エロスとグロテスクの仏教美術

2007年10月25日の授業への質問・回答


インドの彫刻の女性像は、いつ見てもボインボイン(死語)でセクシーだなぁと思っていましたが、セクシーだと思う理由が、あのしなやかさにあることにあらためて気がつきました。無意識下にあった感覚を言葉にして認識し直すと、意外なものが見つかりますね。よく考えれば、ミトゥナは彫刻の中の一部なのですよね。寺院の中でもどう位置に配置されているかが気になります。全体の中での配置から考えれば、どういう意図で置かれているのかがわかるのでは?
前回の授業のスライドは、女性像とミトゥナばかりでしたが、とくに後半はしなやかな体の動きを持った作品が多く見られ、前半の比較的硬直した姿勢とは対照をなしていたと思います。人物像、とくに女性像でポーズが重要なことは、現代の写真や絵や彫刻でもそうですね。カジュラホはミトゥナ像ばかりが有名ですが、じつは西インドや中インドのヒンドゥー彫刻のひとつの頂点をなしています。個々の彫刻に見られる体の動きのヴァリエーションや、その集合体である寺院全体から生み出されるリズムなどは、圧倒的な迫力を持っています。これは現地に行って、直接寺院と向かい合わなければわからないのですが、前回の授業ではそれを少しでも感じてもらえるように、長々と前半のスライドをしました。寺院全体の配置の問題は、寺院のプログラムといわれ、彫刻や建築を考える上でとても重要です。たしかにミトゥナ像の位置を全体からとらえることで、その意味が見えてくるかもしれません。しかし、私自身、よく調べていないのですが、過去の研究で、それを明らかにしたものもないようです。そもそも、ミトゥナ像の持つ意味も、前回の資料で示したように、研究者によって解釈はまちまちです。

インドの彫刻では体がくの字になっているのばかりで、日本の仏教彫刻にはあまり見ないので、おもしろいなと思いました。はじめに見た寺院の彫刻の中のシンプルな女神が、菩薩に似ているように見えたので、よけいにそう思いました。タミルナードゥの寺院の色がきれいでいいなと思いました。一度インドへ行ってみたいです。
体が腰のあたりで「くの字」になっているのはそのとおりで、さらに首のあたりでも、もう一度反対側に曲がり、全体で三つとなります。そのため、このようなのポーズは「三曲法」(tribhanga)と伝統的に呼ばれ、インドにおける優美な女性像の代表的な形式となっています。日本の仏像ではあまり顕著ではありませんが、コメントにあるように、一部の菩薩像(とくに観音像)に見られます(法華寺や向源寺の十一面観音など)。インドのヒンドゥー寺院はいいですね。日本人にとってインドといえば仏教なので、旅行会社のツアーは仏跡参拝ばかりですが、遺跡よりもこのような「生きた寺院」の方が圧倒的におもしろいです。わたしもラジャスタン、グジャラート、マドヤプラデーシュ、タミルナードゥなど、インドのあちこちのヒンドゥー寺院を見て回りましたが、どこの寺院もそれぞれ個性的でよかったです。ラジャスタンのパタンの階段井戸などは、今でも鮮烈な印象が残っています(わたしのHPのアジア図像集成の中に写真があります)。ぜひ、ヒンドゥー寺院を見るために、インドに行ってみてください。

自分が人物の絵を描こうと思うときも、できるだけ、動きのあるポーズで描きたいと思うので、人体表現で、ひねったようなポーズをしているのは納得です。日本の神様では、あまりひねったポーズはしてないですね。くびれに自信がないからでしょうか。
前回の授業で「なぜミトゥナ像?」に対する答えとして、制作者が表現したかったからという、いささかこじつけ的な回答を考えましたが、そういうこともあったのではないかと思っています。芸術家が人体表現のいろいろな可能性を追求していくと、普段の生活では絶対とらないようなポーズを表現したくなるのではないでしょうか。それがもっとも多く含まれるのが、性行為の場面であるというのは、実証することは難しいのですが、インドではあり得たのかと思います。日本の浮世絵や春画の場合も同様です。もちろん、春画は性的な絵画を求める人々があったからこそ成り立つ作品ですが、芸術家からすれば、人体表現に関する自分の力量を発揮できる格好な題材だったからでしょう。前回の授業で、人間が特殊な体の動きをする例として、現代であればスポーツと言いました。そのときに念頭にあったのは、たとえば、ナチス時代のベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』(全体は『オリンピア』で、その第1部)です。その冒頭では、各種の競技を行っている選手たちが、ほとんど裸に近い姿で、まるでギリシャ彫刻が動いているような映像が続きます。ちなみに監督のレニ=リーフェンシュタールは、戦後、カメラマンとして作品を残しますが(アフリカを題材とした『ヌバ』)、彼女が撮影したポートレートには一貫とした人体美があります。

