密教美術の世界

2006年4月26日の授業への質問・回答


・「地下に掘られた建物」をはじめてみました。あれらは世界遺産なのでしょうか。何年かけて作られたのか、あんなにすごいものを建てようとするにまでさせるその教えや指導者がどんな人だったのかなど、驚きとともに、その神秘性を感じました。先生はやはり何度もスライドの写真の実地を研究に行かれるのですか?私も見に行きたいと思いました。
・地下に掘り下げられて造られた建物が印象的でした。なぜ、地下に作ったのかと疑問に思い、少し考えた意見を書きます。現在の建築と言えば、積み上げて上方に大きくしていくものですが、その常識にとらわれなければ、重力に逆らわず、下に建物を取っていくという考え方も不自然ではなかったのかなと、勝手に納得しました。直接、仏教に関係ない疑問ですが、とても気になりました。
はじめに写真をお見せしたグジャラート州パタンにある階段井戸の建築物から、強い印象を受けたというかたが、たくさんいました。そのうちのふたつを紹介しました。私もあの遺跡に行ったときはおどろきました。建物というのは上に伸びるものだと思っていたのですが、それを逆にしたような構造なのです。壁一面の彫刻にも圧倒されました。ほんとうに、どういう発想で、どのような人たちが作ったのでしょうね。コメント二人目の方の指摘もおもしろいですね。「建築とは重力との戦いだ」ということばを聞いたことがありますが、地下に掘れば、戦う必要があまり無いわけです。インドには岩山を掘って作られた僧院や寺院がありますが、それも同じ発想です。有名なものではエローラ石窟のカイラーサ寺院で、巨大な岩山を掘り下げながら、寺院を造り出しています(掘り残すことで、巨大なビルような寺院ができあがっています)。エローラ石窟は世界遺産に指定されていますが、パタンの階段井戸は指定されていません。インドにはほかにもびっくりするような建物や遺跡がたくさんあります。タージマハールだけがインドではありません。そのうちのいくつかはHPで紹介していますが、ぜひ、皆さんも現地に出かけて、直接、見てきてください。私も1年に1、2回は調査に出かけています。

個人的に思ったんですけど、古い時代の遺跡とかを復元するのって、へんじゃないんですかね?古いものはそのまま残すべきというか、復元しちゃったら面白みがない気がしました。
そのとおりです。それなのに、インドの遺跡ではしばしば「復元」がなされています。しかも、あまり学問的ではないことも多く、発掘の指導者の趣味や好みで、新しい建物のようなものができあがっています。日本の考古学では考えられないのですが、それもお国柄なのでしょう。仏像などの修復もかなりずさんです。

先生のHPの五体の仏像を見て、同じインドの仏像でも、作られた地方によって、形や雰囲気が違うことにおどろくとともに、どうして違うのかが疑問に思いました。仏像を作る人の仏に対するイメージの違いが出るのであれば、仏像を作る人の数だけの仏像があることになります。そうすると、同じ仏像はひとつもないことになり、仏がたくさんいるようになると思います。私はインドの宗教だけでなく、シャカや仏についてもまったくと言っていいほど何も知りません。だからシャカが仏なのか、それとも神様のような存在なのか、どちらなのでしょうか。また、仏と神様の違いは何なのでしょうか。
HPの五体の仏像はインド、日本、中国のものが混じっています。詳しく紹介しておくと、向かって左から、マヒシャースラマルディニー(グジャラート州パタンの階段井戸)、金剛手菩薩坐像(オリッサ州ウダヤギリ遺跡)、観音菩薩立像(愛知・瀧山寺、快慶作)、帝釈天立像(同前)、ターラー立像(北京首都博物館所蔵、中国、明代)。同じ仏でも地域や時代によって、形が雰囲気が違うということは、この授業の重要なテーマになります。もう一方で、同じ仏が、地域や時代を超えて、同じような姿をしていることもあります。仏像を作るときには、ルールのようなものがありますが、それをどの程度守るかも重要なポイントです。厳格に守りすぎると、同じ作品のコピーばかりできてしまいますし、まったくそれを守らなければ、たしかに「仏像を作る人の数だけの仏像」ができてしまいます。シャカがどのような存在であるかも、授業をとおして少しずつ学んでください。仏教に詳しい人は、受講している皆さんの中にはほとんどいないと思います(ひょっとするといるかもしれませんが)。基礎知識の有無は気にしないでください。仏と神の違いは、どのような立場を取るかで異なります。

