エロスとグロテスクの仏教美術
2007年11月8日の授業への質問・回答
カーリーが「血を呑む」というところで、以前、女性と血は出産で結びつくという話を読んだことがあります(宮田登の本で、日本の吸血する女性の話ですが)。出産で貧血=血を欲する=女が血を吸うというイメージらしいですが、カーリーの場合はどうでしょう。あと、臍からブラフマーが出てくるのは、臍の緒のイメージと関係するでしょうか?ぱっと見て、今日、ふと思ったので ノ。赤ちゃんのガネーシャかわいいですね。あんなに小さいころから象頭だったのですね。
宮田先生の説は面白いですが、インドの場合、あてはまらないような気がします。インドの女神は出産のイメージとはあまり結びつきません。シヴァとパールヴァティーの子どもが、ガネーシャやスカンダということになっているのですが、パールヴァティーが出産した物語などは伝わっていません。どうも、そういうものを抜かして、家族関係を結んでいるようです。さらに、カーリーの場合、むしろ、出産や母性とはかけ離れたイメージです。聖母ではないのです。出産で貧血=血を欲する=女が血を吸うという図式は、合理的なようにも見えますが、血のもつ宗教性や神秘性は、そのような合理的な解釈とは次元が違うのではとも思いました。だいたい、血を吸ったからといって、貧血が治るわけではないですよね。むしろ鉄分を補給すべきところでしょう。臍の緒とブラフマンは、おそらく関係あるでしょう。蓮の花に乗っていることも重要で、インドでは蓮は母胎です。ガネーシャの子どもというのは、ときどき見るのですが、赤ん坊の絵はめずらしいです。小さいころは人間で、途中で象頭になったという神話もありますが、それも、けっこうシュールですね(自分や隣の人が、突然、象頭になっていたりするとこわいです)。
先週のミトゥナが10、11世紀だったので、同じ時代の西洋のことを少し考え合わせていくと、そのデザインや、彫刻の配置の違いに、とても驚きました。西洋では10、11世紀には女性をわりと貧相に描き、ポージングも派手なものはなく、原則、頭巾着用、裸なんてもってのほか!なのですが、それとくらべると、インドの女性像はたいへん肉感的ですね。西洋(絵画)では、また、人物の配置やポーズは、とくに寺院などにおいてはどこに何を置くかだいたい決まっているし、持ち物も決まっているのに、インド彫刻はわりとフリーで、自由にポーズを取らせたり、生き生きと描いているところに、新鮮みを感じました。
当時の西洋美術とくらべると面白いですね。たしかに、中世ヨーロッパの絵画は驚くほど貧弱です。ルネッサンス以降の芸術品を見慣れたものには、まさに「暗黒の中世」です。それに対して、インドのレベルの高さは、すごいことだと思います。カジュラホなどの彫刻も、エロティックな作品ばかり取り上げられますが、全体の持つ圧倒的な迫力は、おそらく、この時代の世界の美術の最先端をいくでしょう(ただし、日本も平安初期には良い彫刻がありますが)。図像のきまりごとですが、インドでも神の像に関しては、かなり厳密に定められています。カジュラホやアンビカー寺院で見られた自由なポーズの女性たちは、基本的に在俗の人々で、神ではないから、それにとらわれないのです。宗教美術のあり方を考えると、形式というものが重要な要素となります。
女性の方が残忍だという話はよく耳にしますが、インドの女神はまさにそれですね。完成された美には冷たさのようなものを感じますが、それもインド女神的なイメージなのでしょうか。象の生皮は大黒天(忿怒形)を思い出します。多臂の像はインドのみだと思うのですが、実際にありえない姿なだけに、やはり、グロテスクであるように思います。多臂の女神マヒシャースラマルディニーは、やはり美とグロテスクの象徴だと思います。
女性の方が残忍かどうかはわかりません。私は男女どちらも変わらないと思いますし、性でそれが決まるほど、人間は単純ではないと思います。しかし、多くの美術作品や神話で、美と残虐が同居するのはたしかです。美が残虐さを伴うというだけではなく、残虐であるが故に美しいということもあるのではないでしょうか(ゲームの主人公みたいですが)。象の生皮はシヴァが本来持っていたもので、大黒天に受け継がれます(本来、大黒はマハーカーラという忿怒尊です)。シヴァと象の生皮については神話もありますが、私はこれは一種の胞衣(えな)ではないかと思っています。多臂はどこかで取り上げるつもりをしています。密教の仏でもよく見ますし、おそらくその影響を受けた日本の神(荒神など)にも見られます。ただし、腕がたくさんあるから気持ち悪いですね、というだけではあまり面白くないので、なにかひねりを考えなければと思っています。
