界の聖女には、この「美とグロテスクが共存」は、たしかにあまり見られませんが、サロメが洗礼者ヨハネの首を所望して、実際に斬首させるところなどは、聖女ではありませんが、けっこうそれに近いイメージのような気もします。

シヴァやインドラは神でありながら、有能な人間に嫉妬するなど、なんだか、神っぽくないように思えます。それでもインドでは(とくにシヴァは)人気のある神だったと思うのですが、やはり人間っぽい神の方が好まれることなのでしょうか。
シヴァもインドラもとても人間くさいですね。『リグ・ヴェーダ』には、インドラの浮気とかの物語が出てきます(いずれ取り上げるつもりです)。眼が百個あるという神話もあり、これは美人を見たいという欲求から、体中に眼が出来たというものです(先回の資料の『マハーバーラタ』でもそのように呼ばれていました)。けっこうグロテスクです。シヴァやインドラに限らず、インドの神様はおおむね人間くさいです。クリシュナなどもさまざまなエピソードを持っていますし、その中には性的な物語もたくさんあります。指摘しているように、人間っぽいから好まれるのでしょう。ギリシャ、ローマの神話の神々も同様です(印欧語族の共通の神話から派生しているから当然です)。世界中の神話を見れば、キリスト教やイスラム教の神のような、完全主義者の神の方が珍しいかもしれません。

14頁でも紹介されていますが、リシュヤシュリンガは『ギルガメシュ叙事詩』のエンキドゥに似ていますね。もともと、森に住んでいて、しかも女によって力を失うという部分が共通しています。ただ、このふたつの持つ意味として、「力を失う」というよりも「自然(=獣)から人へ」なのではないかと感じました。その変化によって、雨などの自然的な力が失われているように見えますし。どちらも女性との性行為の後に、人の心を持ちはじめるように見えること、あと『今昔物語』の一角仙人もエンキドゥも「街へ向かう」というエピソードが共通しています。その転換に女性が関わっているというのはおもしろいと感じました。
たしかにおもしろいですね。「自然から人へ」というのは「自然から文化へ」ともいいかえることができますね。わたしは『ギルガメシュ』は読んだことがないので、リシュヤシュリンガと関係があるのかはわかりませんが、地域としてはインドの隣なので、実際に影響関係があったかもしれません。時代から考えれば、『ギルガメシュ』が先行するのでしょう。このようなつながりをたどる比較神話学というのは、おもしろい学問だと思います。

陰馬蔵相のエピソードはすごいですね。エロスには継続し続きにくい、衝動的な面がありますね。このエピソードだけだと立川流の教義みたいに、感情的(精神的)エロスをともなわない、ただの行為に近い性交になってしまうのだと思いました。それを思えば、一角仙人は精神的なエロスと滑稽さを両方持っていますね。雨に精液というのは、大地(地母神)との交わりというイメージかと思います。エロスもグロテスクも、突き詰めるとどこか滑稽がありますね。
釈迦の三十二相のひとつ陰馬蔵相は、この先、愛染明王のところでふたたび登場する予定です。『観仏三昧海経』のこのエピソードは、たまたま最近見つけたもので、内容を見てびっくりしましたが、まさに授業のテーマにうってつけだったので、詳しく紹介しました(後で研究室で「しつこかった」という苦言ももらいました)。腐乱していく死体のイメージは、日本の絵巻の『九相詩絵巻』にも関連します。一角仙人のジャータカやマハーバーラタ版は、純粋な少年と手練手管の年上の女性という組み合わせで、これもひとつのパターンでしょう。古今東西の文学などに現れます。雨=精液は、農耕儀礼などではむしろ常識ですね。女性である大地と男性である天空(あるいは雲)の聖婚です。

授業前半の娼婦のエピソードで、私の中のお釈迦様がくずれました。けっこうな怒りん坊なんですね。あのお仕置きが娼婦のためになったのか疑問です。そもそも、こうした説話って、こんな感じなのですかね。一角仙人の物語については、がっつりグロデスクでしたね。現代ではありえないほど、精液について語るんですね。
『観仏三昧海経』のこのエピソードは、かなり特殊だと思いますので、お釈迦様のイメージは大事に持っていてください。阿難のモテモテに嫉妬したようなことを言いましたが、経典にはそのようには書いてありません。あくまでもお釈迦様は淡々としています。しかし、けっこう怒りん坊なところはあると思います。律では、何か事件が起こるたびに(事件が起こるから律が制定されるのですが)、当該者が厳しく叱責されます。阿難もよく叱られています。だから、阿難は魅力があるという人もいます。一角仙人の物語は、私はそれほどグロテスクとは思いませんでした。精液そのものも物語ではあまり強調されず、上記のように、解釈として降雨=性交、つまり雨=精液ということだと思います。

