浄土教美術の形成と展開

2007年10月22日の授業への質問・回答


阿弥陀がもう出現しているという考え方はよく理解できません。根本的にあまり理解しようとしてできるものではないのでしょうが。菩薩って、人間ではないんですよね。霊っていうのも違うんでしょうけど。仏も同じ感じです。阿弥陀がもうとっくの昔に現れたってことは、ここは仏国土で、阿弥陀はどこかにいるってことなんですか?仏って死ぬっていうのは違うんでしょうけど、消滅したりするんですか。
阿弥陀が出現しているというのは、それだけのことで、法蔵菩薩は成仏して、阿弥陀として極楽浄土にいらっしゃるということです。成仏して、すでに十劫が経過していると『大経』に書かれています。法蔵菩薩がたてた四十八願のすべては、それがすべて実現していない限り、成仏しないという宣言でもあったのですから、すでに成仏しているとすれば、誓願はすべて実現しているというが、『大経』の論理になっています。「われわれは何も努力しなくても、極楽に往生できることは決まっている」ことになりますし、そこから発展すれば「この世はすでに極楽であり、われわれは往生している」ということにもなります。その背景にあるのは、本覚思想と呼ばれる考え方です。菩薩は大乗仏教の主役です。菩薩の意味は「悟りに向かってゆくことを決意したもの」で、本来は、悟りを開く前の釈迦を指しましたが、大乗仏教ではわれわれ衆生の代表であり、仏とわれわれを仲介するような存在となります。菩薩といえば、観音とか文殊とか弥勒といった、固有の名称を持った有名な菩薩もいますが、大乗菩薩というのはそれとは少し違い、仏教の修行をするものであれば、すべて菩薩となります。「誰でも菩薩」と言われます。同じ「菩薩」と呼ばれても、時代によって異なることに注意する必要があります。仏は死ぬことはありませんが、姿を消すことはあります。大乗仏教や密教では、すべての仏は、ある根本的な仏(法身)が仮の姿をとっただけという考え方があり、このような仏は一定期間だけ、われわれの前に姿を現します。

観経というものの存在をまったく知らなかったので、どのようなものなのか、実際に見てみたいと思いました。しかしながら、声に出して読まないというのは、一体、どういった場で使われるものなんでしょうか。本を読むみたいに、個人的に学習するといった感じか、皆で一斉に黙読なのか。
観経は浄土三部経の中でも、とくに浄土教美術と関連の深い経典なので、内容をよく知っていただきたいと思います。これからの授業でも、繰り返し取り上げることになります。浄土三部経は翻訳がいくつも出ていますから、図書館などで一度目を通してもらえるといいでしょう。お経の使い方というのは、いろいろあって説明が難しいですが、基本的に僧侶の学修や信者への布教などで用いられ、そのごく一部が、日々のお勤め、法要、葬儀など、仏教の儀礼において読誦されました。意外に思うかもしれませんが、仏教の僧侶たちは経典の全体像などはまったく理解していませんでした。インドでも日本でも、自分の所属する集団(部派や宗派)が重要と見なす一部の経典のみを重視しました。現存する経典は、とてもひとりの人間が理解したり、読むことのできる量ではありません。逆に、それほど膨大な量の経典があるということは、「仏教」とひとくくりにされる宗教の中に、無数のグループがあったからです。大乗仏教とか小乗仏教(上座部)というのは、そのごく単純な分類です。なお、ついでの話ですが、変わった読誦経典として『十万頌般若経』というとてつもなく大きな経典があります。全部読み上げるには膨大な時間がかかるので、ばらばらと両手でひろげて(アコーディオンの蛇腹のように)、読んだことにしてしまいます。お経を読誦するというのは、お経の中でも勧められています。どんな修行よりも、お経を読んで、人々にその内容を伝えることに功徳があるといいます(とくに『般若経』のグループで強調されます)。お経そのものが、さらに読誦する人を増やすという「自己増殖」のような性格を持っているのです。写経もこれに似ていて、お経のコピーを作ることで、功徳を積むことができると説かれます。「読む」ことについてもふれておくと、人々が黙読の習慣を身につけるようになったのは、ごく最近のことです。それまではずっと、「声に出して読む」のが「読む」ことの基本です。経典もそうでした。「声に出して読みたい日本語」とかの本がありますが、あれは一種の回帰志向でしょう。なお、お経については渡辺照宏『お経の話』(岩波新書)が定評があります。

神変の様子が、キリスト教の「奇跡」などとくらべて、ひどく荒唐無稽で、とても理解することはできそうにありません。たぶん、大多数の人は「何となく」わかった気になるだけだろう。話の中で、法蔵菩薩は阿弥陀如来になったと話されていましたが、今は「法蔵菩薩」という存在はいないんでしょうか。阿弥陀仏であり、法蔵菩薩でもあるということでしょうか。後者が正しいような気がします。
神変はよく私の授業では取り上げるトピックですが、はじめて聞く人には理解不能でしょうね。私も説明していながら、実感としてはイメージできません。おそらく、経典ができた頃にそれを聞いた人たちも、同様だったでしょう。大乗経典の中で、日常的な世界や日々の道徳などを説くことはあまり多くはありません。ほとんどが、荒唐無稽で、とてもついていけない内容です。その理由が、前回も強調した「三昧」です。経典の内容は、仏(いいかえれば、経典創作者)が三昧に入った状態で体験した内容です。トランスに入っているのですから、論理的な思考をするはずはなく、日常的な言語で説明することははじめから不可能です。意識が宇宙全体にまで及ぶというのは、頭で理解できることではなく、体験(それもきわめて特殊な)にもとづくことなのです。法蔵菩薩と阿弥陀の関係は、上にも述べてように、同一の存在で、法蔵菩薩が成仏すると阿弥陀になります。オタマジャクシとカエルのような関係です。

三昧とsamaadhiって音が似てる気がしますが、当て字ですか。日本語の「○○三昧」っていうのは、ここから来ているのでしょうか。もしそうなら、「他力本願」みたいに、仏教用語が元で、意味は多少、かわりながらも、普通に使われるようになった言葉がたくさんあるんだなーと思いました。
三昧はsamaadhiの音から作られた言葉です。仏教用語にはそのようなものがたくさんあります。意味が変わってしまった言葉も、たしかにたくさんあって、そのような本も出ています(『日常語の中の仏教用語』のようなタイトルで)。三昧は密教では三摩地と訳されます。これも音から取られていますが、発音はこちらの方が近いでしょう。

五劫という時間、生きることができる人がいない(私だと四十八願の段階で、すでにあぶない)ことを考えると、仏は本当に人を救う気があるのかと思ってしまう。熱心に仏教を信じているわけではないが、仏にとって、人を救うというのは、どういうことなのだろうか(仕事?救いたいから?)。
ほんとうにそうですね。当時の人々にはリアルだったから、信仰され、受け継がれていったのでしょうが、われわれには、ほとんど現実的ではない状況で、「人を救う」と言われても信じられません。この場合は、これからのことではなく、すでに過去のことであるというもの重要でしょう。すでに法蔵菩薩が十分修行を積んでくれたからこそ、われわれの救いが保証されているという論理です。そのとき、修行期間は長ければ長いほど、より信頼がおけることになります。仏にとって「人を救う」のは、仕事というよりも、本能のようなものので、きっとDNAのレベルでそういうふうになっているのでしょう。それをありがたいと思うか、余計なお世話と思うかは、われわれの問題です。


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