インドの神はデーヴァというそうですが、ブッダの親戚(でしたっけ)のデーヴァダッタ(ダイバダッタ)の「デーヴァ」も神という意味なのでしょうか(「ダッタ」のいみもよくわかりませんが)。手塚治虫の『ブッダ』のダイバダッタがとてもかっこよかったので、好きでした。ちなみに、同氏の『ブラックジャック』にも人面瘡の話があります。あと、以前書いた江戸川乱歩の生き人形の話ですが、「人でなしの恋」というタイトルでした。実写化もされていて、出演は羽田美智子さん、阿部寛さん等です。
デーヴァダッタはお釈迦さんの従兄弟で、提婆達多と漢訳されます。デーヴァは神、ダッタは与えるという意味で、神によって授けられた子という意味になります。じつは、インドではごく普通の名前です。仏典の中のデーヴァダッタについては、今回の授業で取り上げるつもりです。デーヴァダッタを中心にすると、まったく異なる仏教が姿を現すようです。人面瘡は星新一のショートショートにも出てきて、これも星新一にしてはけっこうグロいです。江戸川乱歩の小説については、情報ありがとうございます。今度読んでみます。
ラクタビージャを呑み込んでしまうのがカーリーだということから、暴走する生命を食い止めるのが死だという話がありましたが、そのカーリーまでもを体内に入れてしまった女神は、一体どういうことを象徴しているのかが少しわかりにくいです。死をも超越した存在になっているということはないですか。
ラクタビージャを呑み込むのは、むしろ、インドの女神の本来のあり方を示すエピソードで、生をも内包する死であり、そこから生命が生まれるというところでしょうか。これに対して、あらゆる女神を一身に収めるひとりの女神は、インドの最高神の典型です。インドでは一元的に世界をとらえる傾向が強く、古くは梵我一如にその萌芽が見られます。そこでは、世界を統合するものはブラフマンという抽象的な原理でしたが、中世には人格神となります。デーヴィーマーハートミヤの場合、さらにその役割を女神が受け持ちます。男神よりも強力で、世界をすべて包含するような存在です。そこでは生も死も、そして時間も空間も宇宙も、すべて女神の中に没入します。このあたりは、宿題の文章の前半も参考にしてください。
美人の女神から生まれたカーリーが、どうしてあんなに醜いのでしょうか。カーリーの絵は、どれも滑稽に見えます。逆に、にこにこしながら殺しているマヒシャースラマルディニーの絵は、ぞっとします。
まさに、それこそがこの授業のテーマです。美しいものと醜いものが共存し、生と死が同居しているのが、インドの美術であり、さらに仏教や宗教の美術の特徴ではないかと思います。そして、それは文化の違いによって、さまざまな現れ方をします。そこに「滑稽」という要素(これは「笑い」などにも通じるのでしょう)が加わりますが、その位置づけはまだ私にもよくわかりません。
美しいのに残虐というのは、単純にかっこいいと思いましたが、カーリーという像を見ていると、怖ろしいものがエスカレートすると、滑稽になるというのも実感します。舌を出して暴走するカーリーも、ほほえみながら水牛を殺すマヒシャースラマルディニーも、私にはやはり怖ろしくて、「女神」というものの印象がかなり変わりました。
たしかに、われわれがイメージする「女神」と、これらのインドの女神は、かけ離れています。われわれにとっての女神は、ヴィーナスであり、キリスト教のマリアであり、場合によっては観音様です。しかし、日本でも、以前に見た『古事記』のイザナミ、とくに冥界から帰ろうとしたイザナミは、まさにこの「かけ離れたイメージ」の女神でした。ウジがわき、イザナギに向かって、毎日、無数の人間に死をもたらそうというのですから。これはヨーロッパでも同じで、マリアに「黒いマリア」というのがいますし、魔女狩りの魔女も、女神のイメージの負の現れ方でしょう。