今日の授業の本筋とはあまり関係ないかもしれませんが、釈迦の作り出した化作というものに、興味があります。いきなり作り出されたのに前世があるのですね。しかも、性格がかなり直情的(女性がご飯を食べただけで首をかききる)なのは、何か意味があるのでしょうか。それから、化作は実体がないようなものだと思っていたので、腐っていく過程の描写にはびっくりしました。
たしかに、突然作り出されたのに前世があるのは変ですね。でも、前世では12日間、性交し続けたというのは、けっこう笑えました。化作でも腐っていくというのは、それも釈迦の幻術のようなものだと思えば、まぁ納得できるのではないでしょうか。

物語に登場するものには、象徴的な意味合いを持つものが多いと思った。一角が男性の象徴というのは、わかりやすいが、稲妻もというのはなぜだろう? 気になります。リシュシュリンガが若者として描かれていたマハーバーラタでは、角も神聖なもの(エロスではないが美)という印象を受けたが、今昔物語においては、リシュシュリンガ(一角仙人)が老人として描かれ、角はむしろグロテスクな感じがする。その変化にともなって、内容もエロス→滑稽に変わっていて、その連動がおもしろいと思った。リシュシュリンガの描写が、若者から老人へと変わったのは、いつ頃なのだろうか。
神話や物語は象徴の宝庫で、そこからさまざまな意味を読み取ることができます。ただし、その解釈が恣意的になると、学問的ではなくなるので、注意が必要です。稲妻が男性の象徴というのは、インドラ(帝釈天)や安産法のところで取り上げるつもりです。雨=精液、降雨=性交であれば、天から地へと突き進んでくる稲妻は、そのまま男性の象徴としてとらえられるのではないかと思います。一角のグロテスク化は、今昔物語集で登場人物の言葉としてもあらわれたので、注意しておきました。たしかに若者から老人への変化が、エロスの内容の変化に連動しますね。『大智度論』というインドで成立した仏教の百科全書的な文献に、すでに老人のイメージの一角も登場するようなので、必ずしも日本でそうなったわけではないようです。また、紹介しませんでしたが、王女と結婚した一角仙人が、侍女と浮気して、王女に蹴飛ばされて頭を打って、はじめて目が覚めたという物語になっているインドの文献もあります。この素材は、容易に滑稽化するのでしょう。

『今昔物語』ではなく『今昔物語集』です。あと中国の話は震旦です。英文で書かれている遊女と釈迦の話は、仏教の無常観ともつながるのではないかと思いました。いくら美しい人間でも、死ねば腐って醜い姿をさらす。そして夢中になっていたはずなのに、その姿を見て恋が冷めてしまう。そこから悟りを得て、仏道に励むという展開は、日本の仏教説話にも多いパターンですよね。
『今昔物語集』と震旦のご指摘、どうもありがとうございます。『観仏三昧海経』はもちろん、無常観を説きたかったのでしょう。『九相詩絵巻』に出てくる腐乱する死体も、その背景にある死体の瞑想や観察の修行も、いずれも同様です。それは基本的にはインドも日本も同じなのですが、その表現の方法や力点の置き方の違いがあるような気がします。日本の仏教説話から、いろいろ探し出してみてください。

一角仙人の話は何ともエロティックでおもしろかった。これが男女逆だったら、それもそれでエロスがあると思う(神通力を失うという教訓はないけれど)。角というと鬼という感じがするのですが・・・。鬼がどっから生まれたのか詳しいことを知らないので、関係はあるのかなとふと思いました。仏教で女性がハブにされる話を聞くと、いつも思うんですが「女ばっかり悪いと思うなよ!」と反発したいのです。男が弱いんだー!女が何をしたって言うんだー!きっと修行をしている坊さんや釈迦達は、自分たちが女性に弱いダメ男と知ってがんばっているんじゃないかと疑ってしまいます。なんかどんな宗教でも(男性優位だと)そう思います。いけない考えだとは思ってます。あー。
一角仙人の話が男女逆というのは、それはそれでおもしろいと思いますが、むしろ当たり前の設定なので、一角仙人のような息の長い人気を保つことはできなかったかもしれません。鬼と一角仙人の結びつきは、あまり無いような気がします。「ハブにされる」という表現が私にはよくわかりませんが、仏教にとって女性が危険な存在であるという考え方は、たしかに根強くあります。仏教を支えたのが、歴史的に考えて圧倒的に男性たちであったからでしょう。この20年ほどの間に「女性と仏教」というようなテーマの研究が続々と現れましたが、そのなかでも「男性優位主義の仏教」というのが、しばしば取り上げられています。私自身も、この授業で「男性から見たエロス」というような視点に陥らないように気を付けなければと思っています(けっこう難しいのですが)。

