エロスとグロテスクの仏教美術

2007年11月15日の授業への質問・回答


蓮華色という名前は、日本語で聞いてもきれいですね。美しいものは、何となく清浄で心のきれいなヒロインとしてまつりあげられがちですが、ここでは化け物性もあわせもっていて、新鮮なヒロインの一面をそなえてるなぁと思いました。因縁に幅がありすぎ。それくらい、比丘や比丘尼には人間らしい情欲がそなわっていたということかな。また、キリスト教と比べちゃいますが、妙に戒律の制定の仕方がずれているし、全体にフリーダムなムードですね。??? ユダの接吻で、太宰治の「駆け込み訴え」の謎が解けました。ユダがキリストをひそかに愛していたら、素敵なロマンスですね。
蓮華というのは、インドで最も一般的な植物のひとつで、仏教美術のモチーフとしてもしばしば見られます。ただし、蓮華色比丘尼の場合、もとの言葉が「ウトパラヴァルナー」(パーリ語では「ウッパラヴァンナー」)で、「ウトパラ」というのは蓮華ではなく、睡蓮です(モネの絵に出てくるあれです)。睡蓮も女性の美の譬えとして文学作品でよく見ます。たぶん、美しさがそのまま名前になっているのでしょう。その女性が神通力を持っていることでも有名なところが、仏伝の不思議なところです。美しいものには不思議な能力が宿るのでしょうか。太宰の作品をあげてくれた方がもう一人いらっしゃいます(後で取り上げます)。私は読んでいないので、時間を見つけて読んでみます。授業の時に紹介した荒井献氏の本は、最近刊行されたもので、「ユダの福音書」というセンセーショナルな文献についての紹介で、ユダに積極的な役割を与えているところが、とてもおもしろかったです。後半には「ユダの図像学」という特集もあり、キリスト教図像学の勉強にもなります。ちなみに、ユダは聖書では首をつって死んだことになっていますが、その表現にもグロテスクなものが多く見られます。

蓮華色比丘尼のエピソードは、戒律に関するので、性的な問題が多いのかと思いましたが、出家前の不幸は何のためかと思いました。でも、バラモンに襲われかけたとき、釈迦に感想を聞かれて、「熱い鉄のかたまりがノ」と答えたのは何か、深い意味があるのかと勘ぐりたくなります。
蓮華色比丘尼のエピソードは、その後で説かれる律にはとくに必要がないのかもしれませんが、そのあまりの内容のすごさというか、アホらしさに驚かされます(昼メロでも、こんなに安易な設定はしないでしょう)。仏伝の中に女性はいろいろ登場しますが、その他のエピソードも含め、蓮華色比丘尼に「美と性」がもっとも端的に表れていると思い、紹介しました。バラモンに襲われたときのエピソードは、今回のはじめに回した『観仏三昧海経』への伏線です(あまり、たいした伏線ではありませんが)。

キリスト教との類似要素はおもしろいですね。仏陀(主人公/神ノ仏教だけどあえて「神」にします)と、デーヴァダッタ(敵)と蓮華色(娼婦性もある女性)の関係性の他に、聖母(マリア、マーヤー)についての要素もあると思います。そういえば、なぜ母は信仰対象になるのに、父はならないのでしょうね。そこもつきつめるとおもしろそうです。「ユダの接吻」は太宰治の「駆け込み訴え」を思い出します。あの作品のユダはキリストへの愛と憎悪にあふれてました。まさに愛と憎しみは表裏一体ですね。
聖母もたしかに重要です。むしろ、一般にはキリストとマリア、仏陀と摩耶夫人という対比が自然でしょう。あえて、娼婦的な蓮華色に着目したのが、この授業の特色です。母なる聖なる存在が、宗教一般で重要なのは、おそらくそれ以外にも数多く見られるでしょう。インドの場合、前の授業で取り上げたように、母神が殺戮の神になるのも、そのひとつの類型かもしれません。聖母と娼婦というのも対比になりますね。ちなみに、マドンナという歌手がいますが、娼婦の姿を模した聖母というのが、その基本的なイメージです(少なくとも、デビューした頃は)。このような文化的背景があるからこそ、インパクトが大きいのでしょう。蓮華色比丘尼=マグラダのマリア、デーヴァダッタ=ユダという図式は、授業ではあまり詳しく扱えませんでしたが、どこかでまとめてみたいと思っています。なお、キリスト教でマリアがヨセフ(イエスの父の方です)よりも圧倒的に重要なのはたしかですが、時代によってはヨセフを重視するときがありました(エルグレコの頃のスペインなど)。私もそれを知らずに、「マリアに比べてヨセフは影が薄く、聖母子像はあっても聖父子像はない」と、以前、著作の中で書いたのですが、実際は、ちゃんとありました。知ったかぶりで違う分野のことを書くとあぶないです。

