浄土教美術の形成と展開

2007年12月10日の授業への質問・回答


なぜ人目に普段は触れないような胎内にまで、金箔を貼るのだろう。虫食い対策であれば、べんがらを塗るだけでよいんじゃないか。何かそれ以外にも意図があったのだろうか。
見仏が比較的日常的なもので、観仏ほどの修行が必要でないのなら、観仏はとくに頑張らなくてもよいのではと思う。もしかすると観仏の方がレベルが高いのか。
「残されたもの(生者)のため」とは、予行演習ということなんだろうか、それとも死にゆくものと同一体験をするということだろうか。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来の胎内に金が塗ってあるのは、密教的な思想がその背景にあると、参考にした本に書いてありました。具体的にどのような思想であるかは、鳳凰堂を取り上げるまでに調べておきます。胎内には真言が表面に書かれた蓮台もありました。これも密教と関係があるそうです。平等院鳳凰堂といえば、浄土教の代表的な寺院として知られていますが、最近の研究では、密教の要素がかなり大きかったことが指摘されています。同じようなことが、岩手の中尊寺金色堂でもあるようで、従来の浄土教の美術のわくには、これらの建造物は収まらないようです。観仏と見仏の違いは、能動的、受動的という言葉で説明しました。見仏は影向という用語とも関係し、日常的な空間に突如として仏が出現するというイメージだと思います。それを見ることができるのは、一種の霊能力者で、誰でも可能ではないでしょう。それに対し、観仏は、トレーニングを積むことで、イメージを生み出す能力を身につけるという感じでしょうか。プロのお坊さんがせっせと行っていた実践です。「生者のための画像」という説明は漠然としていますね。今回、二十五三昧講を取り上げ、源信たちがどのように臨終行儀をとらえていたかを、考えてみたいと思います。少なくとも、臨終間際の人には、阿弥陀の姿の絵が横に置いてあっても、あまり助けにはならないでしょうし、阿弥陀の姿そのものもきちんと見ることはできないようです。

源信は下品で往生したのですね。宗教者だからといって、上品で往生するわけではないのでしょうか。親鸞は自分が極楽浄土に往生するのは間違いないと確信していたようですが。
配付した資料のように、源信の往生の様子が詳しく伝えられているのは、やはり、本来であれば上品で往生しそうな高徳の僧侶であるにもかかわらず、下品であったのが意外だったのでしょう。下品で往生したのが事実かどうかはわかりませんが、そのような伝承が生まれた背景は気になります。往生伝にはさまざまなものがありますし、法然上人絵巻などにも多くの往生者が描かれています。その内容を調べると、当時の人々の浄土や往生に関する「共同幻想」のようなものが浮かび上がってくるでしょう。親鸞は往生するとかしないとかいうレベルを超越していた人物です。そのため、浄土真宗では来迎や往生は問題にしません。それを突き抜けたところで、阿弥陀を信仰していたのです。

当時の人々にとっては、「仏」は今の私たちより、より身近な存在だったのだろう。でも、影向で好まれたのはなぜ普賢菩薩や文殊菩薩だったのだろうか。阿弥陀如来はおそれおおいからだろうか。
たしかに、当時の人々にとっての仏は、われわれよりもはるかにリアルだったでしょう。だから、臨終の場に来迎したり、ときどき影向してきたのでしょう。それは仏像についても当てはまることで、われわれはお寺や美術館で仏像を見ても、芸術品とか彫刻とか思うだけですが、当時の人々には「生きた存在」だったはずです。それだから、さまざまな仏像にまつわる伝説が生まれたのです。影向する仏が誰であるかは、そのときの仏教のあり方に関係するでしょう。文殊が影向するのは、中国の文殊信仰が背景にあり、そこでは文殊は一種の来訪者として行者などの前に姿を表します。渡海文殊という形式の文殊像が流行し、そこでは文殊は獅子にのって海を渡っています。普賢は『法華経』信仰が背景にあります。その中の普賢に関する章では、普賢が四天王や羅刹女などを伴って、法華経信者のところに姿を表すことがはっきり説かれています。それと同時に、これらの菩薩に対する信仰は、釈迦信仰の裏返しと見ることもできます。釈迦がこの世に現れたのはずっと昔のことで、涅槃の後には仏にいない時代が続きます。それは、弥勒の出現まで待たなければならないのですが、五十六億七千万年もあります。その間にわれわれを救ってくれるのは、仏ではなく菩薩で、文殊と普賢はその代表です。弥勒信仰も、釈迦信仰の裏返しと見ることもできます。浄土教信仰は、そのような菩薩を中心とした釈迦補完の発想を切り替えて、阿弥陀の救済ですべてを解決しようとしたのでしょう。もっとも、浄土教信仰とこれらの菩薩信仰は相反するものではなく、共存していたことが藤原道長の経筒の刻文などから知られています。

