密教美術の世界

2006年5月31日の授業への質問・回答



すべての神々が釈迦が姿をかえたものだとする一元論を採用してしまうと、教科書の第1章に先生が書かれている「釈迦はすべての仏の理想のモデルであり、すべての仏が釈迦と同じ生涯をたどる」とする話は、釈迦と他の仏を分けて考えているように読み取れるので、矛盾するのですが。これは一元論の立場を持つ人と、そうでない人との差異なのでしょうか。もし、すべての神々が釈迦で釈迦が何度も同じ生涯を繰り返すことをしているとするなら、釈迦という仏は何と成長のない存在なのだろうかと考えてしまいます。うがった見方かもしれませんが。
「釈迦はすべての仏の理想のモデルであり、すべての仏が釈迦と同じ生涯をたどる」という考え方は、『華厳経』という経典で明確に示されますが、そこではすべての仏が釈迦であるという考え方はまだ見られません。『華厳経』では、そのような根元的な仏は釈迦ではなく毘盧遮那という如来です。この仏が、密教になると大日如来になり、すべての存在物は大日如来と等しいという一元論的な世界となります。仏教の歴史は、人々が仏をどうとらえたかという歴史でもあります。すでに、釈迦の時代において、釈迦以外にもかつて仏がいたという信仰が見られます。そして、時代が下るにつれて、過去ばかりではなく、未来にも、そして、この娑婆世界(つまりわれわれの住む世界)以外にも、無数の世界があり、それぞれに仏がいるという考え方が現れます。それと同時に、仏は涅槃に入るように見えながらも、じつは永遠に消えることのない存在であるという考え方も現れます。このような仏は有名な経典『法華経』に登場し、「久遠実成(くおんじつじょう)の仏」と言われます。あらゆる仏たちが繰り返し同じ生涯を繰り返すのは、成長のない存在なのではなく、逆にそれほど完全な存在だからです。

一神教と多神教はつまらない区別であるという主張が新鮮でした。私自身、日本は多神教であるために、宗教に対して寛容で、宗教戦争のようなものもあまりないのだと思っていました。しかし、今日の講義を聴き、必ずしもそうは言えないと思うようになりました。思い起こせば一向一揆などは、宗教をめぐる戦いであり、必ずしも多神教が寛容、仏教が寛容というわけではないと思い至りました。
前回の授業では、一神教と多神教という枠組みはナンセンスということを強調したので、それについてコメントをしてくれた方が多くいました。繰り返しになりますが、私の基本的な考えとして、特定の宗教を信仰しているからと言って、その人や民族が寛容であったり、寛容でなかったりすることはないと思います。人々が戦争をするのは、宗教だけではないのです(もちろん、まったく無関係ではありえないですが)。「それならば、キリスト教とイスラム教の対立の原因は何ですか」という質問もありましたが、世の中のできごとは、異なる宗教の対立だけで説明できるほど単純ではありません。アメリカのイラク政策を「石油をめぐる利権」と説明する人もいますが、それだけで説明するのも乱暴でしょう。宗教に限らず、あらゆる現象を二分法のような単純な枠組みで捉えるのは、しばしば危険を伴うことを、皆さんに認識してもらいたいと思っています。世界の宗教を神様の数(それも見かけだけの)で分けても、何もそこからは展開しません。既成の枠組みを疑うことから、学問ははじまります。

仏のイメージが地域によって異なっている意味がわかりました。今日の写真を見ていて、梵天はアヒル、帝釈天は象に乗っていましたが、乗り物にも「強さ」や「賢さ」といった意味が含まれているのでしょうか。あと、今日見た不動明王坐像と似たものが、大河「風林火山」にも出てきました。あれは地域的なものでしょうか。あと、全然関係ないのですが、ほっとけ(=仏)ないにはウケました。
神や仏が乗る乗り物は、その性格や出自を表すものとして重要です。とくにヒンドゥー教の神々は、それぞれ固有の乗り物に載ることが多く、区別するときにも便利です。梵天のアヒルも帝釈天の象も、ふるくから知られたものです。乗り物の動物がもつ意味はわかるものもあれば、わからないものもあります。梵天のアヒルはよくわかりませんが、帝釈天の象は権力や武勇と結びついた動物なのでしょう。その一方で、象は生殖、あるいは男性の性的な力とも関係があるようです。教科書や授業では水牛を取り上げて、それに関連する仏や神のイメージのつながりを考察しています。単なる乗り物や脇役ではなく、重要な意味を帯びた存在なのです。「風林火山」は見ていないので、不動明王に似た像はよくわかりませんが、日本の不動は特定の形式で作られることが多いので、おのずとよく似た像が現れます。授業で紹介したのは、高野山の金剛峯寺(不動堂)にあった不動明王坐像で、平安後期の典型的な作品です。不動の十九相観という形式にしたがったものです。風林火山は信濃で、しかも戦国時代の話ですよね。大道具や小道具の人が、高野山の作品を参考にしたのでしょうか。「ほっとけ(=仏)ない」は、まったく私には記憶がありません。基本的に、そういう低レベルのギャグは言わないことにしているのですが・・・。

