密教美術の世界
2006年6月28日の授業への質問・回答
最初の20分の説明で、前の授業が少しわかったような気がします。マンダラが宇宙で包まれていると知り、今までの話がつながっているのだとわかりました。ハスも出てくるのですね。マンダラと子どもの絵が似ているというのに、びっくりしたけれど、今日の話を聞いて納得しました。マンダラを描いた人は、いろんなことを計算して描いているのだとわかった。仏塔を上から見た図と、マンダラがつながっていて驚きました。
少しでも「わかった」という感覚を持っていただけるとうれしいです。はじめのガイダンスでもお話ししましたが、わからなかったことが「わかった」と感じることが、この授業のめざすところです。もともと、密教もマンダラも、そして仏教そのものも、難しいとか、よくわからないというのが社会の通説となっていますが、実際はとてもよくできていて、知的に楽しめます。とくに、マンダラはこれまでの授業の内容と密接に関わっています。マンダラについての説明が終わったところで、全体をふりかえりますが、じつは、配付資料の表紙の裏に、すでにその図式は示してあります。先取りして、見ておいてもらってもいいでしょう。マンダラを子どもの絵から理解するというのは、私がこれまでに本や講演会などでよく用いた方法です。意外なつながりに、見る人はたいてい驚きます。ただし、オリジナルのアイディアは私自身のものではなく、チベットのマンダラを専門とする別の先生がおっしゃったことです。10年以上前になりますが、雑談の中でその先生が「子どもの絵の表現方法が理論化されていたら、それがマンダラの説明でも使えるかもしれません」と、おっしゃったのです。ためしに調べてみたら、レントゲン描法とか展開描法とかが、まさにぴったりでした。
スライドでチベットのマンダラを見て、外側の大きな円が、宇宙を表しているのだといわれましたが、どうして「宇宙」を表現する形を円にしたのでしょうか?宇宙に限りはなく(限りがないということが、どうしてわかるのかも疑問です)、当然、形だってわからないのに、なぜ、円で宇宙を表すことにしたのでしょうか。
私も、まさにその点をこのあいだから問題にしています。宇宙を何かで表現するというのは不可能です。全体を部分で表すことなど、絶対できないからです。私たちのイメージする「星がまたたく宇宙空間」も、部分でしかないことは、前から強調していることです。しかし、それが「現代の宇宙のイメージ」であることは、現代が科学技術の発達によって、そのようなはるか彼方の星の集まりを見ることができるということを、背景に持っています。べつに宇宙の部分であるならば、地球だってそうですし、私たちだって「部分」であることにはかわりはありません。つまり、表すことが不可能な「全体」を、どのように表現するかで、その文化がいかなる特徴を持っているかがわかるのです(さしずめ、現代であれば、科学に対する楽観的な信頼とかでしょう)。マンダラが「宇宙」とか「仏の世界」と定義されるのは、マンダラが本当にそれらを表していると考えるよりも、マンダラに見られる表現方法から、当時の人々が「宇宙」や「仏の世界」をどのようにとらえているかがわかるのです。むしろ、マンダラは「なぜ、そのように表されなければならなかったのか」と考えるべきなのです。宇宙を円で表す理由は、自由に考えてみてください。私もときどき、「これが宇宙だとします」といいながら、黒板に大きな丸を描きます。正方形や星形でもいいのですが、円が一番楽ですし、それらしい気がします。
マンダラの表現の仕方と、子どもの絵の表現に近しいものがあるということ、中心にいる仏、または子どもから見えるように描かれという話は納得したけれど、そのときは少し素朴すぎる気がした。しかし、ボッティチェルリやピカソの話から、画家が自分のイメージ、描きたいものを描くというのを聞いて、絵の表現に上手、下手はあっても、上等、下等はないんだなぁと感じた。むしろ、古代の絵画にはさまざまな視点をもって描かれたものが多いことを考えると、マンダラの表現は自然なものだろう。
有名の西洋の絵画を紹介するのは、絵は画家が見たものをありのままに描いたものではなく、画家が表現したいものを、さまざまな仕掛けやトリックを使って、しかもそれがわざとらしくないように描いたものであることを紹介するためです。その意味で、「何を描く」ということと同じくらい、「どのように描く」かが重要になります。それが画家による「世界」のとらえ方になるからです。それと、私たちの描く絵が、ほとんど線遠近法によって支配されていることも、じつは特殊であることも知っていただきたいと思います。人類の絵画の歴史の中で、厳密な線遠近法が支配的であった時代は、じつはとても短いのです。ルネッサンスの終わりにはすでにくずれはじめています。