立っている像は鎌倉からとおっしゃっていましたが、その背景は何か特別な理由があるのでしょうか。私は立っているものは威圧的で苦手です。
解説書の受け売りですが、立っている方が来迎にかかる時間が短く感じられて、スピーディーさを求めた鎌倉仏教の嗜好に合っていたと言われます。知恩院の早来迎も、そのような来迎の早さを示すための工夫がいろいろ盛り込まれています。興福院の来迎図に、スピード感を感じると言いましたが、それも同様です。この作品は私の好みで少し詳しく紹介しましたが、風になびく二菩薩の風貌は見応えがあります。立像が威圧的というのはわかりますが、描き方にもよるでしょう。今回紹介することになった高野山の聖衆来迎図は、中央の阿弥陀が坐像で表されていますが、重量感があり圧倒的な迫力を持っています。こちらの方が私は威圧的に感じます。

最近、NHKで再放送された『日本の仏像100選』というような番組で、授業で紹介された仏像が多数出てきた。仏像が放つ包容力や穏やかさに、人々は感動し、癒されるという。たしかに、伏見寺の阿弥陀如来坐像はかわいい。
授業で取り上げている仏像は、それなりに有名なものなので、百選に選ばれるものもあるでしょうね。わたしもこの番組は少し見たことがありますが(世界の仏像の方だったかもしれません)、説明などに違和感を覚えたりして、最後までは見続けませんでした。でも、一般向けにはよい企画だと思います。最近は仏像がブームだということで、テレビでも取り上げるのでしょうが、不満に思うのは、仏像はもっと理知的に楽しむことができるのに、日本人は(というかマスコミは)情緒的なレベルだけで終わらせてしまうことです。「すばらしい」とか「美しい」とかだけではなく、その姿を取ることに意味を、もっと掘り下げたら面白いのにと思います。もっとも、テレビにそれをやられてしまっては、私が授業をしたり、本を出したりする必要がなくなりますので、それはそれでいいのでしょうが。

来迎図といっても、以前までのイメージだとすべて同じようなものだと思っていたが、今回、はじめてたくさんの来迎図を見比べてみて、その他様さに驚いた。奏楽菩薩は、表情や演奏している様子が、とても親しみやすかったし、各図の装飾もとてもこったもので、見てて飽きなかった。
授業のテーマが「浄土教美術」なのですから、これまでも、もっと作品の紹介や説明に時間をかけるべきだったかもしれません。同じように見えるものが、それぞれ違って見えるのは、この分野の面白さでもあり、理解の第一歩です。自分自身でも、解説などを参考にして、どこがどのようになっていて、それがどのような意味を持っているのかなど調べると、楽しいです。十分な知識を蓄えて、展覧会などで本物を前にすると、まったく違った感動がありますよ。

仏像の手の形が何種類かあることについては理解できたけど、光背の違いには何か意味があるのだろうか。光背自体ついていないものや、光背に小さな仏がくっついているかなどの違い。手の形と光背の形の関連性はないように感じるけど・・・。
光背も仏像の一部なので、さまざまな情報を含んでいます。光背は仏が誰であるかによって異なりますし、同じ仏でも時代や様式によって異なります。そのため、光背から年代などがわかることもあるのですが、やっかいなのは、仏像はもとのままでも、光背は損傷などして、後世の補作(後補といいます)であることが多いことです。光背に小さな仏がたくさんいる仏像がときどきありますが、中央の仏が誰であるかでその意味は変わります。たとえば、薬師如来では七仏薬師、大日如来では金剛界の諸尊といったぐあいです。先週紹介した中では、三千院の阿弥陀の光背に小さな仏がたくさんいますが、これは十三仏というグループのようです。基本的に、印と光背には直接の関係はありませんが、印も仏の種類に左右されるので、同じ組み合わせで現れることも当然しばしばあります。



(c) MORI Masahide, All rights reserved.