蓮華色比丘尼の話が興味深かったです。先週までの性についてオープンなヒンドゥー教に対して、性について極端に禁欲的(半ば嫌悪?)な仏教が対称的だなぁと感じました。性交がなければ、自分たちが生まれていないっていう感覚はなかったのですかね。
お釈迦さんは本当に女性が嫌いだったようですね。以前に紹介した「出家を決意する釈迦」の場面でも、媚態を尽くした女性たちを唾棄すべきもののように扱っています。性交がなければ生まれていないということは、もちろん分かり切っていたことでしょう。そもそも生まれてくることが苦しみなのですから、その原因である性交は、もっとも忌避すべきだったのです。戒律のはじめに婬戒があげられているのもそのためでしょう。仏教とは輪廻を超克するための教えですから。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」を地でいっているのですね。デーヴァダッタは。「判官贔屓」という言葉があるように、私はやはり敗者の方が好きです。史実ではデーヴァダッタはあまり悪くない人のようですが、仏教の人を歴史的に調べる場合、対象となるのはどのような史料ですか。やはり仏典なのでしょうか。ちなみに私は『ブッダ』でデーヴァダッタが死んだ際、泣いてしまいました。
デーヴァダッタについて詳しく見ることは、前回の授業のテーマのひとつでした。一般に仏教では悪の権化なのですが、その本当の姿は、授業で紹介したように「まじめな修行者、ただし少し厳しすぎ」というものだったのかもしれません。ちなみに『法華経』には「提婆達多品」という章があり、そこではデーヴァダッタが前世の釈迦の師となって登場します。むしろ、こちらが本当のデーヴァダッタの姿だったのかもしれません。仏教を歴史的に調べる場合の史料は、やはり仏典をはじめとする仏教文献です。インドの場合、歴史書と呼べるようなものがないため、古い時代の社会を知るためにも、仏教文献は重要な位置を占めます。その中で、律は豊富な内容を持っているのですが、従来、あまり歴史資料としては扱われませんでした。最近、アメリカの仏教学者でG. ショペンという人物が注目されていますが、彼の功績のひとつに、律文献の再評価があります。そこから当時の仏教僧団の実状が読み取れるからです。

仏教の戒律はじつは人間の生々しい部分からできあがっていると知って驚いたが、それをおさえて悟りを開くことが目的なので、極端なエピソードを用いているのだろうと思った。昔、テレビの特集でモナリザはマグダラのマリアを描いたものであり、妊娠しているように見えるのは、キリストの子をはらんでいるからというものがあったが、先生はどう思いますか。
戒律は極端なエピソードにも見えますが、実際のできごとを忠実に描いたものも多いでしょう。たとえ、それが荒唐無稽であったり、神話や伝承のように見えても、それを当時の人々は信じたからこそ、律という実際的な文献の形で残ったのだと思います。われわれから見ると極端でも、当時の人々にとってはあたりまえのこともあったのでしょう(もちろん、フィクションや一種のエンターテインメントとしても伝えられたでしょうが)。モナリザやマグダラのマリアについては、よくわかりませんが(たぶん、違うと思いますが)、キリストとマグダラのマリアが男女の関係にあったというのは、しばしば言われることのようですね。事実かどうかはともかく、そのような見方を取ることの文化的な背景に興味があります。そもそも、マグダラのマリアが娼婦であったということも、聖書にはどこにも書いていないそうです。しかし、後世にはそれが常識となり、娼婦の守り神にもなります。

最後のデーヴァダッタの話を聞いていると、釈迦というのは新しい宗教を作り上げた人なのではなく、既存のものを改変しただけなのだなと感じました。でも、それはイエスも同じようなものですね。当時存在した宗教を改革しようとした挑戦者といったところでしょうか。
釈迦を改革者とする見方は、必ずしも学界の定説というわけではありませんが、魅力的な説だと思います。仏教には過去仏信仰というものが古くからあり、釈迦の前にも多くの仏がいたと考えます。古い経典にも、釈迦自身の言葉として、「いにしえの仏たちが歩んだ道を私も歩み、真理に到達した」という趣旨のものがあります。キリスト教もユダヤ教との関係でとらえると、同じような位置づけになるかもしれませんが、こちらはもっと過激で、伝統的な宗教や体制と対立した結果、十字架にかけられたのでしょう。特定の民族の宗教から、普遍的な宗教へと転換するためのあつれきです。

蓮華色がバラモンに襲われそうになった話がおもしろかったです。釈迦は性行為が行われていないから罪にならないといったそうですが、これって、実被害がないとストーカー捜査に動かない現在の警察に似てますね。
そういう視点では見ていなかったので、気付きませんでした。やはり律は男性の視点から作られた文献ですね。律の作者たちにとって、蓮華色比丘尼のような存在はどのようなものだったのでしょうね。色香をもちながら男性とのトラブルにしばしば巻き込まれる比丘尼というのは、ある意味、とても魅力的だったのかもしれません。