インドでは女性の仏の像も多いようですが、日本でも見られるんですか。はっきり女性とわかる仏像は見たことがないような気がしました。見てみたいです。
探せばけっこういます。たとえば弁財天(弁天)は、あきらかに女性の姿をとります。授業で紹介した摩利支天や鬼子母神も女性の姿です。薬師寺の吉祥天は樹下美人図の流れを受けたものです。しかし、インドの女性の仏が、その身体的な特徴をはっきり示しているのに対し、日本の女性の仏や神は、控えめですね。これは中国でも同様で、インドを中心とする南アジアの女性美と、中国、日本(たぶん韓国も)のそれとが異なるからでしょう。インドのほとけたちの世界では女尊はある程度、まとまった存在でしたが、日本や中国ではバラバラになることも、女性の仏の位置づけと関係があります。インドの女尊は、日本では観音や天のグループになることが多く、性別は不明です(観音が女性化することも関係あるかもしれません)。一部は明王にもなります(孔雀明王など)。

先生は本地垂迹説についてもふれていましたが、仏教とヒンドゥー教の神々も似ているものが多いので、本地垂迹説のように、それぞれ対応していたりするんですか。
インドには本地垂迹説のような考え方はないようです。ヒンドゥー教では仏教の仏もヒンドゥー教の神様のひとりくらいにしか考えられていません(しかも、まちがった教えを説いて、罪人を地獄に導くそうです)。かたや、仏教の方は、ヒンドゥー教の神は仏教の仏の支配下におかれるべきと主張しています(おそらくヒンドゥー教側には相手にされていなかったでしょう)。インドの神々の世界は「大伝統と小伝統」という枠組みでとらえられることがあります。たとえば、村々で信仰されている土着の神は、じつはシヴァやヴィシュヌのような有名な神が姿をかえて現れたものだという考えです。小伝統の無数の神々は、大伝統の少数の有力な神に包摂されてしまうのです。ここでも、一元論的な世界観が認められます。日本の本地垂迹説は、神仏習合という文脈で語られることもありますが、この神仏習合という考え方も、いろいろなケースがあり、なかなかむずかしいです。

一元論の話を聞いて、ひとりの仏がTPOに応じてさまざまに姿をかえて、私たちの前に現れるのだとしたら、仏の数がものすごく多いので、むかしの人は悩むこと、救ってほしいと思うことが多かったんだなぁと思った。さらに最後の話を聞いて、文献の中の仏が、作品の何百倍もあるというのを知り、びっくりした。イメージはできるけれど、作品にはできないだろうと思われる仏を、無理やり作品にしたとしても、今度はそれが聖なるイメージではなくなる可能性があるという話は、パラドックス?のようでなんだかおもしろかった。
仏の数が多いのはたしかですが、悩むことや救ってほしいと思うことは、たぶんそれほど種類がなかったような気がします(頻度は高かったでしょうが)。人類の歴史の中で、現在はきわめて特殊な時代で、それまでの何百万年は、飢えと貧困と病気などの限られた悩みや苦しみしか、意識されていなかったでしょう(仏教ではそれを四苦八苦といいます)。それでも仏にさまざまな種類があり、それぞれ異なったイメージを持っているのは、それを生み出した文化的背景が異なるからだと思います。文献の中の仏の種類や数が、実際の作品よりもはるかに多いというのは、前回の授業のポイントのひとつです。これは私が、もともとは文献の研究を中心に行っていて、実際の作例を美術史的にあつかうようになったのが、それよりも後だったから、とくに気になるのかもしれません。パーラ朝の仏像の全体像を見わたしても、文献の中の仏のほんの一部しか作られていません。しかも、その中で圧倒的に多いのが、伝統的な釈迦であることも驚きでした(密教経典には釈迦はほとんど登場しません)。ただし、作品としては残っていませんが、マンダラの中でこれらの無数の仏たちが、インドでも実際に描かれていたはずです。そこでは、大量の「聖なるイメージ」が必要になります。そのための工夫を今回の授業で紹介します。

