浄土教美術の形成と展開

2007年11月19日の授業への質問・回答


「悉有仏性」いい言葉だと思った。山や川、草木といった自然なものにも仏が含まれていると知り、さらに深いと思った。
たしかに、すべてのものに仏が含まれているというのは、すばらしい考え方かもしれません。だれもがすばらしい個性を持っているという、現代的な考え方に通じるものもそこにあります。しかし、一方では、このような考え方が危険な要素も含んでいることにも注意をする必要があります。すべてのものが仏であるならば、われわれはそもそも修行をする必要がありません。仏教の基本には、悟りを求めて努力するという考え方がありますが、それが根底から覆されることになるのです。実際、浄土教で主流となる「念仏を唱えれば往生できる」という考え方も、それと同じです。また、すべてが仏であるというのは、すべてに個性がないというとらえ方もできます。そこからは、個よりも全体を重視する考え方も現れます。なお、「悉有仏性」は「あらゆるものは仏性を持つ」ということなのですが、インド的な表現として、「仏性を持つ」というのは「仏である」ということと同義です。仏となる可能性を持っているのではなく、すでに仏そのものであるという意味になります。「仏を含む」と言った場合、草木のような自然のさまざまなものに、何か霊魂のようなものが含まれているようなイメージで、いわゆる「アニミズム」に通じるものを感じますが、インドではそのようなイメージではありません。ここにも、インドと日本のとらえ方の違いがあるでしょう。

親鸞は他力本願を説いていたと思ったのですが、「自力」ということを、彼は批判的にとらえていたのでしょうか。自力本願というのは、大乗仏教の思想と似ているイメージがあるんですが、やはり違うものでしょうか。
「他力本願」や「自力本願」は、浄土宗や浄土真宗の看板のような言葉ですが、おそらく法然や親鸞の著作には含まれないのではないかと思います(確認はしていませんが)。「他力」「自力」はあります。この二つのとらえかたは法然と親鸞では異なり、法然では他力よりも自力の方が仏教本来のあり方には近いという前提のもと、末法という状況では、他力しかあり得ないという結論が導かれます。しかし、親鸞は「信」を第一義にしますので、両者には優劣はなく、むしろ、徹底した他力を求めることが、何よりも重要になります。実際、われわれの努力に対して、まったく価値を認めない他力の思想は、自力以上に困難だと思います。

『往生要集』などの仏書を書く際にいろいろな仏典に典拠を求めなければいけなかったのは、やはり保守的に思想を守るためだろうか。
保守的であるのではなく、仏教の分野でおよそあらゆる著作をする場合、すべての根拠は経典にあるということです。基本的に、僧侶が著作をするのは、自分のオリジナルな言葉でオリジナルな思想を示すのではなく、仏典に説かれた言葉を手がかりに、釈迦の本当の考え方を示すことです。現代の思想や哲学の文献とはまったく異なります。典拠となるのは仏典はもちろんですが、歴史上の高僧たちの著作もあります。日本仏教の場合、中国の高僧たちがこれに当たり、浄土教では善導や曇鸞などがあげられます。このような著述の姿勢は、日本に限られたわけではなく、すでにインドでもそうですし、中国やチベットでも同様です。そのために、チベットのお坊さんは、小さいころから仏典の暗記にエネルギーをそそいでいます。

たしかに浄土のイメージは、ヨーロッパにその起源があるわけではにかもしれませんが、例えば庭こそが楽園であると考えるならば、洋の東西を問わない、人の持つ深層心理?なのかもしれません。ギリシャ神話と日本の神話に共通点があるように、人である以上、共通するかも。龍樹は、別の授業でならいましたが、仏教が一大哲学であるかのような論理的な著書を読みましたが、そこで注釈書でA=Bならとか、AがBでないならと、今日の授業のような説明をしてました。
何かを説明するときに、どの範囲にまで広げるかは、おそらくそれぞれの分野で異なるでしょう。たとえば、ユングの心理学では、そのような範囲を最も広くとります。深層心理という考え方はその典型で、どんな民族でも、どんな文化でも、人間である以上、共通するものがあるという考え方に立ちます。それに対して、歴史学のような分野では、共通するものがあったとしても、その背景に、歴史的に実証できる事実がない限り、安易に結びつけることは許されません。どちらが正しいというよりも、どちらが納得できるかという問題です。龍樹の考え方というか、論証方法は「四句分別」(テトラレンマ)と呼ばれます。全体を二つの領域にわけ、はじめに二つをそれぞれ別に否定し、つぎに二つを合わせたものを否定し、最後に二つを合わせたもの以外を否定します(否定が基本です)。龍樹のどの著作を読まれたかわかりませんが、代表作「中論」などに、このような論証の記述が多数現れます

