浄土教美術の形成と展開

2007年10月15日の授業への質問・回答


浄土図は非常に立体的に描かれているというのが第一印象でした。熊谷直実といえば、平敦盛を討った人物ということくらいしか記憶していなかったのですが、そういえば、その後仏門に入ったのでしたか。こんな風に絵巻に描かれるほどの人物だとは思っていなかったので、少し驚きました。練供養の写真はちょっと笑ってしまいました。初めて見ました。一歩まちがうと仏さまに対して、失礼になってしまうような・・・。それくらいインパクトありました。
浄土図は日本の絵画の中ではめずらしく、きちんと遠近法にしたがって描かれた絵画です。もっともそれは、西洋で一般的な、消失点を持った遠近法ではなく、中央に垂直軸があり、そこに向かって平行線を引いた形式で、別名、魚の骨構図ともいわれます(これについては、同じ時間帯で前期にやった「仏教空間論」で取り上げました)。もともと、浄土図の形式は中央アジアやインドにその形式がさかのぼれますので、異国風とも言えます。熊谷直実は『平家物語』では平敦盛を討ったことから世をはかなんで出家したことになっているようですが、実際は、義父とのあいだの土地に絡んだ訴訟に負け、抗議のための出家らしいです。熊谷直実は法然上人とも交流があり、いろいろな逸話が残されています。『法然上人絵伝』でもくわしく取り上げられています。京都の清涼寺に伝わる迎接曼荼羅にも関連があり、そのときにも紹介する予定です。練供養は迎講とも呼ばれ、日本のあちこちで行われていたようで、いまでも奈良の當麻寺をはじめ、数か寺で残っています。わたしは、これはテーマパークのパレードのようなものだと思っています。荘厳な仏教の儀式と、エンターテインメントを兼ね備えたイヴェントの両方の要素を持っています。

末法では仏の教えだけが残り、修行も悟りもなくなるといいますが、修行も悟りもないとはどういうことですか。修行僧はいるのでは?修行は意味を失い、悟りは開かれないということでしょうか。法成寺はどんな形をしていたのですか。
修行をしているつもりの僧はいても、正しい修行ではないので、どれだけやっても悟りが得られないということでしょう。悟りを得るのはそんなに簡単なことではありません。現在よりも過去が優れた時代であるという考え方は、世界中にあります。おおむね、現在の状況が悲惨であるため、過去にユートピアを求めるのでしょう。インドの場合、よい時代と悪い時代は周期的に現れ、それに従って、人間の寿命や人間の大きさも変わります。たとえば、弥勒が現れる未来は、今よりもずっといい時代なので、人々は巨大化しています。そのため、釈迦の弟子の摩訶迦葉という人物が、それまで生きながらえて弥勒の出現を待っていたのですが、いざ、現れてみると、弥勒やその周りの人物は見上げるような巨人で、ガリバーと小人のようになっていたと言われます。「古き良き時代」とは逆に、進歩史観もありますが、日本でやインドを含め東洋ではあまり流行しませんでした。法成寺については以下のような研究があります。参照してください。
 冨島義幸・高橋康夫 1996 「法成寺の塔について」『佛教芸術』228: 50-69。

仏陀(釈迦)中心から阿弥陀中心の信仰へと変わってくるのは、現世利益中心への移行を示すのか、教義の理解を促進する便法としてとらえたのか、もっと違う大きな要因があったのでしょうか。
仏教の中心にいるのがどの仏かというのは、仏教にとって一番大きな問題でしょう。密教では大日如来が中心になりますし、浄土教はたしかに阿弥陀です。日蓮宗では『法華経』を重視するので、釈迦とも言えますが、むしろ名号が重要になります。また、『法華経』の仏は、歴史上の釈迦ではなく、久遠実成の仏と言って、永遠不滅の仏を想定しています。仏をどうとらえるかは、その仏教がどのような教義体系や救済論を持っているかに関わります。なお、阿弥陀中心の信仰というのは、必ずしも現世利益とも言えないでしょう。平安時代の仏教を考えた場合、密教や法華経信仰は、それを受容した貴族階級にとっては、きわめて現世利益的でした。阿弥陀の来迎や浄土への往生を願う方が、それよりも「来世志向」だったでしょう。また、平安後期から浄土教が流行し、鎌倉新仏教で法然や親鸞などの浄土教系の高僧が出現したことから、この時代の仏教は浄土教が席巻したかのように見えますが、実際は釈迦信仰ははるかに根強かったようです。釈迦信仰は単に釈迦ひとりへの信仰ではなく、文殊、弥勒、普賢など、釈迦不在の時代に釈迦に代わる仏が重要になります。