インドの人の絵はすごく平面的で、シンプルな感じがするのですが、像になるとすごく肉感的で、動きがあるので、イメージが変わります。ああいうポーズの像を作る場合、人体の仕組みがわかっていないとバランスの悪いものになってしまいそうですが、インド人の人体への興味は、医学的なものに対しても向いていたのでしょうか。
インドの絵画と彫刻で、人体のリアリティさがまったく異なるのは、たしかに不思議ですね。絵画については、あまり古い時代のものは残っていないのですが、アジャンタの壁画や、写本挿絵に見られる絵画はたしかに平面的で、立体感を感じさせません。ネパールやチベットの絵画はインドの影響を受けていますが、そこでも同様です。細密画では、さらに顕著ですね。医学的な知識と人体表現は、必ずしも対応しないようです。たとえば、日本の場合、江戸時代にはきわめて正確な解剖図が描かれていますし、その源流には、死体が腐乱していく過程を描いた『九相詩絵巻』という絵巻があります(これは授業で取り上げる予定です)。その一方で、江戸時代の浮世絵や春画は、身体の一部を誇張したり、デフォルメした表現をとります。人体に関する科学的な知識は、芸術には反映されないのです。インドの場合、人体を写実的に(あるいは解剖学的に)表現しようとした例がまったくありません。医学の知識は、解剖学にあるのではなく、体質を規定する三つの要素を基礎とします。これは血液や内臓のような明確なものではなく、もっと観念的なものです。三つの要素のバランスで体質や病気の原因が決定されます。ここでも芸術と医学は結びついていないようです。

世俗化されたヤクシーが、男性との関係によってふたたび神の世界へ戻るのはなぜでしょうか。むしろ、もっと世俗化が促進される気がするのですが・・・。ミトゥナはけんかしていたり、ラブラブだったり、無理やりだったり、面白いですね。今も昔も男女の関係は変わらないものですね。
神から人へ、そしてふたたび人から神へ、というのが、前回のまとめのひとつですが、その理由は私もよくわかっていません。明確な理由をあげることができないまま、とりあえず図式化してみました。むしろ後半については、神々の世界にも世俗化されたイメージが投影されたと見るべきかもしれません。今回は、神話の世界の女神のイメージを取り上げますが、そこで見られる神話は、神々の世界がわれわれの世界にまで降りてきているような感じがします。ヒンドゥー教の神々が、ヴェーダの時代の神々と異なり、人格神で、恋人や妻、そして子どもを持つという「世俗化」された存在であるからかもしれません。今回、もう少し考えてみたいと思います。

インドの美術では、女性が重要視されているように思えましたが、現実では、女性の地位や権利はどのようになっていたのでしょうか。やはり、他の国と同じで、まるで奴隷のような扱いだったんですか。そうでないなら、像としてあんなに美しく(たぶん当時の理想の姿だったんですよね)作られるものの対象なのに、性的とかでしかないのかと、思えてしまいます。
中世のインドでの女性の地位は、たしかに高くはありません。寺院の中での女性像の位置づけや、神話の中の女神の重要性が、現実の女性の地位や社会的な役割と対応していないことはたしかでしょう。男性にくらべて女性の地位が低いことは、『マヌ法典』などからも明らかです。しかし、カジュラホなどの女性像は、けっして性的なものとしてのみ作られたのではないと思います。「それならば何のため?」と言われると困るのですが。

高校の倫理の授業で「ダルマ」は習ったのでなつかしかったのですが、「アルタ」や「カーマ」にはふれませんでした。ヒンドゥー教美術を世界史でふれたときも、エロスやグロテスクを表した美術は教わらなかったです。ヒンドゥー教美術観をあらわすものであるならば、もっと詳しくエロスやグロテスクにふれてもよいのではと思いました。今の日本の考え方(エロスに対する)だと難しいとはおもいますが・・・。
高校では無理でしょう。インドに限らず、日本の美術でも北斎や歌麿を取り上げても、その春画を高校で教えるわけにはいかないのと同様です。そもそも、インド美術の「エロス」や「グロテスク」を、学問的に(たとえば比較文化的に)あつかった本もまったくありません。「秘の美術」とかのタイトルで、興味本位で扇情的な内容のインド美術や東洋美術の本はありますが、私が授業でやっているような内容とはまったく違います。結論や定説があるわけではなく、試行錯誤なので、毎回なかなか難しいのですが・・・。

ガンダーラの方がもっと人間的で活き活きとしているかと思ったらそうでもなかったので驚いた。カジュラホが特別なんだろうか。カジュラホはすごくなまめかしいが、見ているといやらしさよりも、なんだかほほえましいような気分になった(ラブラブなカップルを見ているようで)。
私も、ガンダーラの「交歓像」の方が、カジュラホの「ミトゥナ」よりも卑猥な印象を受けたので、最後に紹介しました。カジュラホは実際に現地で見ると、さらに自然に見えます。寺院が神々で覆い尽くされて、その全体が息づいているような感じです。授業でリズムといったのは、この生命のようなものが脈打っているリズムのことです。「いやらしさ」などは微塵も感じませんでした。もっとも、それは人によると思いますし、私の場合、当日はいかに短時間でたくさんの写真を撮るかに一所懸命で、ゆっくり見ている余裕がありませんでした。カジュラホにはまたゆっくり行きたいと思っています。


(c) MORI Masahide, All rights reserved.