密教美術の世界

2006年6月21日の授業への質問・回答



なぜ舎利は遺骨ではなく、身体なのですか?現在はつぎつぎと移り変わっており、そのため、仏の身体も日々成長しているということでしょうか。今日の話は正直よくわかりませんでした。宇宙を個としてとらえ、宇宙は原因でもあり、結果でもあるという点で、命であり、命を持つ私と宇宙は同じ・・・ということですか。
 前回の授業の内容は、「難しかった」「よくわかりませんでした」という感想が相当数見られました。ここで簡単にまとめておきます。
 歴史的に、仏塔と舎利に関しては以下のような事実が確認されます。
(1)釈迦が涅槃に入ったあと、舎利を納めるために、複数の仏塔が建立された。
(2)アショーカ王の時代に舎利を取り出し、八万四千の仏塔を造って納めなおした(この数は仏教の教えである法門に一致する)。
(3)その後も、アジア各地でおびただしい数の仏塔が作られた。
(4)仏塔は仏教の宇宙観を反映した構造を持つ。
(5)仏塔のまわりには水に関するモチーフが数多く見られる。
これらの事実に対して、ひとつのまとまった道筋を見つけるのが、授業のねらいでした。そのときのキーワードが「生命」です。
 このうち、(1)から(3)は、舎利を納めた仏塔で世界が覆い尽くされ、それは仏の教えと仏そのものが世界を覆うというイメージとなります。舎利が遺骨ではなくて、身体であるというのは、仏塔の場合に限ったことではなく、「舎利」(.zariira)という言葉自体が、もともと「身体」を意味するということです。世界が仏塔で埋め尽くされているというのは、世界が仏によって満ちあふれているという、前々回の仏教のコスモロジーに一致しますし、そもそも、宇宙は無数の須弥山世界で構成されていました。
 (4)と(5)からは、宇宙が卵によって表され、それが水の中に浮かんだイメージとして、仏塔に投影されたと見ることができます。授業では指摘するのを忘れましたが、この背後には、「世界は太古の海に漂う卵として誕生し、そこから展開して、現在の世界が形成された」というインドの古い神話を指摘できます(資料集の32頁参照)。生命が海から誕生することは、科学的な知識としてもわれわれは持っていますし、それは古代のインドの人々も直観的に知っていたことでしょう。われわれ自身も羊水という「海」から誕生します。このふたつから、宇宙は生命あるものとして誕生し、それが成長し、増殖していく、そしてその状態が、仏が満ちあふれたイメージでとらえられるということになります。
 このことを、別の視点から説明したのが「因と果」なのですが、こちらが特にわかりにくかったという感想が多かったです。因中無果論とか因中有果論という用語を出したのがよくなかったようです。授業でも使った料理の譬えで、材料、作り手とエネルギー、そしてできあがった料理という三つの要素で説明します。「ブラフマンは材料(質料因)であり、作り手とエネルギー(動力因)であり、できあがったもの(果)として顕現する」と、インドでは説明されることがあります。この場合のブラフマンを宇宙に置き換えることができます。料理では、材料と作り手、そしてできあがったご馳走は別々です。材料がひとりでに形を変えていくこともありません。材料を置いておけば、自然に姿が変わって、加工されてご馳走になることなどないからです。しかし、このような、因と果が同じもの、あるいは因が自然に形を変えて果になるものが、この世にただひとつ存在します。それが生命なのです。受精卵が、時間とともに人間の姿をとっていくというのは、そのわかりやすい例だと思います。もっとも、われわれは生命をわれわれの身体として認識するので、外からいろいろなものを取り込んで、成長していると思います。しかし、前々回の授業で説明したように、われわれを構成しているものは、つねに身体の外とつながり、行き来があります。そこではわれわれはわれわれ以外のものと密接に結びつき、その境界はきわめてあいまいです。そして、私を極限まで拡大すると、宇宙全体と重なります。その両者を結びつける共通点は、生命なのです。前々回の授業で、世界と私の関係を詳しく見たのはこのためでもあったのです。
 前回の授業で配付した資料は、このあたりのことをまとめたものです。授業で紹介するのを忘れましたが、読んでおいてください。配布したのは私の『仏のイメージを読む』の第4章の冒頭です。このあと、どのような展開になるのか気になる人は、図書館にもありますので、読んでみてください。