「マンダラとは仏教的な宇宙を表しているものである」今まで漠然と「あぁ、そうなんだ」と思っていましたが、先生の月の石の話で、無理して理解しようとしなくていいとわかりすっきりしました。話が変わりますが、マンダラの絵柄がどぎつい極彩色で、見ていて目がちかちかします。そうした表現の方が、仏のありがたさを強調できるからそう描いているのでしょうか。あ、あと、マンダラが「内からの視点」で描かれているという話も新鮮でした。
そうです。無理して理解する必要はまったくありません。私はへそ曲がりなので、ひとが「これが宇宙です」と言うと、つい「どうして、そんなものが宇宙であるはずがあるのか」と反論したくなります。学問をしている人は、へそ曲がりの人が多いでしょうね。マンダラが極彩色で描かれいるのは、そのとおりで、とくにチベットのマンダラは、日本人にとってかなりきつい配色に見えます。しかし、中国から日本に伝わった当初は、まさにこのような「どぎつい」色のマンダラだったはずです(もちろん、若干、チベットのものとは違いますが)。それが、当時の日本人にとって、圧倒的な迫力を持っていたことも容易に想像がつきます。空海がもたらしたマンダラは、一辺が4メートル以上もある巨大なものだったのですから、その迫力も相当なものです。インドの文献では、砂マンダラを作るときの素材として、ルビーやラピスラズリなどの宝石をあげるものもあります。キラキラするのがマンダラの理想でもあったようです。
マンダラの内部の枠が宮殿を表しているところが、「仏=支配者」といった、仏の王者的イメージを、見る人に与えているように思えました。マンダラは透視図、複数の視点での画であることに気付いたとき、なぜ先生が先に子どもの描いた絵を見せたのかがわかりました。難解そうなマンダラの図が、じつは子どもの絵にヒントがあるということ、驚きです。
仏と王とのイメージの重ね合わせとか、仏法という真理によって、世界が支配されるという、これまでの授業で取り上げてきた考え方が、マンダラを理解するときに有効であることが、今回の授業でも繰り返されます。そこに儀礼の要素が加わることで、マンダラの表現方法の意味が、さらに明らかになるからです。そのような意味で、マンダラとは芸術作品ではなく、儀礼の装置なのです。子どもの絵をマンダラの説明で見せるのは、上にも書いたように、意外な共通点があって効果的なのですが、それとともに、講演会などでは、子どもを取り上げると、雰囲気が和むからでもあります。コマーシャルや広告の定番で、ネタに困ったら、子どもか動物を出すというのがあります。テレビドラマでも、子役がうまいと番組が生き生きとします。
マンダラにもいろいろ種類があり、それは子どもや西洋の画家にも見られるように、・描きたいものを描く、・描きたいものをめだたせて描く、といったようなところに共通点があることがわかった。何人もの人が、自分の理想の宇宙というか、自分が考えた宇宙を描いたから、種類や形がこんなに多いのかなぁと思った。見やすいように、本来、見えないようなところでも、目線をその場所だけ変えて描くことで、見せたいものは、すべて見えるようにする描き方は、頭がいいと思った。一枚にすべて見せたいものを凝縮できますものね。「マンダラは設計図」というのにしたがって、宇宙図(マンダラ)を立体にすると、マンダラの良さがほとんど失われて、マンダラらしくなくなるというのはおもしろかった。
マンダラの種類は本当に多く、インドやチベットの伝統では、何十、何百というマンダラがあらわれます。チベットのお寺に行くと、壁や天井にこのような多様なマンダラが描かれていることがあり、驚かされます。これらのマンダラの系統を調べるのも、マンダラ研究の重要な点ですが、授業ではそこまでは立ち入りません。関心がある人は、文学部での私の授業に出てください。3年に1度程度、マンダラだけを取り上げて、1年間講義します。日本ではマンダラは金剛界と胎蔵界に限定されるのですが、それ以外にも、別尊曼荼羅、神道曼荼羅、浄土経曼荼羅、参詣曼荼羅などのジャンルがあらわれます。それぞれに何種類もマンダラがありますが、それはインドやチベットの多様なマンダラとは一致しません。日本では密教以外の宗教でもマンダラを名前に付けた作品があらわれますが、インドやチベットでは密教のものだけです。このようなマンダラの展開に見られるそれぞれの文化の違いも、私の研究テーマのひとつで、上記の学部の授業でも取り上げます。
仏教の最終目標が仏になることだとしたら、仏の世界を中から見るのは、仏にならないと見れないから、曼荼羅が悟りの境地であるとするのも納得です。仏の世界は物質がないとこの前、習いましたが、曼荼羅の中には宮殿が描かれているものもあるんですね。ハスに座ってる仏ばかり見てきたので、豪華なチベットのマンダラは変な感じです。チベットの作品は他のものと違いますね。
