仏教の空間論

2006年6月18日の授業への質問・回答


「無限」の世界が連なっている、その様子を「ひとつ」の構造としてとらえる思想は、過去〜未来までの時の流れを大劫という「ひとつ」でくくる思想と似ているように思われる。細分化された時間に名があることから、仏教では「小さな秩序」が集合して「大きな秩序」となっているのだろうか・・・と思ったが、西洋でもそういったものがあることを思い出したので(たしかダンテの神曲では地獄にある階層おのおのに名があった)違うような気もする。
「全体」を部分の集合体としてとらえるのは、たしかにインドやヨーロッパの宇宙論に共通してみられるでしょう。日本の宇宙論には見られませんし、そもそも日本には「宇宙」という概念さえなかったでしょう。時間も空間も「小さな秩序」が集合して「大きな秩序」となっていることもそうだと思いますが、とくにインドの場合、時間の推移が空間の構造と密接なつながりがあることが、私は気になります。日本では宇宙や世界のことを「世」といいますが、これは同時に「代」でもあり、つねに時間で置き換えられてしまうような気がします。手元に荒木博之『やまとことばの人類学』(朝日選書)という本があり、そのあたりのことを論じています。ほかに長野泰彦編『時間・ことば・認識』(ひつじ書房)にも、関連する論文があります。時間と空間の問題に言語を加えると、さらにおもしろくなりそうですが、私の手には余ります。

インド人は部分によって全体をイメージに表すことをしていたというのであれば、ヨーロッパの絵画のように、全体を見て、そこから一部を切り取るような表現とは、「一部分のみを表現する」という点においては共通点があるように思えます。
おもしろい指摘だと思います。たしかに「一部分のみを表現する」という点だけからは、そのように言えるかもしれませんが、実際に表された作品を見ると、ヨーロッパとインドとではずいぶん異なると思います。ヨーロッパの絵画に見られる遠近法では、近景と遠景を描くことで、遠近感が表されますが、それは遠景があるからはじめて成り立つでしょう。必ずしも遠景を描かなくても、消失点が想定でき、それに見合った視野が意識されるから、全体が奥行きをもってとらえられます。それに対して、インドではすべて近景のみで画面が構成され、背景は単なる区切りや記号的な山岳表現にとどまります。見るものはつねにその場面に居合わせるような感覚を持ち、全体を見る視点はどこにも登場しません。全体を部分で表す表し方は、インドの場合、全体が意識されるのではなく、部分によって「象徴的に」表されるような気がします。これに対し、ヨーロッパでは全体が「潜在的に」表されるのではないでしょうか。なお、ヨーロッパの絵画で、視点をできるだけ対象から遠くに置こうとする態度は、風景画に顕著でしょう。ヨーロッパの影響を受けるまで、インドの絵画にはこのような風景画はまったくあらわれません。日本では洛中洛外図屏風のような、独特の風景画があることも興味深いところです。中国はどうなのでしょうね。

六十四転大劫に代表するような現代の私たちとはまったく違う宇宙観を見て、その宇宙観(破壊と再生が繰り返される)は、現代と当時の死生観の差から生まれているのではないかと思った。
私もコスモロジーや時間論は、基本的に死生観と関係があると思います。人間の生と死と、宇宙全体の構造やサイクルは、多くの文化でおそらくパラレルなのでしょう。宇宙全体をひとつのまとまりとしてとらえ、これを一種の生命体のような存在としてみるのも、インドの思想の特色だと思います。ちなみに、現代のわれわれが持つ宇宙観も、それがどんなに科学的だと思われていても、一種の信仰です。「本当の宇宙の姿」など、わかるはずがないのですから。別のレベルの話になりますが、アポロ計画で宇宙に行った宇宙飛行士の中には、その後、宗教家になった人がいるそうです。科学と宗教は現代においても、けっこう近い存在なのでしょう。

