密教美術の世界
2006年7月12日の授業への質問・回答
あまり関係はないけれど、この前、他の授業でチベットに関する映画を見ました。ダライラマがいる僧院が出てくるんですが、砂マンダラらしきものが出てきて、とても美しいと思いました。あれを作るのには、相当な努力と繊細な技術がいることを実感しました。しかし、それを中国の軍部の高官たちが踏みつけていました。それを見て、悲しく感じるとともに、憤りを感じました。僧たちが歓迎のしるしとして心を込めて作ったマンダラには、命のようなものが吹き込まれていそうなほどで、大事なものなのに、それを踏みつけることは、たいへんな侮辱だと思いました。壊すべくして壊したものではないから、僧にとってはプライドがすごく傷つけられたんじゃないかなと思った。
『セブンイヤーズ・インチベット』の冒頭のシーンですね。私は見ていないのですが、砂マンダラを授業で取り上げると、よく、この映画のことをコメントで紹介してくれます。チベットというと、辺境の地で文化果つるところというイメージが強いのですが、仏教に関しては、飛び抜けて高いレベルを持っていました。インドの仏教のもっともオーソドックスなところが、そのまま伝わっています。それにくらべれば、中国や日本の仏教はひどくかたよったものです。授業のはじめの頃にやったクイズでも紹介しましたが、インドの仏教文献をもっとも大量に翻訳したのもチベットでした。しかし、現在のチベットにはその伝統がほとんど失われています。1959年以降、中国がチベットに侵攻し、多くの文化財が破壊され、僧侶たちも殺されました。文化大革命の時期にも、さらに徹底した破壊と殺戮が行われました。チベットでの人権抑圧は、現在でも顕著で、欧米では中国といえば人権問題とつねに結びつけられて語られます。日本ではチベットにおけるこのような人権問題が、マスコミなどで大きく取り上げられることはほとんどありません。ダライラマが国賓として招かれることもあり得ません。中国との関係に波風を立てたくないのでしょう。欧米ではチベット仏教は「生きた仏教」であり、多くの信奉者を集めています。有名なところでは、俳優のリチャード・ギアも熱心なチベット仏教徒で、しばしばダライラマをアメリカに招いています。アメリカで『セブンイヤーズ・インチベット』のような映画が作られるのも、このような背景があるようです。
ヒンドゥー教は民間信仰から生まれただけあって、本当にたくさんの神がいるなぁと思いました。仏教の神々と共通するものが多いとわかりました。シヴァが生首を首にぶら下げていましたが、それは何のためですか。ちょっと怖いですね。どこの国の宗教にも、死を司る神がいました。死は恐ろしいものではありますが、当時の人々は、その神を信仰することで、うまく死とつきあっていたのだなと思いました。
ヒンドゥー教が民間信仰の要素を多く含んでいるのはたしかですが、それだけではありません。むしろ、オーソドックスなヴェーダの宗教を母胎に、民間信仰を含むさまざまな要素を取り入れることで、裾野を広げた宗教です。シヴァが首に懸ける生首の環が気になるというコメントが何人か見られました。シヴァは基本が「畏怖すべき神」で、死や破壊と密接に結びついてます。その一方で、好色で、妻のパールヴァティーとの愛が語られる神話も多くあります。私が好んで用いる「生と死が同居する」神の典型です。生首の他にも腰巻きとして、何十本もの腕を連ねて腰にぶら下げて描かれることもあります。シヴァの体の色が青黒いのは、もともとアーリア人の神ではなく、インド土着の神がその起源であったことを示しています。ヴィシュヌの化身のクリシュナも、体の色が黒く、同様に言われます。死と信仰はそのとおりで、人間に死がある限り、宗教は永遠に存在します。文明の発達や科学技術の進歩などで、宗教などは無くなると考える人もいるかもしれませんが、そんなことは絶対にありえないのです。人生は不合理なもので満ちあふれています。死はその最たるものです。
「密教美術の世界 俯瞰図」は、項目が多くとても複雑に見える。世界とは何か。仏たちの世界、須弥山世界観、世界と自己は、全部「世界」でくくれないのですか。ガネーシャは四臂で4つのシンボルをそれぞれ持っていますが、それぞれ何を表現しているのですか。
