エロスとグロテスクの仏教美術

2007年10月18日の授業への質問・回答


各国の創世神話が興味深い。生も死の始まりというのがすごく勇気づけられました。中国の万古の左目→太陽、右目→月は、イザナキの左目を洗ったときにアマテラスが、右目を洗ったときにツクヨミが生まれたこととそっくりで、やはりどこかつながってたり、似たようなものがあるのかなと思う。ヤクシャがだんだん、低年齢化し、滑稽化するのは、何か意味があるんですか。後、ヤクシニーは日本語化(ヤクシャ→夜叉)のようにしていますか。死神、時の神=クロノスですか。
創世神話はたしかにおもしろいです。エリアーデなどは、創世神話は神話の中でもとくに重要であると考え、彼が提唱した「聖体顕現」(ヒエロファニー)の説明でもよく取り上げています。日本神話、とくに古事記の創世神話が、周辺の地域とどのような関係があるかは、いろいろ研究があり、中国の盤古との結びつきも、当然指摘されています。前回の授業で紹介した大林太良『稲作の神話』にそのあたりのことがくわしく書かれていますので、読んでみてください。大林先生は10年ほど前に亡くなられましたが、堅実なお仕事をされて、われわれにも勉強になります。読みやすいものとしては、やはり、前回プリントにした吉田敦彦氏のものがありますが、若干、論理が荒いような気がします。ヤクシャの低年齢化、滑稽化は、実際の流れをたどるとそうなのですが、その理由はよくわかりません。この授業の中で、何か答えが見つかればと思います。講義を進めながら、同時進行で考察をしていますので、皆さんからのアイディアにも期待しています。ヤクシニーの日本語は「女夜叉」とか「夜叉女」かもしれませんが、あまり見たことがありません。日本語や漢語には性がないので、しょうがないのでしょう。死の神、時の神に関しては、これも文献としてあげたパノフスキーの『イコノロジー研究』所収の「時の翁」が決定版です。「盲目のクピド」も同書には含まれていて、この分野では必読です。

比較文化っぽかったですね。日本〜インドをつなぐ樹木と女性の図の関連が興味深かったです。ところで、このお釈迦様の色っぽいお経は、詩でなく、お経なんですか?いつ、どんな風に読まれたもんなんでしょうね。キリストの山での試練もそうですが、悪魔は色欲と恐怖しか、威嚇手段がないんでしょうか。逆にこのふたつが人間の大敵なんですかね。前から気になっていたのですが、ストゥーパの前のトーラナ、これは門ですか。鳥居に似ていますね。
仏典の中のエロスとグロテスクとして紹介した『ブッダチャリタ』は、たしかに詩です。釈迦の生涯を伝える文献を「仏伝文学」と総称しますが、その中のひとつで、全編、詩でできています。作った人も馬鳴(めみょう、サンスクリットではアシュヴァゴーシャ)という人物で、そういう意味では、お経とは少し性格が違います。ただ、漢訳された『仏所行讃』は経典として伝わりました。われわれ日本人にとって、お経というのは法要や葬儀でお坊さんが唱える経典のイメージが強いのですが、これは「読誦経典」と呼ばれ、すべての経典のごくわずかです。お経はもともと儀式で読誦されるために作られたのではないからです。もっと言えば、仏教の儀式で経典を読誦することも、必ずしも一般的なことではありません。仏教の文献の豊穣な世界や、官能的なテーマさえも経典として伝わることがあるのを強調するために、「これもお経です」と言いました。悪魔の2種の攻撃手段ですが、これは前回の授業のテーマでもあるように、いずれも生命に関わるという点で、類似の性格を持っているのではないかと思います。誕生と死は正反対の概念ではなく、輪廻という生命の連鎖をつなぐ重要な節目であることは、両者で共通するということです。トーラナは四方の門に当たります。鳥居に似ていることは、いろいろな人も言っていますが、日本の鳥居の起源を私は調べたことがないので、よくわかりません。考古学や日本史の人で詳しい人がいたら、教えてください。