「空海はまだ生きている」正直、ウソだぁーっておもいました。たしかに生きている「ことになっている」ってわけみたいですが、生きていることになっていること自体がびっくりです。これもある意味「解脱」なんでしょうか。不死ならば輪廻することもないですし。
空海の場合、「入定」(にゅうじょう)といいます。「禅定に入る」の略で、深い瞑想の境地を禅定といいます。弘法大師の入定信仰は平安時代の中頃から流行し、大師信仰をかたちづくります。現在でも、大師信仰は四国遍路や高野山信仰と結びついて、強固に生き続けています。弘法大師が「生きている」あるいは「入定している」かどうかは、だれにもわかりません。しかし、そのような信仰があることは事実ですし、われわれはそこから出発して、なぜそのような信仰が生まれたのか、それは歴史的に、あるいは日本の文化としてどのような意味があるのか、などを考えることができます。人文科学は人間に対する学問ですから、自然科学的に(あるいは合理的に)生きているか死んでいるかは問題にする必要がありません。理科系の人には我慢できないかもしれませんが。

仏とつながっているのは僧で、仏の具現化をするのは仏師なら、像のイメージはだれの頭の中で考えられたものなのか気になる。
いろいろな人の頭の中にあったのでしょう。頭の中にあったものを実際に形にする過程で、そのイメージも変わっていきます。イメージを生み出す人もいれば、そのイメージの影響を受けて、別のイメージを生み出す人もいます。特定のイメージが、特定の文化に属する人々の間で共有されることもあります。イメージをめぐる考察は、おもしろいですよ。なお、密教美術の場合、僧と仏師(あるいは仏画師)が同じ場合もあります。有名な鳥獣戯画の鳥羽僧正も密教僧と言われています(実際は、鳥羽僧正そのものがだれであるかは、よくわかっていません)。

地球が誕生してから46億年くらいたっています。太陽の燃焼可能時間の関係で、あと50億年ほどで死滅すると言われているはずなのですが、弥勒が56億7千万年後に衆生を救うという話を聞いたとき、その衆生はどこにいるのだろうと思いました。こういう天文のことがわかっていたとしたらおもしろいです。
地球が誕生してからの時間については、ほかにも指摘してくれたかたがいました。どうもありがとう。56億7千万年の場合は、誕生から現在よりも長いですが、インドの伝承の5億7千6百万年の場合は、それほどではないですね。弥勒の出現と衆生の救済は、仏教の宇宙論と深く関わっています。仏教というと、迷信や葬式のようなイメージが強いのですが、天文を含め宇宙全体を問題にする壮大な宗教です。弥勒信仰については授業ではあまり取り上げられませんが、仏教の宇宙論は重要なテーマとなります。お楽しみに。

弥勒菩薩がシャカの次の仏であることはまったく知らなかった。「次の仏は弥勒菩薩だ」と言ったのはだれなのか気になる。高校の日本史でも少し習ったが、それぞれの文化や時期によって仏様の表情や姿が違うというのが、多くの写真を見てよくわかった。まったく知識もないのに、こんなことを言っていいのかわからないが、私は仏様はほんとうはいないと思っている。救いを求めた人々が作り上げたものだと思う。だから、姿形が場所や時期によって異なっているんじゃないか。
弥勒を次の仏に指定したのは、お釈迦さんです。仏教のきまりで、今の仏が次の仏がだれであるか指定します。シャカを指定したのは燃燈仏(ねんとうぶつ)という仏です。ちょうど、国王が王位継承者を決めるようなものです。弥勒については昨年、学部の「仏教文化論」で取り上げました。関心があるかたは、HPの授業「平成18年度 仏教文化論」のページを参照してください。仏のイメージがさまざまであることは、このあとの授業を通じて、じっくり見ていくことになります。「仏様がほんとうはいない」かどうかは、すでに書いた「弘法大師が生きているかどうか」と同じことで、立場や人によって違います。しかし、それを信じた人たちがいたからこそ、仏教が信仰され、仏像が作られました。仏教研究はそれを研究対象にします。なお、仏教では「仏さえも存在しない」という考えもあります。「空」(くう)の思想です。もちろん、その場合、われわれも、地球も、宇宙も存在しません。この世に存在するものは何もないのです。この世そのものも存在しません。信仰対象や信仰する人々も存在しないということを説く宗教なのです。おもしろいと思いませんか?