文字からイメージを作ることができなかったり、イメージの記述があっても、技術的に作ることができないことがあるという話はとても興味深かった。奈良の大仏が本当は宇宙と同じ大きさだというのも、まったく知らなかった。でも、本当に人々が聖なるイメージを仏に対して持っていたのなら、それを人の手で像にするのは不可能だとは考えなかったのだろうか。少なくとも私は不可能だと思う。
最後の指摘の「人の手で像にするのは不可能」ということこそ、宗教美術の本質で、それを「偶像崇拝の禁止」などと呼ぶことがあるのです。それでも、なんとかイメージとして作るり出すために、人々はさまざまな工夫を凝らします。人間は視覚情報をなによりも重視する生物なのです。

薬師如来が日本にしかいないと聞いて驚いた。薬の壺を持っているということだったが、日本の風土か何かが、薬師如来を生み出したのだろうか。
五劫思惟阿弥陀如来坐像は、すごくかわいいと思う。髪の毛(螺髪)がのびても、毛先が見えないのが、非常に不思議。
薬師如来は説明不足でした。もともと薬師如来は、東方の仏国土の仏です(西の方は有名な阿弥陀如来です)。インドで成立した経典にも登場するので、インドで信仰されていたのはたしかです。医王、すなわち医者の王なので、人々を病気の苦しみから救ってくれます(金大の近くにある医王山も、この仏と関係あります)。しかし、インドには薬師の作例は現存せず、仏像として表現されたかどうかも明らかではありません。薬師はインド以外の大乗仏教の国では作例があり、チベット、中国、朝鮮半島、日本など、いずれの国でも人々の信仰を集めました。アフロの五劫思惟阿弥陀如来は、いつも人気です。

阿修羅が仏のグループ名だと知って驚きました。教科書を読んだときにひとりの仏の名だと思って読んだので、話がかみ合わないというか、何かおかしかったので、原因がわかり、少しすっきりしました。デーヴァも神々のグループの名ということですね。五劫思惟阿弥陀如来坐像は、オープンキャンパスで見覚えがあります。あと、十一面観音立像と、21の不動明王坐像も。不動明王の後ろには、鳥が三羽くらいいると聞いた気がしますが、どうでしょうか。
アスラ、すなわち阿修羅はグループ名です。デーヴァもそうで、こちらは天に相当します。教科書の記述は説明不足だったのですね。もう一度、そのつもりで読んでみてください。インドのヴェーダ文献と、中東のアヴェスタでは、両者の位置づけが逆転するのも、比較神話学や印欧語族の研究では常識なので、知っておいてください。オープンキャンパスのスライドショーのことは、よく覚えていますね。十一面観音も不動明王も、同じ作品が登場します。せっかくなので、この授業でも一度紹介しましょう。

インドにはない仏像が中国や日本にあることに驚いた。それだけあとから仏教が伝わったから、このような事態が起こったのですか?インドから仏教が伝わるとき、ヒンドゥー教の要素が加わってしまい、仏教を伝えた人たちはどう思ったのだろう。本当に仏教を信仰する人にとって、このような仏の存在はじゃまにならなかったのでしょうか。
インドにはない仏像が中国や日本にあることの理由はさまざまです。経典のような文献の中だけだったものが、中国や日本では造形化される場合もあります。逆に、インドには作例があるのに、中国や日本にはないものもあります。授業でカタカナで表記する後期密教の仏などは、ほとんど伝わっていません。ヒンドゥー教の神々の仏教での位置づけは、けっしてじゃまなものとか、余計なものではなく、重要なメンバーだったと思います。それらを含めて、当時の人々は、広い意味での「ほとけの世界」を信じていたのでしょう。それは日本などでも同様で、天部の神々、たとえば弁天や吉祥天、毘沙門天、聖天、帝釈天などは、とくに民間信仰で重視されてきました。

火の神様が、水の壺を同時に持っているのが不思議だった。こういう二面性(と言っていいのかわかりませんが)は他にもあるんでしょうか。
火の神様アグニ(火天)は、火を用いて儀礼をおこなうバラモン(聖職者階級の名)のイメージが取り入れられています。胸の前で持っている火も、単なる火ではなく、護摩(ごま)という火の儀礼をおこなうときの炉の形をしています。水の壺は、バラモンの重要な身の回り品で、儀式を行うときの必需品でもあります。しかし、それだけではなく、水はインドの宗教世界ではきわめて重要な存在で、単なる物質ではなく、生命のある存在、つまり生き物でした。同じことは火についても言えることで、儀礼の時に用いられる火も一種の生命体としてあつかわれます。アグニはふたつの生命を手にしているのです。これらのことは、以前に書いた『マンダラの密教儀礼』(春秋社)のなかでも紹介しています。



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