浄土教美術の形成と展開

2007年11月12日の授業への質問・回答

智光は夢の中で頼光に浄土を見せてもらったということを、当時の他の人たちはどのくらい信じていたのでしょうか。
おそらく、聞けばそのまま信じたでしょう。当時の人々にとっては、何ら不思議ではなかったと思います。夢の中というのもポイントで、古来、夢とは真実を告げる場であり、神や仏と出会う場であったからです。現実よりもはるかに重要な出来事が起こったり、メッセージが伝えられたりします。なお、智光のこの物語は、おそらく後世の創作と考えられています。元興寺という南都の重要な寺院でも、すでに浄土教の信仰が浸透し、三論宗の有名な学僧だった智光自身にも浄土教関係の著作(『無量寿経論釈』、ただし散逸し、断片が他の文献に散見されるのみ)があることから、そのようなエピソードが作られたのでしょう。

初期の浄土教が藤原氏と強い結びつきがあったことに、とくに関心を持ちました。のちに道長や頼道も浄土教を深く信仰しますが、逆に、たまたま藤原氏が信仰したからこそ、浄土教が発展できたんだろうと思いました。
たしかに、そのように考えると、自然な流れのような感じがしますが、実際は、奈良時代の浄土教と平安時代の浄土教とは、直接結びつかないようです。平安時代の浄土教は、比叡山の天台宗がその母胎で、奈良時代のいわゆる南都六宗とは大きな隔たりがあります。もちろん、天台宗がまったく南都六宗と無縁であったわけではなく、つねに交渉を持っていましたし、浄土教に関する知識も、南都の学僧たちと共有する部分もあったでしょうが、実際の行法や思想の体系は天台独自のものです。それは天台というよりも、中国の五台山で行われていた独特の要素を多分に含んでいたようです。なお、道長は浄土教と結びつけられて語られることが多いのですが、他にも、法華経信仰、弥勒信仰、金峯山信仰(修験)など、さまざまな信仰を持っていました。これは当時の平安貴族の特色でもあり、矛盾せずに受け入れられたようです。

天寿国と極楽浄土は同じ世界ということでいいのだろうか。聖徳太子の頃の仏教は、浄土教とは別系統の仏教だと思っていたけれど。
別系統です。天寿国がどのようなものであったかは、いろいろな説がありますが、阿弥陀の極楽浄土とは異なることはたしかです。聖徳太子の時代にも、浄土という観念があったことが確認できるという程度です。ただし、聖徳太子が派遣した遣隋使が、『無量寿経』を日本に初めてもたらしていることから、すでにこの時代、基本的な浄土教の典籍が日本に伝わっていたこともわかっています。聖徳太子が表した有名な三経義疏は、法華経、勝鬘経、維摩経の三経で、いずれも浄土教関係ではありません。

仏教ではとくに智の象徴として「光」を使うのは、十二因縁の「無明」にも見られるだろう。日本の「文明開化」も灯(街灯や電灯)の出現によったと以前授業で聞いた。しかし、それによって私たちは、今日の授業にもあったが、完全な暗黒の世界を想像しにくくなってしまった。
「無明」という言葉は、まさに「灯火がない状態」を意味します。インドではvidy?が「智」を表すことばとして最も一般的ですが、灯という意味でも用いられます。vidy?は「知る」を意味する動詞テvidから作られた名詞で、本来の意味が「智慧」です。そこから「知らしめるもの」すなわち「灯」になります。古代インドの宗教文献「ヴェーダ」も同じ語から派生した言葉です。これを占有していたのが、祭祀階級、いわゆるバラモンで、社会の最上階に位置します。インドでは智は力であり、権力にもなります。

常行三昧ですが、回る方向は決まっていたりするのでしょうか。トランス状態に陥るためというほかに、円を描くように回るという行動自体に、何か意味がないだろうかと思いました。このお話を聞いているときに、なぜか思い浮かんだのが、四国遍路だったのですが、これも右回りですね。
おもしろい指摘ですね。常行三昧は基本的に右回りだと思います。『法然上人絵伝』などに描かれている常行三昧でも、授業で紹介した写真でも、いずれも右回りに回っています。おそらく、右回りはインドからの伝統で、右を吉祥とする考えにもとづいています。インドでは敬意を表すために、相手の周りを右回りに回る習慣があったり、ストゥーパや寺院の周りを回るときにも右回りが原則です。回転運動によってトランスに入るのは、シャーマンが行ったり、神秘主義的な宗教実践としもてみられます。目が回るでしょうが、それがいいのでしょう。四国遍路はたしかに右回りです。これも仏教としては当然なのでしょう。ただし、四国遍路は逆順に回る方法もあり、この場合、左回りになります。これは、通常の右回りよりもはるかに難しいらしく、何度も右回りをした人が挑戦するようなものだそうです(「逆打ち」といいます)。

先週の講義後、瞑想に関する一般向けの宗教書でない簡単なものを読んでみました。日常の生活の中で行うさまざまな方法が書かれていました。歩きながら何かを見つめつつ行うものや、人の背中に意識を集中するもの、イメージをひたすらふくらませるもの等。インドやチベットの仏教には、こういうものも含まれているんでしょうか。
仏教でも瞑想にはいろいろな方法があります。観仏は「イメージをふくらませる」方の実践でしょう。これに対し、禅では「無念無想」というように、イメージを作ろうとする意識を押さえる方向で行います。身体的な動作を伴うものもあれば、動きを制止するものもあります。体の姿勢とともに呼吸法が大事であることは、ヨーガでもよく知られています(ヨーガはインドの瞑想の基本です)。私は瞑想や観想に関する文献をよく扱うのですが、自分自身ではあまりそのような実践には興味がありません。実際にやってみると説得力があるとは思うのですがノ。せっかく本を読んだのでしたら、そのうち体験を教えてください。

天台宗というと、天台座主に代表されるような政治との深い関わりがあるように思われますが、初期の天台宗は政治とは関係があったのでしょうか。三昧という概念を俗世に住む政治家に理解できるとはとうてい思えませんが、彼らの助力なしで寺院組織を運営していくことは難しかったと思います。
平安時代の仏教は、基本的にすべて政治と何らかの関わりを持っています。そもそも、僧侶となるためには、国家の許可が必要でした(これは奈良時代でも同様です)。一種の国家公務員です(第一種国家公務員のことではありません)。天台は当初は政治との結びつきをなかなか得られずに苦労しました。とくに、開祖の最澄が空海に後れを取ったため、真言宗の後塵を拝することが多かったようです。天台宗が権力と結びつくことに成功したのは、先週も紹介した良源の時代です。彼は天台宗の中興の祖とも呼ばれ、その後の繁栄の基盤を作りました。良源の弟子の源信によって浄土教が貴族の間に浸透したのも、良源による地ならしのようなものがあったからでしょう。

「止観」の意味がよくわかりません。「摩訶止観」の意味もです。『観経』とどのような関係ですか。派生したものですか。なぜ「止」という文字を用いているのですか。
「止観」は天台で重視される用語で、「摩訶止観」は「大いなる止観」を意味し、天台宗の基本文献の名前です(岩波文庫に和訳があります)。「止観」は「止」と「観」に分かれ、「止」は心のはたらきを鎮めることを意味し、「観」は正しく観察することです。この両者が瞑想の基本となるからです。「止」は体の動きを止めるのではなく(それも必要ですが)、心の作用を止めることです。ヨーガの基本も同様です。



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