浄土教美術の形成と展開

2007年11月26日の授業への質問・回答


法然が東大寺の儀式をしている場面で、曼荼羅のようなものを置いてあったと思うのですが、法然はそのようなものを用いていたのでしょうか。
よく気がつきました。法然の前に置かれていたのは、今回取り上げる(本当は先週のはずでしたが)當麻曼荼羅です。さらにそのむかって左には、中国浄土教の高僧図が懸けてあります。曇鸞や善導などです。法然上人絵伝のこの場面は、曼荼羅を用いた儀式が描かれているということで、私も以前から気になってます。法然は當麻曼荼羅や高僧図を前に、どのような法要をしていたのでしょうね。そもそも、當麻曼荼羅の存在は、法然の時代にはほとんど知られていなかったはずです。法然の弟子の證空が、當麻寺に参拝し、善導の『観経疏』と対応することを発見した後に、證空の開いた西山派で當麻曼荼羅が重要となります。そうすると、この場面は後世のフィクションということになります。南都の中心寺院の東大寺で、南都の僧兵に囲まれ、寸分の隙も見せずに見事に法会を勤め、教えを説いたというのが、絵巻の物語なのですが、実際は、絵巻が制作された当時の、西山派の法会の様子を描いたのでしょうか。なお、高僧図はこれとよく似た宋代の絵が現存しています。昨年、奈良博で開催された重源展に出品されていました。

絵巻で聖徳太子が登場するのがおもしろい。セオリーだと仏や如来が登場しそうなものなのに。当時、聖徳太子も一種、神格化されていたのであろうか。
神格化されていたようです。一般にはあまり知られていませんが、浄土真宗には聖徳太子に対する信仰が重要な位置を占めています。熱烈な聖徳太子信仰は、開祖の親鸞自身が持っていたようで、親鸞の著した和讃の中にも、聖徳太子をたたえるものが含まれています。真宗寺院では聖徳太子を本堂の中に祀ることが一般的で、中世以降の聖徳太子像は、ほとんどが真宗寺院に伝えられたものです。その場合、昔のお札にあったようなひげの生えた肖像画ではなく、美頭良を結い、柄香炉を持った童子の姿をした聖徳太子像です。蓮如の絵伝にも聖徳太子が出てくるのは、親鸞の正統な後継者であることも意識されているのでしょう。

相承略系譜をもとに、知っている僧のグラフを作ると、1000-1100年代前半が空白となりました。このあいだ、僧に人物がいなかったのか、あるいは私が知らないだけなのか。鎌倉仏教出現のひとつの参考となることかもしれません。
漠然としたものですが、私も同じような印象を持っていました。往生要集を著した源信が、意外に早い時代で、それから平安末までは、すくなくとも教科書に出てくるような高僧はほとんどいないようです。時代としては、摂関政治の終わりから院政期にかけてになります。この時代に僧侶がいなかったはずはなく、天台でも真言でも数々の高僧たちが輩出していたはずです。ただその活動内容が、朝廷や貴族の加持祈祷をもっぱらとし、改革者のような僧侶がいなかったからでしょうか。たとえば、真言宗に目を向けると、小野流と広沢流というふたつの流れが形成され、その中で野沢十二流というような分派の形成が進んだ時代です。それは、密教儀礼の整備と体系化の時代ととらえることができます。真言宗にとって、空海によってもたらされた密教が、ようやく日本の政治や社会に適合することができるようになった時代であり、充実期でもあったわけです。日本の仏教史全体から考えても、けっしてそれは不毛な時代ではなく、むしろ、さまざまな仏教の文化を生み出した豊穣の時代でもあったはずです。たとえば、仏教美術に限っても、院政期は仏画の黄金時代でもあり、その一方で多くの絵巻物を生みます。彫刻では定朝様と呼ばれる荘重で充実感のある仏像が、たくさん作られています。歴史を大きくとらえると、変革の時期と維持発展の時期があり、この時代はちょうど後者に当たるのかもしれません。歴史の教科書では、変革の時代に焦点を当てることが多いため、どうしても伝統の維持を中心とした時代は、影が薄くなるのではないでしょうか。

法然上人絵伝を見て、法然のさまざまなエピソードが楽しめた。とくに真夜中に読書をする際、法然の目が光る場面などは、作者はそう思ってなかったと思うが、ユーモアさえ感じられて、法然の起こす奇跡が大いに現れているように思えた。
法然上人絵伝はおもしろいです。とくに、前半にあるさまざまな奇跡の物語は、旧約聖書も圧倒するような、荒唐無稽なエピソード続出です。このような奇跡譚は、後世の親鸞や蓮如の絵伝にも影響を与えたのではないかと思います。『法然上人絵伝』と同じ鎌倉時代に成立した高僧絵伝には、このほかに『一遍上人聖絵』が有名です。これもずいぶん大きな絵巻ですが、法然上人絵伝に比べると、奇瑞などが控えめで、むしろ史実が淡々と描かれているような印象を受けます(もちろん、まったくないわけではありませんが)。画風も宋代絵画の自然描写(岩山や松の木、砂浜など)が顕著で、大和絵風の法然とはまったく異なります。高僧絵巻としては『一遍聖絵』のほうが研究が進んでいるようですが、いずれの作品でも、絵も楽しめておもしろい研究分野だと思います。