宇宙をひとつの命としてとらえるという考え方は新鮮でした。思ったのですが、私たち人間ひとりひとりは、細胞に値すると思うのですが、細胞は結局、命を生かすために存在するということになるはずなので、私たちのために宇宙があるのではなく、宇宙のために私たちがいる。前回の授業でやった、私自身が宇宙の一部であるということが、何となくわかったような気がした。
何となくでも、わかっていただけるとうれしいです。細かい議論はともかく、全体的なイメージを持つことが大事だからです。宇宙全体をひとつの生命体としてとらえる考えからは、全体である宇宙のために、われわれ個々人が存在すると見る見方と同時に、宇宙が私たちのためにあると見ることも可能だと思います。むしろ、両者が相互依存の関係にあることは、前々回の授業での、私を構成する異物と私自身の関係でも見たとおりです。ただし、全体のために個があるという考え方は、多くの宗教が説くところでもあります。全体が神や理念にもなります。それは、全体の中に埋没することで、個である人間は安らぎを得られるからでしょう。しかし、それは同時に、個の主張や存在意義を否定することにもなります。それも宗教の持つ「両刃の剣」の性格です。

今までさまざまなインドの神々を勉強してきたが、正直たくさんありすぎで、わけがわからなかったが、前回、今回のインド仏教の宇宙観の講義によって、多様な仏たちの根底が、「宇宙=命」ということに集約されていることがわかった。また、多種多様な神は、人々の信仰をニーズに合わせて集めやすく、さらには元はひとつであり、自分も宇宙の一部であるという考えを広めることは、仏教での統治をすすめるのに、当時の支配者にとっても都合がよいように思う。
この授業のねらいは、シラバスにもあるように、インドの仏たちの世界を知ることだけではなく、その背後にあるインドの文化や人々の考え方を知ることでもあります。そのような理解をしてくれているようで、よかったです。「当時の支配者にとっても都合がよい」というのもそのとおりで、上にも書いたように、しばしば宗教は、信仰と引き替えに思考や批判をストップさせてしまいます。舎利信仰が日本で王権と結びついたことに言及したのも、そのことを意識したものです。宗教が世俗の世界で力を持つのは、このような人々の統治に有効だからです。世界の紛争がしばしば宗教と結びつくのは、あたりまえなのです。

人間は生まれる前は魚であるという言葉に、はっとさせられました。生まれる前のことをあまり考えたことがなかったけど、本当に水の中にいたのだとあらためて感じました。ちらっと出てきた言葉ですが、私はこの言葉が今日一番印象に残りました。
生物学の有名な定義に「個体発生は系統発生を繰り返す」というのがあります。平たく言えば、われわれが生まれて成長する過程は、人間という種の進化(さらには生物の進化)を繰り返しているということです。母胎の羊水の中で成長する受精卵は、地球上の生物の何十億年もの進化を、ものすごいスピードで再現しているのです。母親の羊水は、生命が誕生した太古の海ということになります。ちなみに、人間の血液の塩分の濃度は、この太古の海と同じなのだそうです(太古の海は今の海より濃度が高いそうです)。そのときの生物は、体の外にある海の水を、体の中に入れたり出したりして生きているような単純な構造でしたが、進化した人間もその体の中に、太古の海を閉じこめているのです。私はこういう話がけっこう好きです。

仏舎利を増やして仏塔を増やし、そしてまた仏舎利を・・・という考え方が、前回、宇宙は無数の小世界があり、それぞれに仏が存在するという世界像をそのまま再現しているということを、そのまま表現しているように思われます。むしろ、素直すぎる発想くらいに思いますが、その篤い信仰心がうかがわれます。最近の授業を受け「仏」に対するイメージが大きく変わりました。近所にも仏舎利があるんではないかとまで思われます。
仏舎利はたくさんあります。たぶん、近所にもあります。私の知り合いのお寺関係者にも、何人かは仏舎利を持っています。それくらい、仏舎利はポピュラーなものです。増え続けるのですから、当然かもしれません。一時期、インドから中国への重要な輸出品に仏舎利があったと聞いたこともあります。仏のイメージが変わるのは、この授業のねらいでもあります。単なるありがたいものとか、信仰の対象というだけではなく、われわれ人間の考え方や世界のとらえ方を、仏を通して知ることができるのです。増殖する仏舎利とインドの宇宙観が重なるのはそのとおりです。仏教の宇宙観をあつかった前々回の授業はそのための伏線でもあります。

