エロスとグロテスクの仏教美術

2007年10月11日の授業への質問・回答


とりあえずいろいろ見て、それぞれの作品がそれぞれの時代にどう扱われていたのかが気になった。単に美術作品としての価値だったのか、宗教の教義を伝えるものなのか、性的な欲求を満たすためなのか。
そのいずれもでしょう。どれかひとつに限定する必要はないと思います。むしろ、美術とは何かとか、人間が美しいと思うものは何か、という問題に関わるでしょう。性的な欲求を含め、快楽を求めることも、美術の受容のあり方のひとつです。前回の授業では「とりあえず、いろいろ見てみよう」ということで、いろいろお見せしましたが、それぞれの作品で、その価値や意味はさまざまです。大半を占めていたヨーロッパの絵画でも、古代ギリシャと中世、ルネッサンス、近代、現代など、時代によって裸体画やグロテスクな絵の持つ意味は違います。近代にいたっては商業的な要素も加わります。どのような人々を対象に作られたかも重要です。とは言っても、前回紹介した作品は、比較的よく知られたものが大半です。たとえば、ティツィアーノの「眠れるヴィーナス」や「ウルビーノのヴィーナス」、そしてその延長線上にあるマネの「草上の昼餐」や「オランピア」が、美術史上に占める位置や、裸体画としての独自性などは、西洋美術史の入門書を読めば、必ず書いてあります(その意味でアラスの『なにも見ていない』は新しい知見を示す研究です)。むしろ、このような「よく知っている」裸体画と、仏教美術や東洋美術の裸体画、あるいはグロテスクな作品とを対比させることで、背後にある文化の違いを意識して欲しいと思います。

日本の絵が平面的で、色の数が少ないのに対し、ヨーロッパの絵が奥行きを持ち、色が多いせいか、ヨーロッパの絵の方がエロティシズム、グロテスクの度合いが増すように感じるのは気のせいでしょうか。作者による描き方の違いなど、興味深く見ることができました。
70枚ほどのスライドをお見せしたので、とくに後半はひとつひとつの作品を丁寧に見ることができませんでした(ある程度は予測していましたが)。その中で、特徴をよくとらえているので感心しました。たしかに日本の絵、とくに前回紹介した浮世絵は、版画ですから平面的な画法になります。もっともこれは、浮世絵に限らず、日本絵画や東洋美術にある程度、共通する特徴かもしれません。インドの細密画も平板といえば平板です。ただし、私の考えですが、平板だからエロティシズムやグロテスクの度合いが感じられないかどうかは、いろいろなケースがあって一概には言えないと思います。たとえば、日本ではアニメや漫画がひとつの文化として、他のどの国よりも大きな力を持っていますが、それも「平板な絵画」の伝統を受け継いでいるような気がします(アニメは絵巻物と結びつけられますが、むしろ直接の起源は浮世絵でしょう)。だからといって、そこで見られるイメージに「エロティシズムやグロテスクの度合いが感じられない」ことはないと思います。なお、マネの「オランピア」は西洋絵画の伝統を無視するような形で、あえて女性の裸体を平板に描いたことも画期的といわれています。それがスキャンダラスな絵としてとらえられた原因と考える研究者もいます。マネをはじめ、印象派の画家たちが浮世絵や春画から影響を受けたこともよく知られています。

四方田さんというどっかの大学の先生が『かわいい論』という本の中で「キモカワイイ」について記述していましたが、キモい(気持ち悪い)とかわいいは近いもののようです。それと同じで、エロいのとグロテスクなのはかなり紙一重のところで存在しているのだなと感じました。そういえば、西洋は男女が絡む絵は少なめですね。個人的に聖女=処女という信仰が絡んでくるのではと思います。処女信仰についてもどっかで話して欲しいと思いました。
エロいのとグロテスクのが紙一重というのはそのとおりですが、それではあまりにあたりまえなので、何かひねった見方ができないかと考えています。最初の授業で示した「エロスとグロテスク」という対比は「生と死」に置き換えられるというのもそれと同様で、本来、対立する概念のようなものが、じつは同じ根っこを持っているというような見方です(私も近著の『生と死からはじめるマンダラ入門』で使っています)。これは、二項対立を両義的という概念でとらえなおす、ひところの人類学者や記号論の人たちと同じなので、今回の授業では、少し違う可能性を模索してみたいと思います。男女が絡む絵は、美術史に残るような偉大な芸術家の作品としてはあまりありませんが、ポルノグラフィーの形では西洋でもいくらでもあります。日本ではそれがひとつのジャンルとして確立し、しかも美術史のレベルでも扱うことができる点に特徴があります。美術の教科書に出てくる北斎も歌麿も、せっせと春画を描いていたのですから。最後にあげてくれた処女信仰は、この授業では扱えないと思います。マリア信仰や聖女信仰、その裏返しとしての魔女などが関係してくるのでしょう。

『プリマヴェーラ』で天使が目隠ししているのはなぜでしょうか?西洋の絵はあまり見ないので(日本の絵もそんなに見ませんが)、新鮮な印象を受けました。とくに「生と死の樹」は対称の構図を生かしており、上手いと思いました。「喜能会之故真通」は以前見たことがあったのですが、もっと春画が見たかったです。また、生き人形は性の対象になったようですが(江戸川乱歩にそんな小説があったような・・・)どうなのでしょう。
天使(プットー)が目隠ししていることについては、今回か来週の授業で取り上げるつもりです。インドの愛の神も同様なのです。弓矢のシンボリズムについては、愛染明王にも関係します。「生と死の樹」は、本当にこの授業のためのような作品です。この作品については、ほとんど知識はありませんが、樹木については、やはり今回の授業で取り上げます。春画は以前は、わいせつな図画ということで出版できなかったのですが(出版するときはぼかしが入りました)、現在では問題ないようです。文献にあげておいた『別冊太陽』がいろいろな画家の作品を見る上では便利ですが、本屋や図書館にはもっと重厚な全集などが置いてあります。生き人形についての知識も、私はほとんどありません。一昨年、熊本県立博物館(と記憶しています)で、本格的な展覧会が開催されて評判になりました。ほとんどが海外に流出した作品で、「帰国展」でした。江戸時代の人々がそのまま現れたようで、会場は異様な雰囲気だったようです。朝日新聞でもとりあげた記事があったのを記憶しています。江戸川乱歩の小説は読んでいないので、知っている人は教えてください。

