仏教の空間論

2006年5月21日の授業への質問・回答


やはりよくわかりません。空間と時間という現代の私たちの考え方と、当時のインド人たちの考え方は、もっと違うのではないだろうか。空間中に時間が含まれているというのは、なるほどそうかと思わないでもないが、空間以外だといわれても、そうかと思いそう。インド人の文章で、「時間とは・・・である」のような記述はないのですか? 彼らは時間、忘れているのではないだろうか。
先週のテーマは、前半が前の残りのヴァイシェーシカ学派で、後半が仏教における空間論でしたが、私も十分咀嚼できなかったためか、よくわからないという感想が多かったです(授業の冒頭で、島先生について感傷的なことを話したりして、時間をとってしまったことも反省しています)。とくに、後半の仏教については、今回、はじめに少し補足するつもりです。インド人はたしかに、時間を忘れているのかもしれませんね。あるいは、強く意識することがなかったのかもしれません。時間と空間に関するインド人の考え方が、われわれのそれと大きく異なることは、予想されますが、それを哲学の綱要書などから見いだすことは、なかなか困難です。その中で、ヴァイシェーシカ学派のカテゴリー論(句義論)は、世界を構造的にとらえ、そのなかで空間や時間の定義を行っているので、取り上げました。しかし、そこでも「時間とは・・・である」という定義は、授業でとりあげたテキストの中には、紹介した記述以外にはありませんでした。以前に読んでいただいた私の「仏教の空間論への視座」でもふれているように、常住、普遍、唯一なる実体が、さまざまな条件にしたがって、虚空、時間、方位として顕在化するということなのだと思います。そのときに時間と空間は対等の関係、あるいは相互補完的な関係にあるのではなく、空間が優位にあり、そのなかにすでに時間的な継続性が含まれているということではないかと思います。声(音)が属性として空間のみに存在するということから、それを考えました。以上のことは哲学書の記述ですが、たとえば、インドでは歴史という概念が希薄であるということも、関係があるのではないかと考えています。インドは「歴史書なき国」と言われ、歴史的な記述を後世に残すという意識がほとんど見られませんでした。「正史」の編纂を国家的な事業として精力的に行った日本や中国とは、まったく異なるのです。その一方で、インドは仏教のみならず、あらゆる宗教が、壮大なコスモロジーを持っています。世界の構造には異常なまでの関心を示しているのです。これに対し、日本ではきわめて貧弱なコスモロジーしか、見られませんでした。

インドでは、二つ以上の個物に共通して存在する法が普遍といわれるのであれば、二つのものに共通するだけで、普遍となるのでしょうか。インドでは、「普遍」というものの考えられ方も、日本とは違うのでしょうか。
「普遍」という訳語からは、そのように考えられるかもしれませんが、もとの言葉である「サーマーヌヤ」は「共通していること」という意味なので、二つのものに共通するだけでも普遍です。壺が二つあって、そのどちらも壺であると認識できるのは、それぞれに「壺性」があるからです。その反対に、世界で最も大きな「普遍」は何かというと、「実在性」という普遍です。ヴァイシェーシカ学派では、あらゆるものは実在していますので、そのすべてに「実在性」という普遍があることになります。唯一である空間にも普遍があるのは、空間が無数に存在するからとも考えられますし、この「実在性」や「実体性」(地水火風などにもあります)があるからでしょう。

先週のスライドの19ページの「生滅」は仏教の言葉でしょうか? 前は「消滅」(13頁)となっていたので、使い分けされているのでしょうか。虚空、時間、方角が同一であるということが、全然わからなかった。それ以前に時間の定義がよくわからない。時間は発生から消滅を繰り返すものとして、時間がその属性を持てば・・・すみません、よくわかりません。
生滅は生起と消滅ですをあわせたものです。19ページの用例では音の生滅なので、音が一定時間、空間に存在する時に、その始めと終わりを指すというだけのことでしょう。虚空、時間、方角が同一というのは、私も実感としてはよくわかりません。しかし、たとえば何もない宇宙空間というようなものを想定した場合(あるかどうかはわかりませんが)、変化するものがないので、時間は認識できず、基準となるものもないので、位置関係すなわち方角も認識できない、しかし、広がりを持った空間だけは存在するというようなイメージで、とらえてみてはどうでしょうか。そうすると、空間がまず存在し、そこに時間や方位が条件によって現れるということになるかもしれません。