娼婦と化作の話を聞いて思ったのは、仏教では性行為を禁じながらも、それが持つ功罪を身をもって知らないと、会得できないものなのだろうということ。娼婦が快楽におぼれ、それにともなう地獄を知り、やがて来る死を身をもって知った後に、シャカの手により仏教に帰依することになる。おそらく釈迦はこの過程がなければ仏教を会得することはできないと知っていて、ここまで(化作を殺して腐らせる)させたのだろう。話は変わるが、仏教の目的が世俗の煩悩を断って、極楽浄土へ行くことなら、その究極は人類の滅亡だ。そういう考えを持っている人がいるのはおかしくないが、釈迦もまた、人間を憎み、人間が世界から消えることを望んで仏教を作ったのだろうか。それとも、人が煩悩を断てないことをはじめから知りながら仏教を作り、戒律を作ったのか。前者の場合、人は浄土へ行けるが滅亡する。後者の場合、浄土へ行けないが滅亡もしない。それとも、娼婦のように現世で救われない人だけを救うのが仏教なのか。たぶん、そうだと思う。ただ、長く生きていれば誰もが生きることに苦しみ、宗教に救いを求めたいという心理は生まれるだろうが(たとえ信仰するにはいたらなくても)。誰もが救い求めるのが人間なら、やはり仏教は究極的には人間の存在を否定するものなのかなという疑問がおこる。
いろいろ考えて書いてくれて、それはそれでいいと思うのですが、すこしペシミスティックすぎるような印象を、私は受けました。釈迦が「人間を憎み、人間が世界から消えることを望んで仏教を作った」ということはありません。仏教の基本は慈悲ですから、われわれ衆生への限りない慈愛の心を持ったのが仏です。大乗仏教では、すべての衆生が悟りを得るまで、みずからを犠牲にして、衆生救済につとめるというのが、菩薩の理想でした。また、極楽に往生しても、人類は滅亡するわけでもありません(ちなみに極楽往生は浄土教なので、仏教全体からみればごく一部の教義です)。悟りを得ることは、人間が滅亡するということではないからです。「人が煩悩を断てないことをはじめから知りながら仏教を作った」こともありません。そのような了見の狭い宗教が、これほどまでに信者を集め、現在に至るまでも信仰されることはありえないでしょう。愚かな人間が宗教にだまされていると思われているかもしれませんが、それほど人間は愚かではないと思います。たとえ、それが千年前、二千年前の人間であってもです。授業ではあまり仏教の教義を取り上げませんが、仏教の思想や哲学は現在でも十分意味のある内容を持っています。

「苦行=女性と交わらないこと」というのは、性を規制する宗教として自然な姿に思えますが、それが雨が降らないことにつながるのが不思議でした。雨は生きていくのに必要であるから、苦行に対してごほうび的に与えられてもいいくらいに思うのですが。むしろ女性と交わることで雨が降り出すのが意外です。生きていくことと性がつながっているということなのでしょうか。
インドでは苦行というのがひとつの修行の方法となっています。これは歴史的にも非常に古く、ヨーガや瞑想とも関係します。苦行のひとつのパターンとして、身体と精神のコントロールがあります。性欲の抑制はまさにそのコントロールの基本となります。それによって、体の中のエネルギーもコントロールでき、宇宙のエネルギーもコントロールできます。サンスクリットで苦行というのはタパスというのですが、この言葉は熱という意味も持っています。苦行によって体の中に熱が発生するのです。女性と交わることで雨が降るのは、人間がコントロールする力を失い、自然が本来の力を取り戻すということでもあるのでしょう。ごほうびという発想は、私にはありませんでしたので、むしろその方が意外でしたが。

・リシュシュリンガの話で「自己を制することを忘れ、神通力を失った」とありました。ここは私は少しかわっていると思いました。「自己を制することを忘れ」ると、神通力が暴走したとつながるのが自然な気がするからです。忘我に至るほどのショックなら、その後、父上仙人に理路整然と話しているのが不思議な気がします。
・リシュシュリンガは王女を「男」だと思っていたのに、キスをしたり交わったりすることに何の抵抗も感じなかったのだろうか。たとえ治癒のためだったとしても、苦行を行っていたのだから、戒律はしっかりとたたき込まれていたはずだと思うのだが。
どちらの方の指摘ももっともだと思いますが、なにぶん、お話なのですから、大目に見てください。


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