蓮華色比丘尼の身に起きたさまざまな不幸が紹介されていたが、それらはどういう文脈を述べる過程で書かれたものなのか。「比丘のしてはいけないこと」を示すことが目的なのか、「蓮華色比丘尼の不幸に同情させること」を目的に書かれたものなのか。キリスト教との類似の指摘は興味深かった。マグダラのマリアと似た境遇の聖人に「エジプトのマリア」もいるが、それとも似ていると感じた。
蓮華色比丘尼の物語は、ほとんど律の中に現れます。その目的は、質問の中のふたつのいずれでもあると思いますし、このようなエピソードを知りたいと思う人たちのためへの一種のサービスでもあったと思います。律以外では、三道宝階降下というエピソードの重要な登場事物として、さまざまな文献に現れます。このできごとは釈迦の生涯の8つの重要なできごとのひとつとなるため、図像作品としても数多く残っています。ただし、比丘尼を表した作品は、そのごく一部です。律に出てくる蓮華色と、この三道宝階降下の蓮華色は、少し印象が異なります。むしろ、律の方がこの比丘尼の本来の姿を伝えているような感じがします。律以降はめだった物語は伝えられておらず、デーヴァダッタや阿難のような重要な役割を与えられることはありません。エジプトのマリアは知りませんでしたが、調べたところ、たしかにマグダラのマリアとよく似ていて、娼婦の出身ですね。マグダラのマリアと混同されることもあったようです。

蓮華色比丘尼に関する逸話は、経典に書かれる古文調だとなるほどーと思うが、よく考えると、すごく滑稽な話だと思う。わざわざ仏に言う比丘尼も、それに対してまじめに答える仏陀も何やってんだと言う感じで、とてもおもしろい。当時の人々はこれらに対してどのような思いをいだいて読んでいたのだろう。性に対して警戒心をいだいていたわりに、寺院のモチーフなどにもセクシャルなものが多いことがおもしろい。それとこれとは別問題なのだろうか。そもそも宗教というものは、性に対してとても過敏だと思う。その一方で売春宿などを必要悪として暗黙の了解のうちに認めている。だったら、もういっそ、厳格な性規範を与えずに、基本的な性に対する理念だけを設定してしまった方がいいのじゃないかとしばしば思う。一体、いつから性は規制すべきものという観念ができたのだろうか。
寺院のモチーフにセクシャルなものが多いことは、たしかに不思議です。今回取り上げるマトゥラーのジャータカ図も、ストゥーパのまわりに置かれていたものですが、いったい、こんなものどうしてお坊さんがわざわざ置いたのかと思います。カジュラホもそうですが、宗教と性は意外に相性がいいようです。性に対して厳格な態度を取るのは、仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でも見られます。その一方で、世界のさまざまな神話や信仰は、性を背景にし、それを反映させています。宗教的に重要であるからこそ、その危険性にも敏感だったのでしょうか(あまり回答になっていませんが)。

なんだか、僧の戒律は人間としてというか、生き物として不自然な感じがしますね。種を残すという意味では、性行為は欠かせないものなんではないんでしょうか。それよりも、女に不浄なイメージが多いのか。今日、いろんな律を聞いて、それができたってことは、本当にそういうことがあったんだよなぁと思いました。
種を残さないことが、仏教のめざすところなのかもしれませんし、そもそも、生き物として不自然なのが文化なのでしょう。仏教文献の中で、経や論に比べて、律はあまり研究がありません。読んでみると、こんなにおもしろい仏教文献はないのですが、不思議なことに本格的な研究者は少ないのです。だれか、卒論などで律を扱うとおもしろいと思うのですがノ。

阿難を無理やり出家させるなんて、釈迦も案外ひどいことをすると思った。宗教が美や悪性を含んでいるという考えがとても興味深かったです。現実の世界には美、悪、性的なものが、日常的に存在していて、それらの中で生きる人間たちの心の救いとしての宗教は、「聖なるもの」100%で成り立ちえないんだろうなと思った。
釈迦は本当にひどいです。阿難は年の若い従兄弟だったので、身内を侍従につけたかったのでしょう。律を読んでいると、釈迦が意外に人間くさいことに驚かされます。律はたいてい、誰かが悪いことをして、それをもとに条文が制定されるのですが、そのたびに、悪いことをした比丘が釈迦から叱責されています。釈迦って随分怒りっぽかったようです。美、悪、性的なものが宗教には不可欠であるのは、指摘しているとおりです。ただし、そのすべてが「聖なるもの」であり、けっしてそれと対立するものではありません。


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