授業の中でヒンドゥーの寺院を見せてもらったけれど、ヒンドゥーのインドラ神?かアスラ?などが、仏教の中で見られるのがたいへん不思議に思った。そもそも、自分の知っている限りの仏教の話では、ヒンドゥーの神々は当然として、〜明王とか、守護神的な存在が、どうやって教えの中に登場し、仏像に負けないくらい像が作られることになったのか、知りたく思った。
ヒンドゥー教やインドの宗教について、よく知識をお持ちのようです。ヒンドゥー教の神が仏教、とくに密教にどのように取り入れられたかは、いろいろな本がありますので、この授業ではあまり取り上げません。教科書の『インド密教の仏たち』の中でも、随所で紹介しています。それよりも、ヒンドゥー教の神を視野に入れると、密教の仏の世界がどのように違って見えるかを、最後の方で考えたいと思います。

小さいころ、浄土真宗のお寺に通っていて、「死んだら、みんな仏様になる」と教わったが、トリヴィアの仏教で、「シャカの次の仏が現れるに必要な時間は、地球が誕生してから現在までよりも長い」ということを知った。今までずっと、仏様は自分のご先祖様たちだと思って、仏壇にお参りしていたので、ショックを受けた。このふたつの話がほんとうだとしたら、今までシャカ以外で仏になった人はまだいないということなのか。もしそうなら、今までな亡くなった人たちは、今どうしているのか。
それは私もわかりません。あなたが「仏様は自分のご先祖様たちだと思って」お参りしていらっしゃったのなら、多分そうなのでしょう。どうか、私の授業ごときでショックは受けないでください。最近は「千の風」になっているという説も有力です。なお、仏教が問題にしている時間は、「地球が誕生してから」というようなちっぽけなものではありません。宇宙ができてから、あるいはそれ以前とか、宇宙が消滅してからの時間も相手にします。

密教や仏と聞くと、どこかうさんくさい、気味が悪いというイメージがあったが、今日、多様性のある仏像を見て、だれが、どういう意図で制作したのか、何を伝えたいのかを知りたくなった。
仏像を「だれがどういう意図で制作したのか、何を伝えたいのか」を知ることこそ、この授業の中心テーマです。現在の日本では、宗教はたしかに「うさんくさい」とか「気味が悪い」さらには「危険だ」と考えられることが多いようです。開き直るわけではありませんが、「うさんくさくて、危険である」からこそ、宗教はおもしろいのです。合理的で、安全無害な宗教なんて、この世に存在しません。ついでに言えば、宗教の危険性を知らない人が、「うさんくさい」宗教にあっさりだまされるのです。オームはその典型です。

私のインドに対するイメージは、言語が多いということです。千手観音も密教の仏なんですか。マンダラの中央にいるのは一番偉い仏なんですか。シャカはマンダラの中にはいないんですか。
たしかに、多言語の国家というのはインドの重要な特徴ですね。しっかりしたインドのイメージです。千手観音は、意外に思われるかもしれませんが、密教の仏です。ただし、授業で取り上げる密教とは少し異なり、その初期の段階のものです。日本では奈良時代に伝わった密教で、古密教と呼ばれることもあります。密教の仏には、それぞれ、その仏の教えや儀礼を説く文献がありますが、千手観音や十一面観音に関する文献は、初期の密教経典に分類されます。マンダラの中央にいるのは一番偉い仏ですが、単に他の仏よりも位が高いというだけではありません。これについてはマンダラの時に説明します。シャカはマンダラに含まれることもあります。胎蔵曼荼羅では釈迦院というところにいます。しかし、ほとんどのマンダラにはシャカは含まれません。シャカのかわりの仏が重要な位置を占めるようになるからです。

シャカに水かきがあるのは、高二の夏にオープンキャンパスで金大に来て、スライドを見たときに、聞いた覚えがあります。
それはすばらしい。そのときに文学部でスライドショーをしていたのが、私の所属する比較文化コースで、スライドは私が作ったものです。スライドショーの近くで、高校生と話をしたり、本を見せたりしていたはずです。直接お話ししているかもしれません。スライドショーの内容を覚えていてくれて、感動的ですね。


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