極楽のイメージのひとつは「木」だと知って、少し意外に感じた。いろいろな阿弥陀を見ると、あぐらをかいて坐っている阿弥陀の手が、さまざまな形で、それぞれどういった意味があるのか気になった。
極楽のイメージは水と木です。これは『観経』に説かれる十三観でも出てくるので、あらためて取り上げます。水があるところには植物が繁茂しますが、このイメージが現れたのが、中央アジアの砂漠であることは象徴的です。荒涼として水も木もないところだったからこそ、ユートピアのイメージになったのでしょう。日本や東南アジアではそうはなりません。とくに東南アジアでは、植物の生命力はむしろ人々にとっては脅威です。カンボジアのアンコールワットなどは、巨大な樹木によって、石でできた建造物が突き崩されています。自然は人々に安らぎをもたらすものではなく、文化を呑み込むような存在です。阿弥陀の手の印については、九品往生の時に説明します。九品往生が定着した後は、来迎印と言って、それぞれの往生にしたがって、決められた手の形を取ります。

今回、資料を見ていて、阿弥陀像の顔って怖いなぁと感じました。すごく感覚的なものですが。あまり関係のないことですが、仏の顔のイメージとヤクザの顔のイメージって似ていますね。眼や眉が細くて、わりと髪型も。本当に関係のないことですみません。
イメージというのは基本的に感覚的なものです。仏像の顔はたしかに怖いと思います。当時の人々にとってもそうだったでしょうし、そのようなものに接する機会が少ない分、われわれよりも強烈だったと思います(現在は出版物やテレビなどで、仏像のイメージなどはいくらでも眼にすることがあります)。だから、それよりも親しみやすそうな観音などに人気が集中したのでしょう。ヤクザと仏像が似ているかどうかはわかりませんが、頭を剃ったお坊さんとヤクザは、よく間違えられるそうです。とくにお坊さんが黒っぽい背広などを着ていると、ほとんど見分けが付きません。ちなみに、頭を剃るというのは個性を失うということです。受刑者や軍隊がその例です。勝手に自己主張されては困るところでは、個性を奪う必要があるのです。ヤクザの世界もそうですし、お坊さんもじつは同様です。好き勝手に修行をしたのでは、組織としての宗教は成り立ちません。もともと宗教というのは、世俗的な個性を放棄することからはじまるのです。

スライド3番の如来説法図について。上段右から二つ目の「考える像」はいわゆる「半跏思惟像」といわれるものでしょうか。半跏思惟像とすれば、かなりはじめの方のものですか(弥勒でしょうか)。
ポーズは半跏思惟ですが、弥勒ではないといわれています。半跏思惟のポーズはインド美術ではいろいろな場面で登場します。たとえば、降魔成道で釈迦を妨害しようとして、うまくいかずに悩むマーラが取ります。ガンダーラの半跏思惟像は、その図像的特徴から、弥勒ではなく、観音の可能性が高いと考えられています。弥勒が半跏思惟のポーズと結びついたのは、中国もしくは朝鮮半島で、これらの地域での弥勒に対する独自の信仰が背景にあります。詳しくは以下の文献所収の宮治先生の論文を参照してください。
 田村圓澄・黄壽永編 1985 『半跏思惟像の研究』吉川弘文館。


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