講義中に少し大師堂の話が出てきていましたが、夏休みに行ってきた四国遍路では、まぁ当然なのですが、大師堂には空海がまつられていました。しかし、大師堂とは別に、かならず十一面観音や千手観音やら、さまざまな観音、如来がまつられていました。これも今日の授業と関係するのでしょうか。
四国遍路は前期の空間論で少し扱いましたが、後期はおそらくふれることはないと思います。四国八十八箇所は弘法大師信仰にもとづく日本の代表的な巡礼です。そのため、八八の寺院のほとんどは真言宗の寺院ですが、真言宗という宗教そのものが重層的で、大師信仰も観音信仰もそなえています。平安時代後期に真言宗は浄土教の影響を強く受けたため、本尊としてまつる仏も阿弥陀如来が相当数に上ると思います。観音の霊場としては西国三十三箇所が有名です。ここもかなりが真言宗の寺院です。もともと観音信仰は奈良時代の仏教で流行し、その時代の仏教は古密教と呼ばれることもあります。奈良時代の仏教は奈良の南都六宗が中心ですが、平安から鎌倉にかけては、これらの南都の仏教も真言密教化します。なかなか複雑ですね。

私たちは「鎌倉新仏教」と学んだが、黒田氏が言うように、必ずしも旧仏教が衰退し、あらたに出現したわけではなく、顕密の力はまだ強大だったのだろう。このあたりの学習は高校の日本史レベルでは誤解が生じえるかもしれない。(すべての人が仏であるとは、ありがたいことだが、少々楽観的であるような気もする)。今日の講義と直接の関係はないが、先日、京都知恩院で、鎌倉時代の快慶作と思われる一木造りの仏像が発見されたと新聞で見た。その根拠となるのが、技巧の特徴が快慶の他作品と一致するからだという。快慶の作品を他人がまねたとは考えられないのだろうか。
高校の日本史で学ぶ仏教史は、おそらくかなり遅れています。顕密体制論などという言葉はもちろん出てきませんし、その片鱗も見られないでしょう。黒田氏の文章は今回コピーを配布する予定ですが、おそらく「目からウロコが落ちる」ような内容です。高校の日本史の基本にあるのが、江戸、もしくは明治以降の宗派ごとの宗教の歴史で、平安や鎌倉の仏教を総体としてとらえたり、政治史、社会経済史と結びつけたりするような発想にはないからです。天台系の新仏教ばかりではなく、南都の新しい動きについても、顕密体制論は有効で、叡尊や忍性、あるいは明恵なども、「旧仏教の改革」というとらえ方に再考を促しています。快慶の作品については、私もニュースで見ました。特定の仏師の真作かどうかは、いろいろな方法で確認されたでしょう。技法ももちろんですが、その仏像の伝来と仏師の経歴とが合致する必要もあります。技法や様式については、同一工房での同時代の作であれば、判断は難しいでしょうが、後世の模刻は区別できるでしょう。模倣して作るというのは、口で言うほどは簡単ではありません。

空也上人像は、造型としては非常に斬新、ユニークに思える。口の前の六体の阿弥陀のイメージなど、他に類がないのでは。
空也像は歴史の教科書にもよく登場するので、ご存じの方も多いでしょう。空也自身は平安中期から後期にかけての人物ですが、作品自体は、鎌倉初期です。運慶の息子のひとり康勝作と言われています。鎌倉の写実主義的な作風がよく現れた作品です。「口の前の六体の阿弥陀」はたしかに類例がないでしょうが、これも「念仏を唱えれば、それがそのまま阿弥陀の姿となった」という伝承にもとづくものです。胸に金の小さな鼓を懸け、それを右手に持った撞木で叩く姿や、左手に持った鹿の角を付けた杖は、遊行の聖のイメージにふさわしいものでしょう。このような姿は、のちに時宗の一遍にも現れます。

道長の法成寺や、浄瑠璃時の阿弥陀はなぜ九体も必要なのですか。
九品往生に対応すると言われます。浄瑠璃時の阿弥陀については、最近の研究として以下のものがあります。
大宮康男 1996 「浄瑠璃寺九体阿弥陀像造立考」『佛教芸術』224: 33-55。
冨島義幸 2005 「九体阿弥陀堂と常行堂:尊勝寺阿弥陀堂の復元と位置づけをめぐって」『仏教芸術』283: 9-39.


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