今回の講義から、生命や死といったイメージが世界中に見られることがわかりますが、ヨーロッパとインドという関係で見ると、インドにはアーリア人が流入してきたという点が気になります。それらの形成にはアーリア人が大きく関わっていると見てよいでしょうか。もっとも、自分はアーリア人が本もともとどこに住んでいたのかさえ知らないので、かなり適当なことを言っているのかもしれませんが。
インド文化を考えるとき、アーリア人の存在はたしかに重要です。西アジアかその北の方からカーリア人は大移動をし、あるものはインドに、あるものはイランに、そしてあるものはヨーロッパに向かいました。言語ではインド=ヨーロッパ語族として、かれらはひとつにまとめられ、言語相互に親縁関係があることが明らかにされていますし、神話のレベルでもそうです。ただし、前回とりあげたヤクシャやヤクシニーへの信仰は、インドに侵入したアーリア人が持っていたものではなく、もともとインドにあった土着的(この言葉自体、あいまいですが)な信仰といわれています。ヨーロッパのバッカスやヴィーナスとつながりがあるのは、起源が同じと見るよりも、大規模な文化交流の結果として生まれたものでしょう。それとともに、交流がなくても、人間の持つ普遍的なイメージがある場合もあります。

先週の授業で春画に興味を持ったので、『春画 片手で読む江戸の絵』を図書館から借りて読んでいます。外国人の方が書かれたので、言い回しがおもしろかったりしますが、内容も興味深いです。インドでは「愛」を、ガンダーラでは「グロテスク」を強調していますが、なぜ、そのような違いがあるのでしょうか。どちらも仏教ですよね。お国柄でしょうか・・・。
授業で紹介する参考文献を、早速参照してくれてよかったと思います。インド内部とガンダーラで、降魔成道の表現が異なることの理由はよくわかりません。もともと、インドの仏教美術が、前回紹介したヤクシニーに見られるように、官能的な女性の姿をひとつの主題として有し、そのイメージが説話図にも容易に取り入れられたと思いますが、なぜそのような主題が好まれたかになると、また別の理由が必要になるでしょう。今回取り上げるミトゥナ像についても、その背景に『カーマ・スートラ』のような文献を持ってきて、カーマ(愛欲)がインド人にとって、重要な人生の目的であるとか説明されますが、そんなことはどこの国でも同様なはずです。一方のガンダーラは、同じ女性像やミトゥナ像でも、開放的なインドにくらべるとずっと禁欲的です。「お国柄」と言ってしまえばそれまでなのですが、それを生み出す文化背景を考察することが重要ですね。

とくに古事記の中にだが、汚物から生まれたものを神として崇拝するという感覚が理解できない。仏教やヒンドゥー教にも、そのような神はいるのだろうか。聖と汚は表裏一体といったような考えでもあるのだろうか。バッカスは酒の神であるから、醜態をさらす表現は理解できるが、ヤクシャは生産などの神なのに、醜態をさらすような表現が出てくるのが不思議だ。イメージとしては、酔っぱらった自分の母親のような。あまり「母」としてはよいイメージではないはずなのに、なぜだろう。だんだんとヤクシニーがデフォルメされていったように、そのイメージも稀薄になっていったのであろうか。
たしかに、汚物から生まれた神を崇拝するというのは、現代人的な感覚からは理解できません。古事記を伝えたり、編纂した人々にもそれはあったようで、スサノオがオホゲツヒメを殺してしまうのも、そのような形で生み出された食事を「ケガレたもの」としてとらえたからでしょう。しかし、このようなモチーフは昔話の中にもけっこう残っていて、「ハナをたらした神」などでは、異界から来た子どもが洟水や臍のゴマから宝を生み出すという形を取ります。これもオホゲツヒメ型の神話のひとつといわれます。また、日本民族学では「ハレ」「ケ」「ケガレ」という3つの概念でいろいろな宗教現象を説明することが多く、ここでは「ケガレ」はマイナスのイメージを持つのですが、それ故に特別な扱いをうける必要があります(「ケガレ」は「ケが枯れる」から来るという説もあります)。酒に酔って醜態をさらすヤクシニーは、マトゥラーの有名な作品ですが、たしかにそれまでのヴィーナス的なヤクシニーとは異なります。今回はこのあたりから「エロス的なイメージ」の世俗化を考えてみようと思います。