俯瞰図は授業でとりあげた項目やキーワードを、ある程度まとまりを持たせながらならべたものです。抜けているものもあると思いますし、別のつなげ方もあるはずです。皆さん自身でも、試みてください。「世界とは何か」以下のものを「世界」でくくっても、もちろんいいでしょう。このあたりのことをまとめて「世界とは何か」でとらえられるでしょう。そして、その対極に「私とは何か」という問いがあります。世界を問うことは、自己を問うことでもあります。そして、自己とは何かという問いは、「人間とは何か」と問うことです。前回の授業のまとめで強調したのも、そのようなことです。ガネーシャの持物は、前回のスライドでは斧、蓮華、数珠、鉤でした。一般にはモーダカという菓子を持つことが多いです。日本の聖天では大根を持つものをよく見ます。それぞの持物の意味はよくわかりません。
作って維持して壊す、また作って維持して壊す。この繰り返しには終わりってあるのですか?もしあるとしたら、どうなった時にですか。ないとしたら、完成はしないってことですか。
終わりはないのでしょう。それは「完成しない」ということではなく、それですでに完成しているのです。世界がこのようなサイクルを持つことの意味や目的は、宗派や立場でいろいろですが、有名なものでは「遊び」(l?l?)というものがあります。世界の創造や破壊は、神の「遊戯」なのです。子どもが積み木で町や建物を造り、それを壊すようなものでしょう。われわれにとっては、ひどく迷惑な遊びです。日本人にはおよそ思いつかない「目的」ではないでしょうか。
今までの授業すべてが、まさにマンダラについて学んだことで、集約された。仏教の目的は悟りを開くことで、それにより、宇宙と根源から一体となること。マンダラとはそのイメージを持たせるための儀礼的アイテムとして用いられていると思う。さまざまな尊格のイメージをスライドで見たが、家族や仲間を持つものが多いことに気付いた。これは、ひとつの有力な尊格の偉大なイメージを、他の尊格へと拡大させることにねらいがあるように思えた。また、人間にとって、もっとも不思議で理解しにくい生と死についてのイメージが、多くの尊格に宿っている。これは、こうした難解なことを尊格によって説明づけることで、人々の信仰を集めるといった考えからだろうか。しかし、インドは複雑だ・・・。
いずれのコメントも、もっともだと思います。マンダラがまとめになっているというのもそのとおりです。逆に言えば、マンダラを理解するためには、少なくとも、これだけのことを知っていなければならないということです。ヒンドゥー教の有力な神が、他の神々にイメージを拡大させるというのは、ローカルな神にとっては、有力な神と結びつくことで、汎インド的な神々の体系に、つながりを持つことでもあります。人類学者や歴史学者は、このようなインドのメカニズムを「大伝統と小伝統」と呼ぶことがあります。地域ごとの小さな伝統が、全国規模の大きな伝統と結びつく現象が、神々のイメージや体系の他にもいろいろ見られます。
やっと、教科書の内容が出てきた授業になりましたね。最後の神や仏どうしのつながりは、あまりにも複雑で、どうしてもこんがらがってしまいますね。すべてがつながって、全体を眺めたときに見えるものが、とてもおもしろいと思います。
これまでの授業の内容が、教科書と対応していなくて、不思議に思っていた人も多いでしょう。じつは、マンダラについてもそうですが、授業でこれまで取り上げたことを前提にして、教科書を読むと、さらに内容がよく理解できるはずです。ここから教科書の内容がはじまるのです。それとともに、授業でとりあげた内容は、私の別の著作『マンダラの密教儀礼』にも含まれています。さらに、近著『生と死からはじめるマンダラ入門』も、多くの部分が重なっています。1冊の教科書で半期の授業ですが、その内容は、通常の授業の3つ分ぐらい、盛りだくさんなのです(と、私は思っています)。
今日の授業のように、広い範囲のさまざまな神のイメージを見ていると、それぞれのイメージの拡大や伝わりや変化に興味は尽きないが、しかし、伝わっていく地域に、その神々のイメージを受け入れる元のイメージがあるように思う。類似したイメージが多くの地域に見られることは、住んでいる環境に影響を受けない、人類共通の感覚、感性があったりするのでしょうか。