最初、大仏は宇宙と同じ大きさだと聞いたとき、蓮の花はどうなるんだ!と思ったら、蓮=宇宙という考えを聞いて納得したようなしないような・・・。無色界までは、これでもか!というほど(こちらから見て)大きくなってく一方なのに、いきなり、大きいのか小さいのかさえなくなっていて、スケールの大きさを(悟りの)観じた。あと、これらの考えをインド人がめぐらせていた頃の「宇宙」というものと、私たちが現在、多少なりとも科学的イメージを受けて想像する「宇宙」は異なるはずだと思うけれど、このあたり、どうなんですか?
蓮が宇宙で、その上の大仏はそれとは別というわけではなく、蓮によって表される宇宙は、大仏(毘盧遮那)がその本質であるということです。大仏は大きな仏像の姿をしていますが、むしろ、もっと抽象的な概念のようなもので、これを仏教では「法」と呼びます。宇宙の森羅万象を成り立たせている根本的な原理のようなものです。世界の「秩序」と言ってもいいでしょう。大乗仏教や密教では、それを人格化して「法身」(ほっしん)と呼びます。仏には三種あり、釈迦のような歴史上の仏や、極楽にいる阿弥陀のような仏、それらの背後にいるような根元的な仏で、この最後のものが法身です。ですから、仏の姿をとる必要がないのです。無色界の空間は、よくわかりません。ものが存在しないのですから、大きさは問題にならないのはたしかですが、大きさを超越したような空間というのは、イメージできませんね。なお、無色界でもまだ悟りには到達していない迷いの世界ですから、うっかりすると、また輪廻してしまいます。現代の宇宙のイメージについては、上に書いたとおりです。これまでにも、本などで何回か書いていますが、銀河系とかアンドロメダ星雲のような想像図を、われわれは「宇宙」の正しい姿と信じ込んでいますが、それもあくまでも宇宙の「部分図」でしかありません。部分図であるならば、宇宙を構成するどんなものでも、「宇宙の部分図」になります。極端な場合、紙に丸を描いて「これが宇宙です」といっても、同じ程度には「正しい」のです。

宇宙と同じ大きさの仏が存在し、それが宇宙を支配するという考えは、何となく「不自然」に感じました。これも私が日本人だからでしょうか。仏は宇宙そのものとした方がしっくりします。かといって、この世界とは違う次元にある仏の世界に対しても「不自然」を感じるわけではないし・・・。よくわかりません。
私の説明が不十分でした。むしろ疑問に思ったあとの「仏は宇宙そのもの」こそが、インド的な世界のイメージです。奈良の大仏は、本当は仏の姿で表すのではなく、「宇宙のすがた」で表すべきなのです。でも無理ですから、いちばんそれにふさわしいと思われる「巨大な仏」で表したのです。ちなみに、宇宙が仏そのものであるならば、われわれも仏になります(知らなかったでしょうが)。すでにわれわれが悟ったものであるというのは、日本では「本覚思想」(ほんがくしそう)といって、ほとんどの仏教の基本的な考え方になります。そこでは「気付く」ことが「悟り」と同じになってしまいます。

時間の単位が驚くほど大きいのですね。五十六億七千万年=百年? 空間の由旬というのも大きいのだと思いますが、どれくらいなのでしょうか。このように、具体的な数字で宇宙を表しているのがおもしろいと思います。なぜ、このように具体的な数値化が行われているのですか。インドのヒンドゥー教等、他の輪廻の思想も同じような傾向があるのでしょうか。
インドのコスモロジーとしては、授業で紹介した須弥山世界、あるいはそのことを説いている『倶舎論』のコスモロジーが有名ですが、インドではほとんどの宗教が類似のものを持っています。須弥山は仏教だけではなく、インドの宗教に共通する、世界の中心の山のイメージです。ただし、具体的な数字をあげた精緻なものとしては、『倶舎論』のものが一番でしょう。幾何学的な形態を持ち、それが細かい数値で表すことができるのが、インドのコスモロジーの特色だと思いますが、授業でも言ったように、その一方で、それを模型のような形で表現しないところも注目されます。それも、全体図を表さないことや、見るものの視点が鳥瞰的にならないことの例になると思います。ただし、ジャイナ教ではコスモロジーを表した図が伝えられますし、密教のマンダラもコスモロジーを基本に持っています。なお、「由旬」は軍隊が一日で行進できる距離といわれます。

「仏の中に宇宙がある」と考えると、宇宙は無限ではなく、有限であるかのような印象を持つ。仏=宇宙という考え方をしてしまうと、逆に宇宙の無限の広がりを制限してしまうような気がするのだが。
上にも書いたように、宇宙である仏というのは、あくまでも「真理」や「秩序」としての仏なので、有限な形をもっていると考える必要はないと思います。そもそも、このような考え方の背景にある大乗仏教の思想では、すべては「空」なのですから、有限であるか無限であるかも問題になりません(それがどのようなものかはわかりませんが)。密教になると、このような「宇宙である仏」は、われわれの心に重ねられます(とくに、悟りを求めようとする心で、菩提心といいます)。心こそが無限の広がりを持つ、あるいは、有限や無限を超越しているというのも、どこか納得できるような気がします。


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