もともと地球は因であり、今の私たちの生活は果である。だけど、少なくとも地球はまだまだ続くのであり、果とは言えないのではないかと思う。果にはなりきれない存在、つまり因しかこの世には存在し得ないのではないかなぁ。今日の授業は、ちょっとでもボーっとすると、わからなくなるような難しい授業でした。
因と果としての宇宙とは、地球とか私たちの生活という特定の部分のことではなく、そのすべてです。宇宙が誕生し、存在し続けるのであれば、誕生した瞬間の宇宙はその後の宇宙の因となりますし、つねに、宇宙は果として存在し続けることになります。どの瞬間を切り取っても、宇宙はその前の瞬間の宇宙の果として存在するとともに、次の果の因となります。私の授業は「ちょっとでもボーっとするとわからなくなる授業」というほど緻密な内容ではありませんが、いちおう、いろいろなことが関係して、議論が進んでいきますので、何と何が関係しているのかは、注意して聞いてもらえるといいでしょう。書いたものはもう少し緻密です。

仏とは何か。仏とは宇宙であり、生命であるということは、仏は「私」でもあるということにもなるのだろうか。仏は世界に満ちているものであり、また、その世界自体でもある。というこのマトリョーシカのような構造はおもしろいと思う。そして、それは水であり、生命でもあるのだろう。しかし、遺骨が生きている身体であり、増え続けるものであるという感覚は理解しがたい。王=仏というイメージもあることもあり、政治と仏教という見方もおもしろそうだ。
仏は「私」であるという理解は、そのとおりです。大乗仏教は基本的にすべての生類の成仏、すなわち仏となることをめざします。これは言い換えれば、すべての人には仏となる素質をすでに有していることになります。日本ではさらにエスカレートして、山川草木悉皆成仏、つまり、山も河も草も木も(もちろん人間も)、あまねくすべて仏となるというテーゼがあらわれます。本覚(ほんがく)思想と言って、すべてのものはすでに悟っている、つまり仏であるということになります。この考え方は、日本仏教では、ほぼすべての宗派の基本となっています。浄土教も禅宗もそうです。だから、念仏を唱えるだけで極楽に往生して仏になれたり、無念無想で座禅を組んでいれば突然悟ることができるのです。ついでに言えば、最近、有名人が書いた般若心経の解説書がいくつかブームになっていますが、そこに書いてあることは、この「私は仏であり、宇宙である」というのが多いようです。今さら発見したような書きぶりですが、そんなことはインドではあたりまえですし、日本ではもっと過激な考え方が、ずっと昔からあったことには気が付いていないようです。

水、女性、生命というつながりはすごく納得できた。仏塔は仏のイメージということだったけど、私はずっと古墳のイメージは子宮だった。「生命」という点では、共通していますよね。
古墳をはじめ、古代における支配者の墓は、死者の世界という性格があります。地上における支配権を、死者の世界でも維持するために、その内部に「理想の世界」を作り出すこともあります。高松塚やキトラ古墳で、天球図や風水思想にもとづく四聖獣が描かれるのはそのためです。それと同時に、そこはよみがえる場所でもあるので、子宮のイメージも込められているかもしれません。基本的に、家とか宮殿は生命が再生するための母胎でもあります。

昔、自分自身をどんどん細分化していくとどうなるかと考えたことがある。細胞→分子→原子とどんどん小さくなっていき、そこに限りはないと思ったことを覚えている。今、考えると、それは仏教の宇宙観と近いものであったように思える。「私」という命は、無数の命(細胞、分子、原子)によって構成されており、その「私」も宇宙の細胞のひとつであり、宇宙そのもの、そんな風に理解しました。そうすると、宇宙=仏であるなら「私」も仏であるように思えてしまうのですが、さすがに飛躍しすぎでしょうか。
いえいえ、そのとおりです。上にも書いたように、そこから「私は仏」までは論理的にも自然につながっていきます。「自分とは何か」をすでに考えたことのある人には、このところの授業の内容は、理解しやすいのでしょうね。

百万塔陀羅尼、法隆寺で見たあれかと思って、うれしくなった。どんどん平面だった知識が奥行き深くなっているのを感じます。知識がつながる楽しさ。
法隆寺は、たしか百万塔陀羅尼が一番多く残っているところですね。他にもあちこちの博物館に少しずつ残されていて、私は昔、大英博物館で展示されているのみたことがあります。知識が平面から立体になるのは、実感としてそのとおりです。知識がつながるのは本当に楽しいです。今回からのマンダラの話も、これらの知識を前提にして、それをつなげる内容になるはずです。まだつながっていない人も、これからつながっていくはずですし、どこかの時点でまとめますから大丈夫です。


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