密教美術の世界

2006年7月5日の授業への質問・回答



やはり灌頂についてがよくわかりませんでした。人間がほんとうの仏になるとはどういうことですか。逆に灌頂さえすれば、誰でも仏になれるということですか。
 前回の授業への皆さんの多くの感想が、「よくわからない」でした。その中の代表的なものをあげました。今回もはじめに少し補うつもりですが、そのためのまとめとして少し説明しておきます。
 仏教というのは、仏の教えであると同時に、仏になるための教えでもあります。キリスト教やユダヤ教で、神になるとは言いませんが、仏教の場合、究極の目標はすべてのものの解脱です。解脱するというのは仏になるということです。灌頂とは密教のもっとも重要な儀式で、密教の基本的な修行を終えた弟子が、師(阿闍梨といいます)から受けるものです。そのため、入門儀礼とか、資格授与の儀礼と説明されることがありますが、実質的には「仏になる儀礼」なのです。つまり、仏教の目標を実現することになります。ただし、ほんとうに仏になってしまったのでは、そのあとの修行や人々に仏教を伝えることができません。そこで、実際の仏になる一歩手前でとどめます。「仏になることを確実にする儀礼」なのです。その構図は、現国王が次期国王を決定する立太子の式に一致します。つまり、現国王が阿闍梨で、次期国王が弟子です。また、そのモデルとして釈迦がいます。釈迦自身が皇太子でしたし、釈迦が悟りを開いて、法を説くことと、王が国を支配することに重ね合わされることは、これまでも繰り返し述べてきたことです。
 灌頂の儀式の主要な部分は、仏の智慧を象徴する水を弟子にそそぐ、マンダラを弟子に見せる、弟子の目を開く、仏が法を説くことを弟子に演じさせるなどです。智慧が注がれることによって、弟子は仏になり、自分を中心に置いたマンダラを目の当たりにします。そのためにマンダラはすでに弟子の目の前に準備されているのです。そして、仏になった自覚(正確には、仏になりうるという自覚)を得た弟子は、実際に仏のすべきこと、すなわち説法を儀礼的に行います。マンダラを作る儀礼の中で、釈迦の降魔成道のモチーフが現れたことも、これに関係します。マンダラを作って儀礼を行うことは、釈迦が降魔と成道のあと、説法をすることがモデルになるからです。
 どうして、家が問題になるのかも、よくわからないという意見も多かったです。前から問題にしているように、宇宙とか仏の世界というのは、表現不可能です。しかし、それを人間は何らかの形で表します。仏塔はその代表でした。宇宙を表すためにしばしば用いられたのが「家」です。たとえば、キリスト教では教会は「神の家」とも呼ばれます。地上に出現した「神の世界」が教会です。インドのヒンドゥー教の寺院も同様です。われわれの家であっても、それは少なからず意識されていて、家を建てるためにさまざまな手続きを行うことや、家を建てるときに方角や部屋の配置が、科学的にではなく、宗教的な理由で決められることがあげられます。そのため、建築儀礼にはしばしば「宇宙の創造」を模したプロセスがあらわれるのです(釈迦の降魔成道も、それまでの混沌の世界に、仏が出現するという、仏教版の創世記です)。それと同時に、仏教のコスモロジーでは、世界の中心に須弥山があり、それを真上から見たのがマンダラで、須弥山頂の帝釈天の王宮がそのモデルになっています。帝釈天とは、神々の「王」であり、その主人が帝釈天から仏に変わっているのですが、ここでも「王と仏のイメージの重ね合わせ」が読み取れます。
 家についての別の説明としては、人は何かに包まれたとき、それを「全体」と感じるのではないでしょうか。そのもっとも原始的な感覚は、母親の胎内にいたときに植え付けられたのかもしれません。母胎回帰本能です。灌頂儀礼が仏として「生まれ変わる」時に、家に入るのは、灌頂が再生儀礼でもあるからなのです。

マンダラが弟子に仏をおろす儀礼の道具なのだと聞き、とても驚いた。今回、疑問に思ったことは、弟子がマンダラの中央に描かれた仏になるということは、一枚のマンダラはひとりにしか使えないということですか。また、はじめのマンダラばかりのスライドで、まわりの仏たちが、中央の仏をむいてないものもあったのですが、そのマンダラは儀礼用でないということですか。
すべてのマンダラが儀礼の道具というわけではありませんが、インドやチベットの砂マンダラや、日本の敷曼荼羅はそうです。チベットの場合、前回のはじめにお見せしたように、絵画形式のマンダラや、壁画のマンダラがあります。その多くは礼拝や、寺院内の装飾のためのマンダラですが、マンダラが「仏の世界」であるということは、儀礼の文脈でとらえるのがもっとも妥当だと思います。絵画や壁画のマンダラの場合、まわりの仏が中央にむかず、すべて同じ方向を向いているものもあります。歴史的には、その方が古いという研究者もいますし、ラダックのような古い時代のマンダラにあらわれるので、おそらくそうなのでしょう。しかし、水平の地面の上の砂マンダラや敷曼荼羅に見られる表現に、マンダラが儀礼の装置として用いられるための工夫が見て取れると思います。このほか、マンダラの機能としては、密教の僧侶が仏の瞑想をするときのイメージとして用いられたり、日本密教では修法(しゅほう)と呼ばれるさまざまな儀礼の本尊として用いられたりします。しかし、いずれの場合も、それが仏の世界の模式図で、そこに仏を呼び寄せる(降臨させる)ための役割を果たします。一種の「よりしろ」のようなものなのです。その点で、灌頂での機能と何ら違いはありません。なお、灌頂は多くの場合、複数の弟子が順番に受けます。そして、全体が終了すると、インドやチベットではマンダラ(砂マンダラ)は完全に壊してしまいます。

