仏教の空間論
2006年6月11日の授業への質問・回答
・ブランコで、朝鮮はブランコをこぐ女性を男性が見初めるというのを思い出しました。しかし、中国ではあまり聞いたことがないので、文化的にはどのように発生したのでしょうか。
・ヴィドゥラ賢者本生で、恋人とブランコの組み合わせたありましたが、中世ヨーロッパのロココ調(?)の作品 モぶらんこ モを思い出しました。何らかの共通したイメージが、インドとヨーロッパにはあるのでしょうか。
・ヨーロッパでは、ブランコは強い聖性を持つものと考えられており、とくに春分の日に豊穣をもたらすための儀礼で用いられたらしい。イランダディーがブランコにのっているというのは、生殖と豊穣とがかたく結びついていたからなのか、それとも彼女自身が強い聖性を持っているというメタファーなのだろうか。
ヴィドゥラ賢者本生の一場面であるブランコのシーンについて、複数の人がコメントを寄せてくれました。授業ではインドにおけるブランコの持つ意味についてふれましたが、同じようなことが世界のあちこちにあるようです。ロココ調の絵画で好まれたのもたしかにそのとおりで、私の手元にあったフラゴナールの画集にも、男女の愛をテーマにした絵として、ブランコに乗る女性を描いた作品がありました。でも、どうしてブランコなのでしょうね。往復運動が重要なのでしょうか。
遠近法が西洋で支配的でなかったと聞いて意外だったし、写実的=遠近法みたいにけっこう短絡的に考えていた。でも遠近法以外の描き方でも、ちゃんとした法則があるのだとなかなか感動した。むしろ現代の方が法則なんてない気がする。
遠近法が自然に感じるのは、特定の場所に固定したときのわれわれの視覚にちかい印象を、絵から受けるからでしょう。狭い意味での遠近法は「消失点を持った線遠近法」なのですが、それ以外にもさまざまな遠近法があります。基本的に、絵画とは立体的な対象を平面にすることがつねに求められるわけですから、それをそのように見せるための「仕掛け」が必要になります。錯覚をもたらすものということもできます(類似の指摘をしてくれたコメントもありました)。私はこのようなところにこそ文化や世界観の違いがあらわれると考えています。このような「仕掛け」が空間表象として、さらには文化を理解するための基礎的な概念としてとらえられないかというのが、授業でのポイントです。それと同時に、絵画というのはけっして客観的な世界ではなく、画家が自分の世界や美意識を表したものです。誰にでも同じように見える情景ではなく、画家自身のもっと主観的かつ内面的な世界を表しています。その場合、他の人にどのように世界が見えているかは、二義的になります。現代美術がわかりにくいのは、見る者たちと世界観や美意識を共有することを、多くの芸術家がすでに放棄しているからでしょう。それはそれで、現代のもつ文化の特色でもあります。絵画の持つ表現方法は、個=芸術家と全体=共同体や文化との間の関係(葛藤)としてもでとらえられるべきものだと思います。
難破船の乗組員を魅了して食べるということは、西洋の人魚伝説に似ている気が・・・。「後ろをふりかえってはいけない」というのは、ギリシャ神話にもあると思います。
黄泉の国から戻るときに後ろをふりかえっては行けないというのは、オルフェウスの神話にあります。探せば他にもいろいろあるでしょう。オルフェウス神話と日本のイザナギ、イザナミの神話との関連性を指摘する研究者もいます。ただし、シンハラ物語で後ろをふりかえってしまい、馬から落ちてしまうのは、羅刹の国に未練があるためで、それが羅刹の霊力のようなものに利用されるという感じです。これに対し、死の国に引き留められるのは、むしろ「見ること」によって、死のケガレのようなものが、その人に付着してしまうような感じがします(あまり違わないかもしれませんが・・・)。
キリストが正面向きで描かれているのが印象的だった。キリスト教の絵画は、遠近法を使用したものが多く、見やすいように思えた。遠近法の基本にあるのは、秩序への信頼だと論文に書かれていたけれど、キリスト教の絵画には、正確さのようなものが重要視されているように思う。
信仰の対象を正面向きに表すのは、キリスト教に限らず宗教美術の基本でしょう。人間にとって神や仏と直接向かい合うことが理想だからです。しかし、仏像やキリストの磔刑のような場面は、正面向きに描くことができますが、説話的な場面を描くときには必ずしもそうではありません。神や仏がつねに場面の中心に来るわけではないからです。前回紹介した若桑氏の文章にくわしく述べられていますが、同じ「最後の晩餐」を表した作品でも、有名なダ・ヴィンチのものは、中心に正面向きのキリストを描いているのにたいして、ルネッサンス以前やルネッサンスの後期以降の作品では、キリストがどこにいるのかわからないような作品がいくらでもあります。アジャンターの壁画の場合、基本的には斜投象で多くの場面が描かれているのに対し、灌頂や説法、降魔成道の場面は、正面象で表されていることが気になります。そこから、説話的な要素を持たない礼拝像(いわゆる仏像)が生まれたことが予想されますが、それと同時に、他の場面で見られた円環的な構図や、斜めから見ている視点がどのように変化したか、それは何を表しているかが気になるからです。はじめに宿題として読んでいただいた文章では、そのような場面を学ことで「時間の推移に区切りを打つ」という考えを示していますが、それ以外の意味を読み取ることも可能ではないかと考えています。