仏になることと、マンダラで視点が中央の仏にあることは、まさに密接に関係して、今回の授業の中心テーマとなります。仏になる儀礼のための装置がマンダラだからです。仏の世界には物質がないというのは少し適切ではなく、われわれの輪廻する世界には、物質がある世界(欲界、色界)と物質を超越した世界(無色界)があり、仏の世界はそれらとはまったく別のレベルの世界であるということです(補注・ただし、これはアビダルマという部派仏教の考え方で、大乗仏教や密教では少しことなります)。そのため、仏の世界はわれわれの眼に見えるようなものではないのですが、それを仮にマンダラの形で表しているのです。「宇宙は表現できず、便宜的な形態で表される」というのと同じです。そのときに、宮殿やハスの花を使うことの意味を考える必要があります。マンダラは全体がハスの花でできていますが、よく見ると、じつはそれぞれの仏も、ハスの花に乗っています。これは、舎衛城神変で、巨大なハスの花に乗った釈迦のまわりに無数のハスがあらわれ、そのひとつひとつに仏が乗っていたイメージと共通です。
以前、曼荼羅は僧が目隠しをして、両手の人差し指ではさんだハスの花を落とし、落ちた場所に描かれている仏が、自分の守護仏になるという話を聞いたことがあるのですが、今日の授業を聞いていると、曼荼羅の役割が仏の世界を描いたものであって、儀式用の道具として作られているわけではないと感じましたが、そのような使われ方をする曼荼羅もあるのでしょうか。
目隠しをして花を投げるというのは「投華得仏」といって、灌頂という儀礼の一部です。今回の授業で灌頂も、この投華得仏も取り上げます。マンダラが仏の世界を表していることと、マンダラを前にして、僧が灌頂を受けることは、密接な関係があります。すべてのマンダラが灌頂のためであるということではないのですが、灌頂をおこなうためには、マンダラが必ず必要です。
題が「マンダラとは何か」だったので、各仏の説明や配置をあつかうのかと思っていましたが、視点、描き方、枠、構造の話でした。このような見方の方が、秩序を大事にするインド(どこでも秩序は大事にすると思うのですが、とくに)で生まれた図像にふさわしい気がします。チベットのマンダラは、外側が円で囲まれていますが、日本のものでは失われているのは、日本では、この構造は重視されなかったのですか。
たしかに、ふつう「マンダラとは何か」とあれば、マンダラの種類を紹介し、それぞれのマンダラがどのような仏を含んでいるかという説明が予想されます。そして、その多くの場合、マンダラそのものの説明は、例の「仏の世界図」「悟りの境地を表した絵図」というだけです。世の中にはそのようなマンダラの本がいくらでもありますが、仏の名前と位置をどれだけたくさん知っても、「マンダラとは何か」に答えることはできません。秩序を大事にするというのは、もちろん、どの文化でも重要ですが、その秩序をどのように表すかは、やはり異なります。たしかに、インドでは幾何学的な図形が、秩序にもっともふさわしいイメージだったようです。日本のマンダラで外側の円が失われてしまうのは、そのようなイメージが、秩序と結びついていなかったからでしょう。なお、インドの文献では、「マンダラ」という語の指す範囲が、全体の円ではなく、仏の住む楼閣だけの場合があります。インドでも、外周部を重視しない立場があったようです。
富山出身なので、マンダラについては少し聞いたことがあります。宇宙を表していて、中央に須弥山があるということだけ聞いたことがありましたが、建物の話ははじめて聞きました。日本のマンダラしか見たことがなかったので、そこは納得できたんですが、山はどこへ行ったんですか。
富山は日本で有数の「マンダラ立県」のところです。立山曼荼羅が伝えられたからでしょうが、そのおかげで、たとえば立山博物館では、チベットのさまざまなマンダラが収集されました。利賀村(旧名です)には瞑想の郷などの施設があり、チベット系ネパール人の描いたマンダラの壁画があります。須弥山はチベットのマンダラにも、日本の金剛界や胎蔵界の曼荼羅にもちゃんとあります。仏たちの住む楼閣が正方形なのは、須弥山の頂上に立つ帝釈天の王宮がモデルになっているからです。須弥山の山頂はきれいな正方形です。立山曼荼羅に描かれた山は、須弥山という理想的な世界の想像上の山ではなく、現実の世界の立山連峰がモデルになっています。同じ「山」でも、インドと日本ではまったく異なるのです。そして、日本の場合の山は、須弥山のような世界の中心軸ではなく、われわれの世界の外にある異界や死者の国、あるいはそれらとわれわれの世界を隔てる境界の役割を果たしています。
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