チベットのマンダラに描かれる仏は「女性」の姿が強調されていた。女性=生命=仏というイメージがあるのだろうか。また、マンダラのスライドの三角形(注:胎蔵曼荼羅の遍智院の中央の一切如来智印)というシンボルは何を表したものですか。
マンダラに描かれる女性の仏が、「女性であること」を強調して描かれているのは、インドやチベットの女性のイメージが、われわれのそれとは異なるからでしょう。それは、中国や日本の理想的な女性像にくらべて、より官能的に表されます。乳房や臀部を強調したり、逆に、ウェストを極端なまでにくびれさせます。女性=生命=仏というイメージは、私の授業ではしばしば強調してきた「公式」ですが、マンダラの個々の仏には当てはまらないでしょう。むしろ、宇宙全体がハスでイメージされていることで、それはまとめて表していると思います。胎蔵曼荼羅の三角形は一切如来智印と呼ばれ、その名の通り、すべての如来の智のシンボルです。チベットの伝統では、あらゆるものを生み出す源とも言われています。チベットの胎蔵マンダラでは、天地が逆で、逆三角形になっています。

王が王子に王権を継承するときには、マンダラに当たるものはあったんですか。
インドの国王即位儀礼や立太子の儀式には、マンダラはありませんでした。それとは別のさまざまな道具で、王権の正統性や、王としての資格の授与を、儀式の中で演出しました。そのほとんどは、密教の灌頂と共通しないものですが、唯一、共通なのは、灌頂という名称そのものである、王への灌水です。密教の入門的な本には、ほとんどすべて「灌頂の起源は古代インドの国王即位儀礼」と書いてあります。しかし、実際のヴェーダ文献などを見ても、密教の灌頂のモデルとなるような即位儀礼はまったく見つかりません(通説というのは、このようにいい加減なものです)。そのため、私は国王即位儀礼は密教の灌頂の「理念的なモデル」であっても、その具体的な起源ではないといっています。むしろ、密教の灌頂に近い儀礼は、仏教でもヒンドゥー教でも行っていた「仏像(神像)の完成式」です。

「マンダラを壊す」ということが気になります。宇宙を破壊するということですね。前に聞いた世界の終わりということですか。
「マンダラを壊す」ことを日本密教では「破壇」と言いますが、日本では敷曼荼羅をくるくる巻いておしまいです。それに対して、チベットでは砂マンダラを完全に壊して、その砂は川に流してしまいます。このことは、インドの文献でも確認できるので、インドですでに行われていました。「宇宙を壊す」ことですが、それは地上に出現した仮の「仏の世界」を壊すことです(コスモロジーの世界の終わりとは異なります)。これは、マンダラ制作儀礼とセットになります。わざわざマンダラを作る儀礼が定められていることを説明しましたが、マンダラを作るということは、このわれわれの世界(俗なる世界)に、仏たちの「聖なる世界」を出現させることです。そこでは、われわれの現実の世界はいわば「虚構の世界」で、仏たちの世界こそが「真実の世界」になります。逆に思うかもしれませんが、宗教とか儀礼というのは、そういうものなのです。しかし、儀礼が終われば、われわれは日常の現実の世界に戻らなければなりません。そこに、まったくレベルの異なる「真実の世界」がいつまでもあっては困ります。それに、つぎにマンダラを作るときに、あたらしく「世界の創造」ができなくなります。おそらく「なんてムダなことを」と思うでしょうが、それだからこそ、儀礼であり、宗教なのです。