私もイメージの伝播と変容に、昔から興味があったので、そのようなことをよく考えていました。アジアでは仏教のイメージの伝播が、そのような格好の例となります。教科書の『インド密教の仏たち』や『仏のイメージを読む』もそのような視点から書いたものです。イメージが伝播する地域に、すでに類似のイメージが存在することもありますが、当然、存在しない場合もあります。存在しない場合であっても、イメージが伝播することもあります。イメージが伝播するときに、意図的にイメージが改変されることもあります。異なる文化圏をイメージが伝播するときには、さまざまなパターンがあるのです。その一方で、人類普遍的なイメージがあることも事実です。ユングやエリアーデなどは、このようなイメージを「元型」と呼んだり、「聖なるもの」と呼んだりします。そのようなものを研究するのもおもしろいのですが、ユングやエリアーデぐらいの巨人でなければ、陳腐な研究で終わってしまうおそれもあります。なかなか難しいところです。
ヒンドゥー教の神々のイメージは、密教の仏に比べて、少しグロテスクな印象を受けました。よく言えば「生き生きしている」のかもしれませんが。「形式化」する前の仏たちの躍動を感じました。
たしかにそうだと思います。それと同時に、「生き生きしているもの」がグロテスクで気持ち悪いという指摘もおもしろいです。人形などでもそうですが、あまりにリアルな表現は、見る人に美しさや精妙さを感じさせるよりも、気味悪さを感じさせるようです。ろう人形もそうですね。人間が美を感じるのは、本物そっくりのリアルなものよりも、何らかの形式にしたがって変形したもので、その形式を通して、美しいと思うのかもしれません。以前の授業では、形式性と写実性を対比させ、宗教美術は形式性に重点が置かれると言いましたが、それにグロテスクさや気味の悪さを加えると、さらにおもしろい視点が可能になりそうです。ヒンドゥー教が一般に「生き生きしている」のは、インドのお寺や遺跡に行けば実感できます。エローラ石窟のように、ヒンドゥー教と仏教の両方の石窟があるところに行くと、圧倒的にヒンドゥー教の方が見応えがあり、おもしろいです。私のHPでもヒンドゥー教の寺院の写真をたくさん公開していますので、ゆっくり見てください。グロテスクなものもときどきあります。
シヴァの首飾りが生首というイメージは、どこから生まれてきたのだろうと思うほど、ぴったりだと感じました。また、時間、黒、死を同じ感覚で使っていることを知り、時間と死の関係について考えさせられました。今日の授業で、聖なる範囲は、一時的なものであるからこそ、聖なるものであり、マンダラをこわすというのは大切なことだと思った。人間も花もマンダラも、いずれはなくなってしまうからこそ美しいんだなと思いました。
聖なるものは一時的ではかないものというのは、授業で強調したことです。それとともに、マンダラの場合は、とくに儀礼の場や装置であることが重要です。単に世のはかなさや無常を示すのではなく、われわれの日常的な空間に、神々の領域をむりやり出現させたのがマンダラで、それは儀礼があるから準備されるのです。聖なる領域が永遠に存在するのは、われわれが日常生活を送るうえでは不都合です(そんなものがまわりにあったら、落ち着いて生活できません)。それに、聖なる領域を作ることも儀礼の一部であるからには、聖なる領域が存在しない状態に戻しておかないと、儀礼がはじめられません。はかなさや無常観から美を感じるのは日本人にとっては普通なのですが、インドでマンダラや神々の像を造った人たちは、それとは違うレベルで、聖なるものを意識していたような気がします。
今日の内容とは関係ないですが、この授業のたびに、仏像の実物を見に行きたくなります。
ぜひ、見に行ってください。金沢では石川県立歴史博物館で、7月21日から「白山ーー聖地へのまなざし」という特別展があります。白峰村にある白山下山仏の十一面観音立像(金銅仏)や、白山ひめ神社の白山三社権現像がチラシには載っていました。白山は北陸の重要な信仰の拠点ですが、地元ならではのなかなか充実した展覧会のようです。そのほか、東京国立博物館は「仏像の道」、京都国立博物館は「大覚寺の美術」、奈良国立博物館は「院政期の美術」がこの夏の特別展です。帰省などで近くに行ったら、のぞいてみてください。どこも仏教美術を取り上げるようです。ブームなのですね。
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