天の川がなぜミルキーウェイと呼ばれるのかがわかって良かった。日本の春画はきちんと見たことがなかったが、とても過激だったので驚いた。日文の授業で「好色五人女」をやるので、そちらとも関連づけられるとよいと思った。
ミルキーウェイはそのとおりで、ヘラの乳房からほとばしった乳が起源です。この乳は、飲んだものに無敵の力を与えるので、それを飲んだヘラクレスは不死身になりました。ちなみにヘラクレスは、ヘラの夫のゼウスが、人間の娘アルクメネとの間にできた子で、ヘラの乳房に吸い付いたのも、ゼウスのたくらみでした。ヘラは貞節の守護神ですが、ティントレットの絵では、全裸で描かれています。ヘラは「パリスの審判」にも登場しますが、そこでは美の女神ヴィーナスに敗れています。ヘラはアトリビュートとして孔雀を伴い、ティントレットの絵でもルーベンスの「パリスの審判」にも描かれています。孔雀はインドでは愛欲と関係のある動物で、日本の密教儀礼でも孔雀明王を主尊とする儀礼は安産のために行われます。春画が過激なのはそのとおりですが、日本美術の中の「エロス」としては、避けては通れないので、あえて最初に紹介しました。授業の後、比較文化の研究室で、この授業をとっていない学生に「今日は春画をとりあげた」と言ったら、「どうして、そんな気持ち悪いものを見せるのか」という非難を受けました。そりゃまぁたしかにそうなのですが・・・。

女の人がみんなぽっちゃりしていたのですが、やはりあれが(丸いのが)その当時の女性の美しさなんですか?というか、西欧諸国の・・・?グロテスクというので、少しビビっていましたが、カエルがへばりついていることや、かわった顔つきでグロテスクというのは、意外でした。カエルってそんなに気持ち悪がられて、かわいそうですね。蛇信仰はよく聞くけど、蛙信仰って聞かないですねぇ・・・。
たしかに蛙信仰は聞きませんね。日本ではカエルはほとんど宗教的には重要性を持たない動物のようです。オタマジャクシから姿をかえるのなんかは、けっこう、宗教学者に受けそうなイメージなのですが。カエルは地域によって、大きさや色、形態などがずいぶん異なるので、扱いも一様ではないようです。食用にする国も多いですね(日本も食用蛙がいますが)。昔、W. サローヤンの小説を読んでいたら、かわいい女の子を「カエルちゃん」と呼んでいてびっくりしました(『ママ・アイラブユー』新潮文庫)。日本人の女の子なら傷つくでしょうね。ベルトリッチ監督の映画『1900年』では、主人公の少年が、つかまえたカエルを何匹もワラでつないで、腰や頭に飾っているのを見て、グロテスクと思いましたが、ヨーロッパ人はそうは思わないのかもしれません(日本人もメザシやししゃもがワラでつながっていても、気持ち悪くありませんから)。それはともかく、グロテスクの作品は、実際はあまり思いつくものがありません。エロティックな作品にくらべると、苦戦しそうな気もします。

生々しいものを描く、作るほど、気持ち悪かったり、美しくないということは、普段、誰かを見て「美しい」と思うときはどうなっているのかと思った。理想・美しい ? 現実・みにくいというのが、おもしろかった。
「生々しいものはグロテスク」というのが、今回の授業で気になっているテーマのひとつです。グロテスクなものをさらに誇張すると滑稽になることもあります。ふつう、美術作品は「リアルな表現」が重要と思われていますが、実際は、特定の形式や様式、あるいは画家の個性にはめ込んだ作品の方が傑作として残っていることが多いようです。むしろ、「リアルではない」ものを、いかに「リアル」と思わせるかがポイントかもしれません。この考え方に従えば、普段、誰かを見て「美しい」と思うのは、自分が持っている美の形式に、その対象がうまく当てはまったときに、そうなるのでしょうか。

日本の浮世絵がやけにリアルで、気持ち悪かったです。でも、リアルな現実の人間は気持ち悪くない。それをコピーした感じのものが、気持ち悪いというのは、とても不思議な感じがしました。日本にあんなリアルなポルノグラフィティがあったとは驚きです。
やはり、春画は気持ち悪いと思う人がかなりいらっしゃるようですね。今のところの予定では、前回だけの登場のつもりです。最初の授業でお見せした理由は、すでに書いたとおりですが、西洋の絵画やインドの美術と比較して、日本文化のもつ特殊性に気付くことが目的です。ところで、一般的な「リアル」という語の意味にしたがえば、春画はリアルではありません。授業で少し紹介したように、あれは極端に誇張されたイメージです。養老猛司氏はそれを「性行為中の人の脳における、生殖器の占める大きさを、相対的に表現したもの」と説明しています。そして「身体の脳化」という考え方をそこから導いています。さすが『バカの壁』とかのベストセラー作家(脳学者)ですね。なお「ポルノグラフィティ」はバンドの名前で、「ポルノグラフィー」が正しいと思いますが・・・。


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