密教美術の世界
2006年5月24日の授業への質問・回答
「似ている」とはそっくり見た目が同じとだけ思っていましたが、中国などの文献に書かれた各仏像の意味だけ伝わったものが多いため、一見似ていないが、意味は同じであるという現象が起こるのですね。元々の姿(インドでの)に似せようとしたというより、ありがたい(または神聖な)ものの姿を、どうにかして眼に見えるようにしたいという情熱やあこがれが、少し異なるけれど、似た姿になった理由だとも考えました。
まったくその通りです。「似ている」という言葉を、授業ではかなり広くとり、似ていないけれど、表している意味は同じであるということまで、「似ている」と言っていました。イメージが似ていることと、内容が同じであることを、まとめていたわけです。その場合、いろいろなパターンがありますが、イメージが似ていても、表している意味が異なる場合もあります(授業ではふれませんでした)。むしろ、この方がイメージが伝播するときにしばし起こります。類型的にまとめれば、イメージも意味も正確に伝わる場合、その一方が伝わる場合、いずれも伝わらない場合となりますが、それぞれの範囲は明確ではありません。ありがたいもの、聖なるものをどうにかして表す、というのは、以前の授業で「仏陀の象徴的表現」でも問題にしたことです。結びつけて考えてくれてうれしいです。ヘビや爪の話もそれにつながりますが、特定の文化の「聖なるイメージ」と、人類に普遍的な「聖なるイメージ」があることを知っていただきたいと思います。「グロテスクなもの」というのは後者に属するでしょう。
スライドに入るまでの雑談のようなものも、大切な授業の一部だと思います。共通点といえば、見てわかるものばかりに目がいっていたので、意味としての類似という考え方は、すごくおもしろいと思った。仏像以外にも、そういうものがあるなら、いろいろ楽しめる世界が広がるだろうなぁと思った。
そうです。雑談が大事なのです。私はあまり「雑談」とは思っておらず、むしろ、密教美術から読み取れることや、それを見るための視点を、そういうところでお話ししているつもりです。私はもともと美術史を専門とする研究者ではなく、宗教学や哲学(インド哲学)が専門です。美術史の授業であれば、スライドなどによる作品の説明が授業のほとんどですが、私の場合は、そこから読み取れることや、作品成立の背景などに関心が向けられます。美術史は作品(とくに質の高い作品)のよりよき理解を目指し、宗教学や哲学は、作品そのものよりも、そこから導き出される普遍的な問題を考えます。これは学問のタイプが違うからです。私自身は、意識的にその両者を統合しようとしています。これからの授業でも、スライドなしの話は毎回ありますが、皆さん自身が頭を使って考える時間でもあるので、しっかり考えてください。
よその国で作られた聖なるもののイメージを、そのままの形で受け入れるのは、よく考えるとふしぎな気がしました。正確な文献があったとしても、自分のイメージと違っていたら、変えたくなると思います。私が信仰のために、仏像や仏画を描くとしたら、自分なりの聖なるイメージに合わないところは、変えたくなってしまいます。インドと日本で似ていない方が自然な気がしました。
おそらく、そのようなところもあったでしょう。実際、インドの仏像のイメージが、そのまま日本で再現されることは稀です。日本的(あるいは中国的)に変容した(あるいは改変された)イメージの方が多いでしょう。それでも、インドのイメージがはっきり残っている場合もあります。密教ではとくに仏のイメージを明瞭にすることが、いろいろな場面で求められます。文字情報としてテキストに残したのも、そのためです。日本の密教にとって、インドの密教が有していたイメージは、規範であり、正統であり、模範であったのです。そこに宗教美術の特殊性もあります。仏のイメージはおいそれとは変えられませんし、変えてしまっては仏教として成り立ちません。
よく中学校や高校の教科書で、広隆寺の弥勒菩薩像の例が取り上げられているが、こんなにたくさんそっくりな仏像があるとは思わなかった。先生は似ている理由をいろいろ言われていたけれど、現代日本人が欧米文化を無性にかっこいいと思い、やたら取り入れたがるのと同様に、かつての日本人は仏教(密教)の思想、とりわけ芸術を最先端のものだと思って、流行に乗っかろうとして、そのまま真似したとも考えられないでしょうか。