神々の神性を表現するのに、非日常的な情景における「体勢」を利用した、あるいはその行為自体に畏怖の念をもって神の領域としたというのが、ルネサンスにおける彫刻、創造の理念と共通したものに思えて興味深く思った。古代宗教は、女性につきものの現象を神聖なものとして恐れる傾向があるので、「血でもって浄化し、清浄な世界を生み出す」行為に、女性を登用し、激しさを増すほど美しさを持つ女神として描き出しているのは、そういった「女性」に対する当時の観念が強く反映されているのかと思った。
ルネッサンスの彫刻というとミケランジェロとかでしょうか。彫刻ではありませんが、ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の壁画などは、多くの裸体が登場しますが、たしかに、非日常的な情景と体勢(姿勢)で満ちあふれています。若桑みどりさんもこのあたりのことをしばしば書いていて、ボッティチェリなどの14世紀の絵画や彫刻に見られた人体表現が、ミケランジェロの時代にはすでに崩壊し、破綻していることを強調していました。後半の、「血でもって浄化し、清浄な世界を生み出す」行為を女性に担わせることは、たしかにあると思いますが、そこでなぜ女性が必要とされるかについては、より具体的な理由が求められるでしょう。
カーリーの像は、他の講義で見たことがあります。色黒で舌を垂らし、怖ろしい形相でした。剣を持っていたり、神様というより悪魔の方なのでは?と少し思いました。僕は、たとえばイエス=キリストのような奇跡を起こす神よりも、剣で悪魔の首をはねる、残酷でダーティーな女神のほうにより強い力を感じます。インドに人々にも、カーリーは非常に人気があるらしい。ダーティーでグロテスクなカーリーの「暴力」に、恐怖と同等のあこがれ、魅力を感じているからではないでしょうか。関係ないですが、胴に顔のあるやつは、中国の妖怪「刑天」と似ています。
たしかに、残酷でダーティーなものは、同時に魅力的です。人は美しいものにもひかれますが、醜いものやグロテスクなものにも、不思議なことに惹きつけられます(じつは、それはかなり危険なことでもあります)。その理由やメカニズムを、実際の作品や文献を通して探るのが、この授業のテーマです。「刑天」の指摘はありがとうございます。調べてみます。
インドの女神「ドゥルガー」の話が出てくる漫画を読んだことがあります。たくさんの手に武器を持ち、シヴァ神と戦った女神というふうに語られており、そんな女神もいるのだと強く印象に残りました。だから、今回はその神話の一部を知ることができ、非常に面白かったです。ただ、気になることとして、その漫画では、ドゥルガーは戦神でありながら、慈愛の心も有していたという記述があったように思います(漫画から得た知識なので、すべてが正しいとはあまり考えてはいないのですが)。七母神が母でありながら、戦神であったという話からも感じたのですが、当時、女性は残虐と慈愛の二面を持ってとらえられる存在だったのでしょうか。
授業でもふれたように、インドの神様や神話を利用した漫画やゲームは多いようですね。それをきっかけに関心を持ってもらえるのはいいことだと思います。ただし、ドゥルガーはシヴァの妻で、シヴァと戦うことはありません。カーリーが足の下にシヴァを踏むことはありますが、その神話も戦って倒したことにはなっていません(実際は、男神に対する女神の優位を表すと解釈されますが)。戦いの神が同時に慈悲を持っているという設定もよくわかります。実際、インドの神話でも、そのように説明されることが多いです。ただし、注意していただきたいのは、順序が逆になると、こんなに怖ろしいことはないということです。慈悲を持つが故に戦うのであり、それによって殺されることは、かえってありがたいことだということになるからです。この論理は、オウム真理教のポワと同じで、慈悲によって人を殺せば罪にならないと、彼らは主張していました。さらに、大義名分があれば殺してもかまわないことになり、これはもうファシズムです(戦前の日本であれば、「お国のため」、最近のイラク問題であれば「テロリスト撲滅」がこれです)。宗教が戦争に容易に結びつく論理が、ここにあります。
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