密教美術の世界

2006年6月14日の授業への質問・回答



インドの宇宙観があまりに数字で規定されていることに驚きました。世界の構成単位も規則的で、人工的な感じがします。私にはこれが「不自然」にしか思えないのですが・・・。それから、インド、仏教といえば、必ずといってよいほど花が出てくるのはなぜですか。蓮の花など神秘性を感じるものが多いからでしょうか。
世界が人工的で不自然なものというのは、まさにインドの世界の構造の特徴でしょう。世界は円や正方形という幾何学的な形態を持ち、すべて数字に還元されます。もちろん、このような世界はわれわれの身の回りには、存在しません。しかし、インド人にとっての世界とは、そのような身の回りの自然ではなく、もっと理念的なもののようです。そのとき、その世界が秩序だったものであることは、何よりも重要だったのでしょう。英語で宇宙のことをcosmosと言いますが、これはchaosすなわち混沌と対になって用いられる言葉です。cosmosとは秩序なのです。それはヨーロッパのキリスト教世界でも同様です。現実世界でも、太陽や星の形や天体の軌道などは円やそれに近いものですし、宇宙の構造が規則的であることは、直感的にわかると思いますが、世界を表現するときに、それが反映されるかどうかが、日本とインド(あるいはヨーロッパ)との大きな違いなのでしょう。日本人にとっての世界とは「自然」なのです。蓮の花については、今回の授業で取り上げます。基本的に、生命のシンボルだと思います。

自分たちの見ている宇宙というのは、部分でしかないというのには納得させられました。また、自分というものも何億もの生命体を含めた全体が自分であるというのも理解ができた。自分の部分(たとえばビフィズス菌など)からは全体としての僕はおそらく把握できないだろう。ぼくたちが全宇宙を知ろうとしているのは、それに近いのかもしれないと思った。全宇宙=神で、宇宙はいくつもあって、またそれの全体があって・・・。無限ループのように思えてきました。実際そうである気もします。
「宇宙と自分」の関係が、「自分とその中の生命体」の関係と同じというのは、とてもよい指摘です。授業ではふれませんでしたが、私も考えていることですし、今回の授業はそのような考え方をベースにします。「私」の中の無数の生命体は、そのひとつひとつは「私」にとっては無に等しい存在でしょうが、それが集合体として存在するから、「私」という生命が維持できます。その場合の生命を全体としてひとつと見なすか、無数と見なすかは、視点が違うだけでしょう。宇宙も同様に、無数の生命で構成され、それが全体を構成していますが、全体をひとつと見なせば、ひとつの生命体になります。無限のループはそのとおりだと思いますが、無限にループしていることも、全体としてとらえることができるのではないでしょうか。

私はどこからどこまでかという疑問は、今まで考えたこともなく、とても不思議だと感じた。結論は、外界からの侵入物によって、「私」と世界の境界線が見えて来るというものだったように思うが、いまいちよく理解できなかった。手や足、爪、髪がなくなってもいいのなら、外界からの侵入物はもっと必要ないのでは・・・と思ってしまう。また、地獄は通過するものと見なされていたと知り、驚いた。
私の意図していたのは逆で、「外界からの侵入物」によって、むしろ「私」と世界の境界線が見えなくなるというのが、趣旨です。外界からの侵入物というよりも、私の体の内部にあるものは、外界とつねにつながっているということで、境界線がわからないということです。たとえば、食べ物はわれわれにとって、「私以外のもの」ですが、体に入り、消化されることで、徐々に体の一部、すなわち私の一部になります。しかし、それはどこからなのでしょう。透明人間という存在が、小説やマンガにありますが、透明人間が食事をすると、だんだん食べたものが透明になっていくのでしょうか(そうでなければ、食べたものがずっと体の中で見えた状態であるはずです。あまり見たくないですが・・・)。爪や髪、手や足というのは、それとは逆の見方で、体を構成している(つまり「私」を構成している)と思っているものも、本当に本物であるかはわからないということです。そのような部分を仮に失ってしまっても、脳が「私」の中心にあると考えた場合、その脳だけで「私」ということを認識できるかということも考えました。前回の授業は、宇宙観をあつかうと同時に、「私」とはどこからどこまでかというのが、基本的な問題です。