「残酷な場面の省略」は行われるのに、男女の結合やなまめかしい女性の図像は描くというのは、おもしろいと思う。今回だけでは判断できないが、そのような作例は多く見られるのだろうか。人々を説くのであれば、西洋の宗教画のように、残酷性を示し、恐怖心、畏怖心を与えた方が効果的だと思えるのだが。ブッダは三大宗教の中でももっとも人間性あふれる神(?)だと思うが、苦行中の場面でもやせ衰えることなく、ふくよかであり続けるということを考えると、やはり人間性の喪失というものが意図的に行われているのだろう。人々があるものを崇敬するときに、「人ならざるもの」として象徴化していくことで、自分自身を納得させようとしたのだろうか。やはり、自分と同じものであると、そこに邪念などが生じてしまうのではないだろうかと考える。
「残酷な場面は描かない」というのは、インドの仏教絵画の基本的な特徴のようです。その理由はいろいろ考えられますが、インドの人々にとって聖なるものや礼拝の対象は、完全無欠で、欠けたところがないことというのが、よく説明として用いられます。それとともに、私はインドの宗教美術は、写実性よりも形式性を重んじる傾向があることも重要だと思います。対象をリアルに表現することは、必ずしも宗教美術の聖性を高めることにはつながらず、むしろ、現実に近いものとして、その聖性を失わせることになるからです。それよりも、一種の記号やシンボルとして表すことで、そのイメージを人間の想像力にゆだねた方が、聖性の保持には効果的であったと思われます。アジャンタのような大画面をもちいながら、全体を鳥瞰する視点がないことも、ひょっとするとこれと同じ理由で説明できるかもしれません。客観的な視点から「全体」を描くことを避けつつ、クローズアップという「部分図」を示すことで、「全体」のイメージそのものは、見るものの想像力にゆだねているからです。なお、男女の性愛の図を描くのに、残虐な場面は描かないことについては、あらためて考えてみたいと思います。たしかに、キリスト教の芸術のように、恐怖心や畏怖心を与えるような作品は、インドにはあまりありませんが、グロテスクな作品はあります。このような作品は、むしろエロティックなテーマと結びつくことがあります(後期の仏教文化論ではこのあたりのことを考えます)。
遠近法というか、斜めにものを見た見方が、日本の古い絵巻にも見られて驚いた。理論ではなく、感覚でそれをやって、後代の科学で説明されてすごいと思った。遠近法の説明を聞いて、消失点(描いた人の視点)や視野がわかると知っておもしろかった。
日本の絵巻の中でも、授業で紹介した「信貴山縁起絵巻」は特別ですね。飛倉の巻では、あの倉が空を飛んでいくのですが、その表現方法もおもしろいです。遠近法の関係では、源氏物語絵巻や伊勢物語絵巻などが、格好の題材になります。絵巻物といっても、吹き抜け屋台だけではないのです。もっと古いものでは、「絵因果経」という絵巻に、プリミティヴな建物の表現などが見られて、それもおもしろいです。下手なのに味があるという感じです。その中に、灌頂の場面が描かれていて、それがアジャンタの壁画の灌頂によく似ているのにも驚かされます。図像の伝承があったのでしょう。これらは「日本絵巻物集成」に含まれているので、図書館で見てください。昨年、京都国立博物館であった「絵巻展」では、おもだった絵巻物が出ていましたので、その図録でも楽しめます(私の手元にあります)。線遠近法で描かれた作品から、消失点(vanishing point)や視野(visual field)などを求めることができるのは、私もおもしろいと思います。ピエロの「笞打ち」の絵が、じつはとても広いスペースを前提にしていることを知って、びっくりしました。ちなみに、視野は視点から60度の円錐形で表されるそうです(正確には、視点を頂点として視点と消失点とを結ぶ直線を軸とする、頂角60度の円錐が、画面と交わる円が視野)。私は教養の学生の時に、図学の授業をとったことがあるのですが、そこでもいろいろな美術作品からわかることを講義されていました(授業で紹介した「死せるキリスト」などもそこではじめて見ました)。しかし、自然科学の単位のために、文系でも楽な授業ということでとったので、内容はほとんど覚えていません。今ならもっと楽しめただろうにと後悔しています。金大には、キリスト教絵画などを用いた図学の授業はないのでしょうかね。
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