インドの女性は胸が大きいのと、同時によくくびれていました。くびれた女性の方が受胎しやすいと聞いたことがあります。インドの女性がくびれているのは、生命を生み出すのに有利な特徴だからかなと思いました。
インドの美女の条件のひとつが、ウェストのくびれでしょう。実際に、インドの女性はそのような体格をした人がたくさんいます。サリーという女性の衣装がありますが、これもウェストのくびれを強調するような形態をしています。くびれた女性の方が受胎しやすいかどうかは、よくわかりませんが、もしそうだとしたら、彼らも経験的にそう考えていたのかもしれません。ただし、生物学的、医学的な特徴が、必ずしも美の表現と結びつくわけではないと思います。

古事記は全部読んだわけではないのでわかりませんが、レジュメにある部分をちょっと読んだだけでも、お尻から食物を出したりとか・・・。島根県の出雲市出身で、幼いときから神話にふれることが多かった私は、昔、神話を読むたびに、「神話って、あからさまに下ネタだよなぁ」と感じていたことを思い出しました。それで思ったのですが、当時の人は「聖」は聖なるものとして、みんながそう思っていたのでしょうか。というか、性をタブー視する発想は、いつから生まれたのでしょうか。たとえば、家族とテレビドラマを見たりしていたとき、ラブシーンになるとどことなく親も子どももたがいに気まずくなる雰囲気は、いつに起源を発するのでしょうか?とふと疑問に思いました。
神話は下ネタばかりですね。これは日本に限ったことではなく、世界中でそうだと思います。古事記や日本書紀は、日本人ならば誰でも知っていますが、実際にその文章を丁寧に読むことは、意外に少ないのではないでしょうか。かくいう私もそれほど読んだわけではなく、今回の授業であらためて読んでみて、宗教や文化研究にとって、宝の山のような気がしました。性は「聖なるもの」という図式は、広く言われることですが、この授業ではむしろ、そこに陥らないようにと思って進めています。「聖」という概念自体、近代的なものですし、それでくくってしまうと見えなくなるものが多いと感じるからです。性をタブー視するのがいつ頃かは、いろいろ議論があるようです。前々回に紹介したエリアスは、比較的最近のことと言い、それに対してデュルはさまざまな事例を挙げて、もっと古くからあることを主張します。テレビを見ていて気まずくなるのは、またそれとは別と思いますが、それはともかく、ラブシーンを家族で観るということ自体、テレビが家庭に登場するまでなかった状況です。雑誌や本の形で性に関するイメージや情報が家庭に持ち込まれることはあっても(春画はその典型です)、それはひそかに楽しむものであって、親子で共有するものではありません。現代は、人類史上、かつてないほど、エロスやグロテスクのイメージが人々の暮らしを浸食している時代なのでしょう。

ジョージ・フレーザーの『金枝篇』を読んだことがあるが、そこではアドニスは死と再生の豊穣の神として、イタリアのネムの森の殺される神官の儀式と結びつけていた。つまり、植物神は季節の変わり目に殺され、復活する。殺されることによって、霊力は増強するのだ。インドのヤクシャなどは、豊穣の神だが、アドニスのように死んで復活することはあるんでしょうか。女性の場合は殺されない?日本のオホゲツヒメは死にましたが。
『金枝篇』は宗教学の古典で、いろいろな情報が詰まっていておもしろいですね。植物神を「死と再生」に結びつけるのは、世界中で広く見られます。エリアーデも『大地・農耕・女性』などで繰り返して取り上げています。インドのヤクシャ、ヤクシニーは殺されて復活することはないようです。その点で、ハイヌヴェレやオホゲツヒメとは直接、結びつかない神々でしょう。「死と再生」の儀式は宗教的な場面だけではなく、王権とも関係があります。王もその権力の刷新のために、儀礼的な「死」を周期的に行うことがあります。そのあたりのことはマルク・ブロックの『王の奇跡』(刀水書房)に取り上げられています。


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