たしかに、高校までの社会(とくに歴史)の教科書では、仏像を二つ並べて、よく似ているでしょう、で終わっていました。あるいは「当時の日本は中国の影響を受け・・・」というような記述が、頻繁に登場します。影響というのはなかなかやっかいな言葉で、それだけで済ませてしまうようなところがあります。しかし、文化は伝染病や黄砂のようなものではありませんので、自然に伝わったり、空を飛んできたりすることはありません。人間がそのあいだに必ず介在します。そして、人間であるからには、何らかの意志を持って伝えたのであり、積極的に伝えた理由や、あるいは選別して、伝えなかった理由も考えなければなりません。私の所属する研究室は「比較文化」といいますが、同じような理由で、「AはBの影響を受けた」というような安易な比較はしないように、学生を指導しています。密教文化の受容を、現代日本の欧米文化のそれと対比しているのはおもしろいですね。当時の日本人にとって、密教はたしかに最先端のものでした。それは、コメントにあるような芸術の面だけ(かっこいいとか)ではなく、政治や治安、国家や国民の統合といったレベルで強く意識されていました。当時の日本において、密教は単に仏教の教えではありません。人々を支配し、国を治め、その安泰をはかるために、国家が意図的に取り入れたものです。現代で言えば、最先端の科学技術(場合によっては軍事技術)を導入することに匹敵します。
体=自分のものと考えると、精神(こころ)も自分の体という定義にはいるのですか?そう考えると、傷ついたり、安らいだりするものである精神というものを、昔の人は両義性を持つ不可解な存在としてとらえてのですか?どうやって扱ったのかが、ぼんやりと気になりました。
ヨーロッパでは、精神と肉体を分けて考える二元論が一般的ですが、日本ではその境界は曖昧でしょう。皆さんは「こころ」はどこにあると思いますか? まさか、爪や髪の毛と同じレベルで存在するとは思っていないでしょうが、肉体とまったく切り離されて存在するとも思っていないのではないでしょうか。両義性というテーマからの質問と思いますが、じつはこの問題は、もう少し先の授業で取り上げるトピックです。そのときにじっくり考えてみてください。
両義的存在というある種の特異性が、人々に創想像性や創造性を与え、それが宗教では「聖」を表す存在と位置づけられたりした、という話は興味深かった。明確にカテゴライズされない存在に対する不安定感をぬぐうために、人々はその両義性に「聖」としての属性を与えることで、安定を求めたのかなと考えた。・・・宗教は関係ないかも。
なぜ似なくなるのか。シンボルを表すものが、伝わる先ではタブーとなっているものなら、そこは消されたり、改竄されたりするのじゃないだろうか。
両義性について、きれいにまとめてくれています。まさにそれが宗教だと、私は思います。シンボルやイメージが受け入れ側で拒絶されるというのも、ときどきあるようです。たとえば、キリストのはりつけの姿は、キリスト教の教会では一般的ですが、南米に伝えられたときに、はりつけは犯罪者のイメージがあまりに強烈ということで、両手を広げて、人々を迎え入れようとする姿に変えられたそうです。似ていますが、表している意味はまったく違いますね。
金剛界と胎蔵界の違いは何? 金剛界と胎蔵界の大日如来のポーズが違うことと、金剛界は五仏だけど、胎蔵曼荼羅の中心には九人の仏がいることが気になりました。文殊は知恵の仏というイメージがあったので、剣を持って獅子に乗っている姿は意外な感じでした。あと、ハスばかり見ていたら、茎付きの植物に違和感を感じます。今日、漢字で曼荼羅と書けるようになりました。
金剛界は『金剛頂経』、胎蔵界は『大日経』という経典に説かれた曼荼羅です。基本的に、曼荼羅はそれを説く密教経典があります。密教経典の数だけ、あるいはそれ以上の数の曼荼羅が存在することになります。金剛界と胎蔵界のそれぞれの曼荼羅の説明は、教科書のコラムのところで説明しておいたので、読んでおいてください。胎蔵界も中心には五仏がいます(金剛界五仏とは、一部顔ぶれが違います)。大日如来とその四方の仏たちです。残りの四人の仏は菩薩たちです。文殊が知恵の仏であるというのは、インドでも一般的で、剣は利剣といって、知恵を表しています。鋭いというのは、刃物にも頭の良さにも使われますよね。ただし、文殊が剣を持つようになるのは、中国からで、インドでは特殊な文殊(中国から逆輸入された可能性もあり)にのみ、剣が現れます。「曼荼羅」の二つ目の文字は「茶」ではなく「荼」であることに気をつけてください(コメントにはちゃんと正しく書けていました)。
「宗教と合理主義はどちらも間違っている。しかし、宗教は正しすぎて間違っているのに対して、合理主義は間違いすぎているために間違っている」イギリスのチェスタートンという作家の言葉らしいのですが、聞いただけなので、ちょっと違うかもしれません。でも、神(の住む世界)に対する熱い思いは、もちろん行きすぎることは多々あるわけですが、人間にとってたいへんなエネルギーを生むんですね。
はじめの言葉は私は知りませんでした。あたっているような気もしますが、反対のような気もします(宗教の方が間違っていて、合理主義が正しい?)。このようなうがった言い回しは、なかなかかっこいいのですが、そこから何かを論じることはできないとも思います。宗教が人間にとってたいへんなエネルギーを生む(人間が宗教に対して生むわけですが)のはたしかです。「宗教はアヘンである」という有名な定義もあります。
不空羂索観音像が二体とも縄を持っていましたが、縄はどの不空羂索観音像も持っているんですか? また、縄は何のために持っているですか? 何かの象徴なんですか?