仏教においての世界観は、今までの授業の中で一番おもしろい話でした。宇宙は宇宙でしかないとはじめは思っていたけれど、見ていたのは一部でしかなく、自分を含む宇宙をとらえられないということ、外界の考え、を聞いていると、宇宙の写真に対する考えも、自分という存在がいかに異物によって構成された(=宇宙を根源とする)ものだということに、感動を覚えました。地獄のスライドとてもおもしろかったです。
「一番おもしろい」という感想を持ってもらい、さらに感動を覚えてもらえて、とてもよかったです。授業というのは感動があることが一番だからです。新しい知識を得ることも感動ですが、それまで気が付かなかったことを知ったり、それまでの考え方が根底から覆されたりすると、人間は感動するものです。宇宙(世界)とか私という問題は、荒唐無稽な感じがしますし、場合によっては宗教的な話になるのですが、人間が人間として存在する上で、もっとも基本的なことです。「世界とは何か」「私とは何者か」「世界と私はどのような関係にあるのか」というのは哲学の根本問題です。そして、哲学はすべての学問の基礎にあります。その場合、文系とか理系とかの区別はまったく関係がありません。

最初の話で、宇宙とは何か、という問いにはポカンとしてしまった。考えたこともなかったので・・・。だた、今「宇宙」と聞くと、惑星や星々を思い描くが、昔の人は宇宙とは無数の仏が散在して、本質的に自己と同じであるなどと考えていたのであれば、宇宙とはいよいよ何なのかわからない。ただ、仏教における宇宙観は、本当によく理解できました。今までの授業で一番おもしろかったです。
宇宙や私についてなど、皆さん、これまで考えたこともないでしょう。少なくとも、高校までの授業で、こういうことを考える機会はほとんどなかったと思います。「宇宙とはいよいよ何なのかわからない」というのは、本当にそのとおりだと思いますし、宇宙物理学などがどれだけ発達しようと、絶対に正しい答えなど出てきません。「一番おもしろかった」というのは、そのような「絶対にわからないこと」を考えることに、知的な興奮を感じたのだと思います。なお、ここで紹介したコメントは「おもしろかった」という肯定的な評価でしたが、その一方でかなりの数のコメントが「よくわからない」「ついていけなかった」というものでした。もちろん、それも当然だと思います。このような問題に関心を持てない方も大勢いることもたしかです。前回の授業のはじめに、「このあたりからこの授業の佳境に入ります」と言いましたが、それは同時に、このあたりが宗教や哲学に関心を持てるかどうかの分かれ道になるからです。しかし、もちろん、できるだけ多くの方に関心を持ってほしいので、今回、補足的な参考資料を配付して、理解を促したいと思っています。また、7月上旬に『生と死からはじめるマンダラ入門』という本を刊行する予定で、そこでもこの問題をくわしく取り上げています。

想像できない空間的・時間的広がりを持った世界/宇宙、けれど想像が可能な範囲では、それは宇宙とは言えないのだろう。「私」という存在のあいまいさ、これもどこか「両義性」に通じるところがあるように感じた。内と外、部分から全体へ、個の意識と世界、それらの不安定さ、あいまいさを逆に世界まで押し広げることで、「梵我一如」という安定をえたのかとも思った。
宇宙というのが、われわれの想像を超えた存在であることはたしかにそのとおりだと思いますが、その一方で、人間というのは宇宙さえも越えた存在を考えます。つまり、神のような超越的な存在をです。宇宙論が宗教で問題になるのは、そのような存在をつねに想起させるからでしょう。両義性から梵我一如へというのはおもしろいですね。おそらく、インドの思想では個の不安定さというのはそれほど意識されず、むしろ、個であってもそこには秩序や完全性が備わっているということで、宇宙と本質的には同一であるということを考えたのだと思います。

仏教、インドの宇宙観が広大であるということは知っていたつもり、というか聞いたことがあったが、今日の話を聞いて、あまりの規模の大きさに驚きました。しかし、その世界がずっと続くのではなく、ある世界が一度滅んで、また生まれてきての繰り返しなのが、その他キリスト教や他の宗教、神話の中で、インドや仏教が持つ特徴のように思われます。遠い昔から世界の時間の広大さに目を向けていた、インドの人々の思慮深さを感じました。
世界が生滅を繰り返すというのは、前回の授業のポイントのひとつでした。世界の構造だけを紹介したのではなく、そこにサイクルがあること、それが世界の構造を規定していることが重要だと思います。世界は単に存在するものではなく、つねに変化し、見方によっては誕生と死を繰り返しているということになるからです。まさにそれがインドの特徴なのでしょう。インドの人々が思慮深いかどうかはわかりませんが、こういうことを考えるのが大好きな民族であるのはたしかです。日本人ではありえないことです。