法然の絵巻の中で出てきた仏や神などの顔を直接的に描かない思想は、戦時中に庶民が天皇の顔を直接見ずにあがめるような風習にもつながっているのかもしれないと感じた。あと、絵巻の中に象が出てきたが、象は日本的なイメージではなかったので、意外な印象を受けた。
神や仏の顔を直接描かないという問題は、美術史でもしばしば取り上げられます。最近、『春日大社験記絵』をおもに扱って、この問題をとりあげた研究が出版されました。
山本陽子 2006 『絵巻における神と天皇の表現 見えぬように描く』中央公論美術出版。
比較文化の研究室に入れてありますので、関心があれば読んでみてください。私自身もこの問題は、聖なるものはいかにして表現されるかという点で、関心を持っています。何らかの法則性があり、そこに文化の違いが現れるのではないかと思っています。日本の絵画の中の動物表現もおもしろいですね。有名な『鳥獣人物戯画』にも、たくさん動物が出てきて、その中には象も獅子も犀も麒麟も貘(バク)もいます(よく知られたカエルとウサギの相撲とかとは別の巻です)。木曜の私の授業で取り上げている『地獄草紙』では、怪獣のような象が出てきます。仏教美術としては、象が普賢、獅子が文殊の乗り物となりますので、作品数も相当にのぼります。しかし、象と獅子とでは、その写実性に際だった違いがあるそうです(日本史の卒業生で、金沢美大の大学院に進学した方が修士論文でこの問題を取り上げ、教えてもらいました)。

平安仏教では即身成仏という考え方で、最澄空海も生き仏としてまつっているが、浄土教では荼毘にするという考え方はどこから生じてきたのでしょうか。
空海はたしかに入定伝説があり、高野山の奥の院で、その身を保ったまま入定(瞑想に入っていること)しているという信仰があります。これは大師信仰の基本で、高野山を弥勒の浄土と見なすことや、四国八十八箇所の巡礼などにもつながっていきます。最澄はあまりそのような発展はありませんので、荼毘に付されたのではないでしょうか(手許に資料がないので、私もよくわかりません)。平安時代や鎌倉時代の葬送の方法としては、おそらく土葬、あるいは野辺に放置というのが一般的なので、荼毘というのは高僧だからこそ、行えたのではないかと思いますが、あまり自信はありません。日本における葬送の歴史などを調べてみるとわかるのではないでしょうか。

「法然上人絵伝」の、法然の死期が迫っていることを嘆き悲しむ僧たちの表情が、ひとりひとりちゃんと違っていて、その丁寧さと力の入れ方に驚いた。顔なんて適当だと思っていたが、場面によって少しずつ異なり、記号的というのは間違いだったとわかった。
重要な場面では、やはり絵師は注意して描いているでしょう。上にも書いた『一遍上人聖絵』でも、臨終の場面は迫力があります。ただし、いずれも画家がオリジナルな表現を求めて、さまざまな形態を生み出したわけではないようです。われわれにとって、絵画は画家が写実的に描くのが当たり前のような気がしますが、絵画の長い歴史の中で、これはむしろごく最近のことです。それ以前は、すでにあった絵を手本にして、それを再現することにエネルギーを注ぎました。既存の絵画からの素材を集成した一種のコラージュのような性格が顕著だったのです。臨終の場面であれば、おそらく釈迦の涅槃図あたりが、格好のお手本だったでしょう。

なぜ、親鸞の絵伝はワンパターンなのに、蓮如の絵伝は多種多様なのでしょうか。やっぱり隠棲した親鸞にはゆかりの寺というものが少ないからでしょうか。
親鸞にもゆかりの寺がたくさんあります。とくに関東地方には多いようで、そのあたりを巡礼するツアーもあります。親鸞と蓮如で絵伝のヴァリエーションに違いがあるのは、それぞれの制作年代の違いと、絵伝をどのように用いたかという違いによるのではないかと思います。あるいは、絵伝を用いて行われる絵解きが、どの程度の広がりを持っていたかによるでしょう。全国規模で同じ方法で行われたのが親鸞絵伝で、それに対して、地方ごと、あるいは個々の寺院で独自の方法で行われたのが蓮如の絵伝のようです。もっとも、蓮如の絵伝も重要なシーンは共通なので、それに少しずつ変化を与えながら伝播したとも思われます。流布した時代の本山と地方寺院の関係が、両者で異なっていたのかもしれません。

親鸞の存在について、蓮如がその存在を証明しなければ、その存在すら明らかにならなかったかもしれないと聞いたことがあります。ということは、よほど自分のことについて記録を残さなかったのかと思ったら、絵伝はあったみたいですが。やはり、絵伝はあっても、その人が実在の人物かどうかは証明できないのでしょうか。
親鸞が実在したかどうかは、おそらくそれほど問題にされなかったと思います。蓮如が現れる前は、浄土真宗の勢力は微々たるもので、蓮如によってはじめて全国規模で信者を集めることに成功したということでしょう。蓮如によって、親鸞の教えがようやく広まったのです。蓮如自身が新しい教えを広めたのではなく、宗派の拡大に成功したこと、とくに一般大衆への浄土信仰の浸透に功績があったことで、蓮如は浄土真宗においてかけがえのない人物となったのです。



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