不空羂索の羂索が縄のことです。仏像入門のような本には、羂索は猟師の投げ縄で、これで獲物を捕るように、人々を救済すると説明されています。しかし、これは間違いです。だいたいが、投げ縄を使って人間の狩りをする観音菩薩なんて、変じゃないですか。インドでは羂索は一種の武器で、敵に投げると足に絡まり、動けなくなるものです。不空というのは、けっして失敗しないという意味で、この武器は百発百中なのです。
両義的存在は、分類できないため、人々に気味悪がられているという話は、とてもおもしろかったです。ヘビや私たちの髪の毛、爪は、確かにふしぎなものであり、よく考えると、かなり気味が悪いと思うのですが、仏はどのように両義的なのですか? 腕がたくさんあったり、その他の人間とは異なる部分が分類できないということですか? 人々の潜在意識の中に、そのような分類できない=気味が悪いというものがあるのかもしれませんが、私は遠い国であそこまで似ているものができることはあり得ないように思いました。あと、気味が悪いものは、なぜ宗教的な力を持つのですか? よくわからない=神秘的ということが成り立つのでしょうか。
仏のイメージが両義的かどうかはわかりません。そこに現れるシンボルに、しばしば両義的なものが現れるということはあると思います。腕や顔がたくさんある仏が、両義的かと言われると、そうとも言えるし、そうではないとも言えるような気がします。「気味が悪い」とか「グロテスク」というのは、それを含む文化ごとに、かなり違いがあると思います。その一方で、そのようなものに、宗教的な力や「聖なるもののイメージ」を感じる人は、おそらく普遍的にいます。理由があって感じるよりも、直感的、本能的に感じるのでしょう。特定の理由をふまえて、そのように学習するのではないのです。
インドから日本への仏の伝播を聞いていてふと思ったんですが、当時(というのも大雑把ですが)の日本人の中に、自分たちのあがめている仏たちの源流がインドにあることを知っていた人はいたんでしょうか。もし知っている人がいたなら、玄奘のように、一生をかけてインドをめざしたものもいたのだろうか等と、いろんな想像ができておもしろいです。ナチスや特攻隊の背景に、宗教的な考えがあるというのは、なるほどと思いました。
もちろん、仏教の源流がインドにあることは、当時の僧侶はみんな知っていました。お経や仏像がインドから伝わったことも当然ですし、お経の言語である梵語、つまりサンスクリットの学問も、日本で行われていました。日本からインド(天竺)を目指して、求道の旅に出た僧侶も数多くいました。行きたくても行けなかった明恵のような僧侶もいます。ナチスや特攻隊を、すべて宗教のレベルで説明するのも危険ですし、間違っていると思いますが、そのような行動に人々を駆り立てる考え方は、宗教の持つ衝動や扇動力に似たものがあります。信じるものがある人間は強いですし、場合によってはこわいです。
ヘビは嫌いです。やっぱり気持ち悪いので、全然さわれません。でも、先生の言っていたとおり、ヘビは何の部類にはいるのか、今思うととても不思議です。そして、このことを聞いて、理科の時間に中学生の時、ヘビはは虫類か両生類か何なのか迷ってたことを思い出しました。そこで思ったのですが、ヘビ以外にも、両義的な存在のものは何かあるのですか?ウナギやアナゴも両義的存在なのでしょうか。
ウナギやアナゴも地面をはっていたら、たぶん両義的な存在だったでしょうね。実際、どちらも実物はけっこう気持ち悪いですし・・・。動物で両義的なものとしては、少し特殊ですが、センザンコウ(アルマジロ)というアフリカの動物が、民族学や宗教学ではよく取り上げられます(Mary Douglas, Purity and Danger)。これもウロコがある動物です。両義的な存在をもう少し広く探すと、神話や昔話の登場人物で、トリックスターと呼ばれるものがいます。敵でも味方でもないのですが、そのような人物がいることで、物語がおもしろくなるような存在です。「ゲゲゲの鬼太郎」のネズミ小僧などが、わかりやすい例でしょう。
今日は日本の仏像もたくさん見られたので、とても新鮮でした。すごくはっきりとした特徴なのに、長い道のりを経て伝わることで、全然別のもののように感じるのは不思議だと思いました。先生、以前の授業でライオンに見えないという感想を書いたのに、忘れられているんですね・・・。先生におぼえてもらえるような感想を書けるように頑張りたいです。
これはどうも失礼しました。最近、物忘れがひどくて、という年寄りの言い訳しか思いつきません。昔の授業のQAをたまに見たりすると、こんなことを書いていたのかというものもたくさんあります。自分で書いたものも忘れるのですから、しょうがないですね(あくまでも言い訳ですが)。
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