仏像に目を入れるのは、魂を入れるためというお話でしたが、願い事が叶ったときに、ダルマに目玉を描き入れるのはなぜですか。弟子が灌頂の儀式を受けた瞬間、家の主となり、中心にいるということを自覚しなければいけないという説明があったが、その場で、弟子は今までの世界と違うものが見えるのだろうなぁと思った。輪宝、法螺貝など、儀礼後にまた儀式みたいなものがあるのがおもしろかった。
仏像の開眼供養や灌頂では、目を入れると言うよりも、目を開かせるという儀式です。でも、東大寺の大仏の開眼供養は、大きな筆で目を描くという作法をしたともいうので、目玉を描くようなイメージがあったかもしれません。選挙などでダルマに目を描くのが、いつ頃からはじまったのかはわかりませんが、どこか、共通するところはあるような気がします。目玉が入るということは、そのダルマが、突然リアルな存在になるようです。それまでのダルマが単なる丸い物体であったのが、生気が通った存在になるのでしょう。灌頂での弟子の体験は、おそらく、コメントにあるとおりでしょう。もちろん、そのような感動や衝撃を受けない人もいるでしょうが、それも儀式なのですから、当然でしょう。儀礼とか儀式というのはそういうものです。輪宝やほら貝を与える部分も、灌頂の儀式の一部です。灌頂とは弟子への灌水を中心とした長大な儀礼の総合的な名称としても用いられます。中心の儀礼の名称が、全体を指しているのです。

家を建てるところに種を植えたら、家ができるという発想がとてもおもしろいと思いました。しかし、宝石も埋めることがあると聞き、もったいないなぁと感じました。マンダラの儀礼のことですが、仏をひっぱってきて、人に入れたり、マンダラを見て「私の家がここにある」と感じるのは、正直、無理があるのではないかと思いました。本当に弟子は思っているのでしょうか。私には信じられないなぁと感じました。
家を建てる前の地面に、五種の穀物(五穀)、五種の宝、五種の薬草を埋めるというのは、インドの建築儀礼で古くから行われたようで、その影響を受けた東南アジアや、中国、日本でも行われました。今でも、古い寺院の発掘を行うと、このような出土品があるそうです。授業では大地の女神への受胎という説明をしましたが、これも一種の宇宙創造です。五種のこれらのもので、世界の構成物を象徴させ、それを基礎に置くことで、建造物に宇宙的なイメージを与えたのです。ヒンドゥー教の建築儀礼では、地面に深い穴を掘って、ナーガや亀の置物を埋めることもあるそうです。世界全体を支えるナーガや亀なのです。「仏を引っぱってきて、人に入れる」のが「ウソっぽい」と感じるのはもちろんわかりますが、密教の儀礼というのは、多くの場合、それが実際に行われます。儀礼の場に仏を招き、その仏とコミュニケーションをしたり、さらには、自分自身がその仏と同一であるという体験を行います(入我我入[にゅうががにゅう]といいます)。平安時代の密教の加持祈祷というのを、日本史や平安時代の文学で知っているかもしれませんが、そのほとんどが、密教の僧による、このような「仏との協同作業」なのです。そのための「よりしろ」がマンダラです。

儀礼の時の結界で、仏をコントロールすると言っていましたが、仏はコントロールされる存在であってよいのでしょうか。釈迦(太子)が仏(現国王)になるとき、水によって仏になる(新しい仏を生み出す)と言っていましたが、私たちは、普段何気なく水を飲んでいますし、生活においてなくてはならないものです。当時の人たちは、水を聖なるものとしてみていたのですか。もしそうなら、どのようにあつかっていたのでしょう。簡単にはあつかえないですよね。
はじめの質問への回答は、上記の通りです。水については、インドの古くからの「水への信仰」といったものが重要です。水をわれわれは単なる物質と思っていますが、インドでは「命ある水」と「物質の水」という2種がありました。これは、インド=ヨーロッパの言語で広く見られるそうで、水を神聖視するのはインドに限らないようです。宗教儀礼で用いられる水というのも単なる物質ではなく、この「命ある水」言い換えれば「聖なる水」です。キリスト教にも洗礼という水を用いた儀礼がありますよね(洗礼に言及してくれたコメントも数人いました)。もちろん「命ある水」が、われわれの知っている「物質としての水」と別に存在するわけではありませんが、宗教的な場面では、水がそのようなものに「変質」するのです。その方法は、やはり儀礼の中で、何らかのプロセスを経ることで行われます。たとえば、灌頂儀礼では灌頂瓶の中に入れた水に、対応する仏を溶け込ませるというプロセスがあります。日本でも東大寺二月堂の「お水取り」という、水を中心とした儀式がありますが、そこでも水は特別な存在です。ついでに言えば、インド=ヨーロッパ語族で、水と並んで、「命のあるもの」と「命のないもの」の2種があるのは火です。火も水も特別な物質(生き物?)なのです。

人は目隠しをすると恐怖心が増すと聞いた。儀式で目を隠すのは、周りが見えていない状態で、音声だけ聞こえる中で、感情が高ぶり、その過程の中で、意識して開眼したときに、世界が変わって見える・・・とか?
そうなのでしょう。目隠しについては授業では説明しませんでしたが、灌頂の儀式のはじめから、弟子は目隠しをされていて、儀式の半ばで取り外されます。そのときに弟子の目の前にはマンダラが広がっています。おそらくそれは、もっとも効果的な「仏の世界との出会い」なのでしょう。このときに、阿闍梨はマンダラについて弟子に説明をします。そして、順次、灌水、開眼、法輪やほら貝の授与などが進んでいきます。次第に仏としての自覚が備わっていくのでしょう。


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