宇宙は私、梵我一如ということばは真理を表していると思った。食べ物を食べるということは、多くの命を私の犠牲にすることだと思っていた。だけど「共生」だと考える方法もありだと思う。もうちょっと家で考えてみます。
わたしも「宇宙は私」というのは、けっこう真理だと思います。もちろん、実感はしませんが、そのように考えた方が、すっきりするような感じです。食べ物についてもそのとおりですね。われわれが自分の体内に入れることができるものは、すべて生命あるものです。あたりまえのことなのですが、なかなか気が付きません(犠牲か共生かは見方によるでしょうが)。それと同じように、生命を生み出すのは生命だけです。クローンとか生命操作とかいいますが、どんな場合でも、生命のもとになっているのは生命です。太古の海で発生したプランクトンのような生命から、無限に続く生命の連鎖の中で、われわれは存在しているのです。ぜひ、家でも学校でも、いろいろ考えてみてください。進化論や宇宙論(理系の)の本を、哲学的な視点から読むのもおすすめです。

地獄めぐりのスライド、おもしろかったです。地獄というと、嘘つきは閻魔様に舌を抜かれたり、煮えたぎった鍋の中に、人がうごめいていたり、ぐらいの知識しかなかったんですけど、もっと過酷な場所だったとは・・・。地獄はなんだか混沌としたものだと思っていましたが、意外に細かい制度?を設けて鬼たちは罪人を待っているんですね。でも、最後に菩薩がお迎えに来てくれるところが、少しほっとさせられました。地獄=絶望ではなく、耐えることで乗り越えるものなんだなぁと思いました。
授業の息抜きのつもりのスライドショーですが、こちらの印象の方が強くて、コメントにも感想が多くありました。ぜひ、授業のメインの仏教の宇宙観と対比して、インドと日本の「世界」に対する考え方の違いも考えてみてください。日本の地獄図の基本となっているのは、平安時代の浄土教の僧、源信による『往生要集』です。そこでは地獄の構造や苦しみがこと細かく記されています。ただし、最後のお迎えは、必ずしも『往生要集』の記述にもとづくのではなく、後世の地獄絵に現れる新たな要素です。しかし、そこに日本人的な「甘え」を私は感じます。地獄は苦しみの「場」ではなく、通過する「期間」であるところに、日本人の世界観の特徴があると思うからです(これは、現在、文学部でおこなっている授業「仏教の空間論」でくわしく取り上げています)。

仏教が世界をどのように認識しているのかおもしろかったです。人間はすべてを語ることはできない。形而上学はここからはじまりますが、仏様はそうではありません。何でも知ってます。今日の講義で、科学に似た突き抜けた「さわやかさ」を感じました。
「さわやかさ」を感じてもらえてよかったです。それも感動の一種だと思います。神も仏もこのような「迷いの世界」とは無縁の存在のようにも見えますが、この「迷いの世界」が仏そのものという考え方も、仏教の特徴です。これはキリスト教における神の位置づけとはまったく異なります。仏が何でも知っているというのは、そのとおりで、仏教ではこれを「一切智」といいます。それはまた一方で、この世のすべてのできごとは「仏の了承済み」ということにつながります。この世は苦でできているといいながら、それは仏そのものであり、仏がそのように作り出したことになります。ここからは、「仏の名による絶対的な現実肯定」が生み出されます。それはそれでけっこう危険な考え方です(そういう意味で、宗教とは危険な存在です)。

また講義に関係ない質問ですが・・・。仏教が「仏になること」が最大の目標なら、誰でも仏になれるのですか?前の授業で、次の仏は数億年先に現れる弥勒だと聞いたと思うのですが。弥勒とは特定の存在を示しているわけではないのですか。
弥勒信仰は時系列上の未来の仏で、阿弥陀や薬師は空間的な広がりを持った世界観で説かれる仏です。本来、両者は別の信仰なのですが、ひとつにまとめると、この娑婆世界に釈迦の次にあらわれるのが弥勒で、現在でも別の仏国土にいるのが阿弥陀や薬師になります。『法華経』の冒頭の記述は、そのような広大な宇宙を背景にしています。「誰でも仏になる」というのは、また別の考え方で、しかもそれは日本の仏教の特徴ともなります。基本的に仏教は、生きとし生けるものはすべて仏になれますし、ならなければいけないのですが、それが実現されるには無限に近い時間が必要とも考えていました。しかし、その一方で、あらゆる生類は、すでに仏そのものであり、悟っているのであるが、それに気が付いていないだけであるという考え方も生まれました。如来像思想、あるいは本覚(ほんがく)思想といいます。日本の仏教はこれが基本になっていて、念仏を唱えれば極楽往生できるとか、ただ坐っていれば悟りが開けるという教義が主流となります(前者は浄土教、後者は禅宗)。「地獄めぐり」で示した「地獄を過ぎれば極楽に行ける」というのも、これに通じる考え方なのです。


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