いつも思うことですが、インド仏教の概念は細かく、その当時において理論的であろうとする幾何学的構図のようなものを想像する。それが日本に移ると、どこかしら光景的な全体を漫然と見る情景画のような感じになり、それが先年学んだマンダラにも現れているなと思いました。
私もそう思います。というか、そういう視点で授業を進めることが多いようです。マンダラの日本的な展開は、幾何学的な設計図から、観念的な、あるいは情緒的な景観図へと変化したと、昨年度の授業でも結論づけました。今回の空間論は、もう少し空間そのものにこだわって、そこにみられるインドと日本の文化的な差異を明らかにしたいと思っています。

浄土真宗では、仏が許すからこそ、すべては救われて、往生を遂ぐと考えているはずです。衆生に仏性があるという考えは、まず最初に仏の慈悲という前提があってこその思想ですか。でも、天台宗の思想を見るとちがうし・・・。よくわからないです。
浄土教の基本的な考え方としては、「仏が許す(赦す?)」というよりも「仏が衆生を救済すると約束した」ということです。法蔵菩薩という名の菩薩が、その昔、そのような誓願を立て、それが実現しない限り、私は仏にならないと誓ったのです。この法蔵菩薩が仏となったのが阿弥陀如来で、極楽浄土という仏の国に住んでいます。つまり、すでに法蔵菩薩の誓願は実現しているのです。われわれ衆生すべては、すでに救済されいてることになります(みんな、知らなかったかもしれませんが)。前回取り上げた「一念三千」とは、このこととつながります。世界を一瞬のうちに悟りの世界に変えてしまうという天台の思想は、すでに阿弥陀如来によって救済された世界と、基本的には同じなのです。それだから、絶対他力、すなわちわれわれは何の努力をする必要もなく、阿弥陀如来の慈悲だけで極楽に往生できるのです。浄土宗でも浄土真宗でも、衆生のはからいを捨て、阿弥陀の慈悲のみを頼りにせよ、といわれたり、念仏を唱えることが重要ではない、念仏を唱えさせてもらうことが、そのまま極楽往生であるといわれたりします。いずれも同じ発想です。ついでにいえば、このような考え方はらくちんなので、はなはだ都合がよいと思うかもしれませんが、現実社会では、信仰対象への盲従を生み、方向を間違えると危険です。信仰と批判精神は両立しないのです。

行には経験が深く関わっているように思えます。受、想は反射的な反応のようですが、識については、説明内ではふれていませんが、直感的に経験が関わるように思われます。識と行との区別があやふやです。識は行に含まれてしまう気がしました。
識は概念作用なので、言語による認識、そこからの思考など、高度な精神活動を指していると思います。行は確かに経験が深く関わっているようですし、本能的なもの、あるいは、インドですので、業(カルマ)によって生じる心の働きなどもあるのでしょう。受、想、識が一連の認識作用を段階に分けているのに対し、行はそれ以外のあらゆる心の働きをひっくるめていると思います。

因果という関係の中で、すべては存在する→個体には実体がないということは、世界は因果というひとつのかたまりであり、存在するのは世界そのもの唯一という考え方もできるのでしょうか。空と虚無の違いがよくわかりません。
仏教は因果という関係を重視します。縁起と呼ばれるものも同じです。世界はすべて縁起で成り立っているとすると、実体として存在するものもありません。その場合、因果という関係も存在しません。仏教は世界そのものの実在を否定しているのです(ただし、初期仏教ではこのような世界に対する関心は希薄でした)。しかし、それと同時に「実在の否定」も実在していません。空(くう)と虚無の説明の違いも、空そのものの説明も簡単にできるものではありません。それを軸に二千年以上にわたって、仏教の思想が展開してきました。それはインドだけではなく、中国やチベット、日本でもです。空の思想に関係するのは、授業でも紹介した常住という考えです。永遠に不滅の存在を何かひとつでも認めると、それは空にはなりません。たしかに、われわれの日常生活の中で目にするものは、いずれ形を失ってしまうので、不滅とはさすがに思いませんが、たとえば、それを構成する元素や、さらに素粒子、あるいは大きなものでは宇宙そのものなど、不滅か不滅ではないかといわれれば、答えに窮します。神のような存在も同様でしょう。空は単に何もないという状態ではないのです。

古代インドの思想を否定するわけではありませんが、たとえば、AとBというものを「BはAではない」といった説明で表すのだとしたら、どんな言い方も無限に存在してしまいませんか。三千の世界はすべて同時に存在しているんでしょうか。
たしかに無限に存在します。質問の意図とは違うかもしれませんが、あるものに他のすべてのものの相互無が存在していると言っているのも、そのような無限の広がりを持つように見えます。しかし、世界が有限個の要素でできているとすれば、そのような相互無であっても、所詮は有限個です。天台の三千の世界は同時に存在しています(もちろん仏教ですから、仮にですが)。十如是は世界と言うよりも世界がどのように表されるか、あるいはそこにどのような関係があるかという点からのものですので、それ自体には空間的な広がりはないでしょう。十界互具の方は、輪廻を繰り返す領域ですから、これが空間に一番近い概念でしょうが、十界が十界をそなえているという考え方は、そのような固定的な空間であることを、それ自体が否定しているような気がします。

「相互無ではなく、恒常無によって定義する」とはどういうことなのか、よくわかりませんでした。相互無で定義するとどうなるのですか。
空間の定義のうち、「空間は音声の恒常無の基体ではないものである」としている点が、私には気になりました。これは、言い方を変えれば、空間はすくなくとも一定時間は音声が存在する基体であるとなります。恒常無とは永遠に存在しないという属性なのですから、それを裏返すと、こうなります。恒常無と相互無を入れ替えると、「空間は音声の相互無の基体ではないものである」となります。そうすると、世界は音声をそなえるものと、そなえないものとに2分され、そなえないものには音声の相互無が属性としてそなわります。音声は空間(虚空)の属性としかならないので、世界は空間と、空間以外に分けられますが、それは音声の相互無がないという点で、それ以外のものと区別されるとことから導くことができます。このように、相互無を使っても、ヴァイシェーシカ学派の枠組みでは空間を定義することができるはずなのですが、恒常無を用いているところに、時間的な継続性を空間が備えていることの根拠を求めたのです。

日本仏教が一念を好むというのはすごく意外だった。念仏をしたり、禅を組んだりすることも、少しずつ悟りへ近づくというイメージがあったからだ。意外と日本人はせっかちが多かったのだなと思った。
意外かもしれませんが、そうなのです。日本人はとてもせっかちなのです(私もそうです)。インドやチベットのオーソドックスな仏教は、途方もないほど長い修行期間を課します。もちろん、この一生では足りませんので、何度も何度も生まれ変わります。これに対して、中国にはじまる禅や浄土教は、一足飛びに悟りに到達させてしまいます。中国には禅にも種類があり、すみやかな悟りを得られる頓悟と、ゆっくり時間をかけて悟る漸悟に大きく分かれます。日本の禅は当然、頓悟の流れに属します。鐘の音を聞いて悟るとか、庭をほうきで掃いていたら悟るといった、あっさりした悟りが昔から禅では好まれます。浄土教は、上にも書いたように、すでに阿弥陀如来によって救われているのですから、われわれは何もする必要もありません。「気づき」さえすればいいのですし、気づくのも一瞬のことです。一般に日本の仏教が修行を重視しないのは、このような考え方が基本にあるからです。インドやチベットの仏教でも、すみやかな悟りを説く流れが、あることはあります。密教です。日本で浄土教や禅が現れたのが、天台宗という密教であることは、偶然ではありません。


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