仏教の空間論

2006年5月7日の授業への質問・回答


天井のマンダラ(トゥンガル)には驚かされた。私のマンダラのイメージというのは、p. 29のマンダラ(チャチャプリ寺)のようなマンダラであり、たとえば、平安京や平城京の航空写真というか、山頂から360。風景を見下ろす、神様が地球を見下ろすような世界をイメージしていた。まさにボロブドゥールのような世界である。それにくらべて、天井というのはまったく逆で「見上げる」イメージ。ボロブドゥールの中(建物内部?があるのかは知らないが)から頭上を見ると、そんな風に見えるのだろうか。まさにマンダラに包み込まれた内観な感じです。
空間をどのように表現するか、あるいは世界をどのようにとらえるかという点で、マンダラはとても示唆的な素材です。授業でも取り上げるべきなのですが、昨年度、一年かけてマンダラをテーマに同じ仏教学特殊講義をやってきましたので、今年度はほとんどふれない予定です。それで、空間とマンダラについて、ここで簡単にまとめておきましょう。たしかに一般のマンダラのイメージは、チャチャプリ寺のような壁画のマンダラです。あるいは日本の両界曼荼羅のような掛け軸の絵画でしょう。もちろんこれもマンダラですが、垂直に描かれたり、懸けられているというのは、必ずしもマンダラの絶対的な条件ではありません。チベットでは、砂マンダラといって、色の付いた砂で地面の上に作ったマンダラがあります。灌頂という密教儀礼で用いられるマンダラで、日本でも敷曼荼羅が同じような形態を取ります。これを見ると、マンダラの枠組みは建物を表しているので、まさに上から見下ろしたような形を取ります。しかし、建物内部の仏たちは、中心から外に広がっているように描かれます。これは、マンダラの中心に位置する仏の視点から、周囲の仏たちが描かれていることを表します。航空写真のように世界全体を「見下ろして」いるのではないのです。ヨーロッパ的、あるいはキリスト教的な世界観では、世界は被造物であり、客体であり、神はその外に位置しています。まさに「神様が地球を見下ろすような世界」です。これに対して、インドでは神は世界に内在します。あるいは世界が神そのものです。そうすると、視点は世界を見下ろすところにあるのではなく、世界に含まれて、その中心に位置します。マンダラを媒体として、われわれは仏と同一であることに気付くというのが、マンダラを用いた儀礼のポイントなのですが、それが世界をどのように表すかという問題と密接に結びついているのです。なお、ボロブドゥールは中には入れません。人々は周囲をぐるぐる回りながら、世界の頂点にいたります。これはインドのストゥーパの崇拝と同じ方法です(上にはあまり登りませんが)。これに対して、ヒンドゥー教の建築は、全体が世界や宇宙を表すとともに、人々はその内部にはいることができます。世界に包まれるというのは、人間にとって母胎回帰の本能のようなものですが、それと同時に、人が神と出逢うことも可能にします。寺院内部が神の世界であるのは、容易に理解できるはずです。

ヴァーストゥプルシャ・マンダラをスライドで見たとき、ドキッとしてしまいました。よく見ると、上半身はうつぶせで、下半身が仰向けの格好に見えるのですが、どっちなのでしょうか。実在論は属性を取り除いても実体が残るというので、西洋哲学の二元論のようなものかなと思います。どっちも難しいです。
ヴァーストゥプルシャマンダラは、インドの宗教建築の神秘的な図像として古くからよく知られていて、とくにその象徴性が研究者たちによって論じられてきました。比較的、後世の神話では、建物を建てる敷地に相当するヴァーストゥプルシャは、しばしば空中を浮遊するため、それを固定するために、ヴァーストゥプルシャの体の上の所定の場所に、神々が乗ったと説明されます。そのため、実際の敷地は碁盤目状に区切られ、各区画に神々がとどまっていることを、儀礼の中で確認します。授業で紹介したスライドでも、インドの文字で神々の名前が記されていました。この解釈も、カオスであるヴァーストゥプルシャが、神々の集団によって固定されることで、コスモスに転ずると解釈できます。しかし、私はこれは後世のこじつけで、本来、世界全体を人体で表現したヴァーストゥプルシャと、神々の配置図を組み合わせた結果、生まれた神話ではないかと思っています。ヴァーストゥプルシャがうつぶせに見えるのは(下半身もそのつもりで描いているようです)、ぷかぷか浮かぶヴァーストゥプルシャを、神々がうつぶせに地面に押さえていることを表すそうです。ヴァーストゥプルシャにとってはいい迷惑ですが・・・。インドの実在論は西洋哲学の二元論とは異なると思います(二元論をあまりよく知らないのですが)。属性を取り除いても実体が残るというのは、われわれにはわかりにくいことです。形も大きさも色も、そしてそれがたとえば「壺であること」という要素も取り除かれて、それでもそこに何かあると考えるのですから。しかし、そうすることによって、たとえば、壺があるように見えても、それは壺そのものが存在するのではなく、壺という形、大きさ、色、重さ、壺であることなどの集合体でしかないのではないかという主張を否定することができるのです。属性のみしかない、すなわち、そこには実体がないということは、むしろ、われわれの日常生活の常識と矛盾することです。ヴァイシェーシカ学派の二元論は、存在物を有限個の要素にわけてとらえ、しかもそれがすべて実在するという点で、現代的な考え方とも言えるでしょう。それにくらべて、仏教の「空」などは、よほど特別な神秘主義的な世界のとらえ方です。

立川武蔵氏の文で「この水平の説明のために、インドの伝統にならって、ふたたび壺を取り上げたい」とありますが、インド人にとって、壺はどのような存在なのでしょうか。
「水平」というのは、水平感覚とかの水平ではなく、世界をとらえる枠組みのような意味です。壺については、別に壺でなくてもいいのですが、壺がインド人にとってもっとも身近なモノのひとつだったのでしょう。われわれなら、鉛筆とか消しゴムとか、あるいは授業で用いたチョークでもいいですし、皆さんならばケータイとかでもいいです。壺は形がシンプルですし、落とせば割れますし、中には空間がありますし、句義の説明になかなか便利です。知り合いに聞いた話ですが、その人の友人に、このニヤーヤ・ヴァイシェーシカの研究をしている人がたまたま3人いて、この「壺」のことを、ある人は「壺」(つぼ)、別の人は「瓶」(びょう)、そしてさらに別の人は「ガタ」(サンスクリットでつぼを表すことば)という言葉を用いて、それぞれ別個に実体や属性などのカテゴリーの説明をその知り合いにしてくれたそうです(この分野の人は、この手の説明が大好きで、頼みもしないのによく説明してくれます)。そのため、その人は、3人がそれぞれ別のモノを指しているとずっと思い込んでいたそうで、それにしてはみんな同じような説明をするなぁと思っていたそうです。インド人にとっては身近な壺も、日本人にとってはかなり特殊なモノなのです。

「壺性」までなくなったら、もう実在性とかいう問題ではないと思いのですが・・・。ヘビで秩序を表現するのは斬新だった。このころは他にも動物をモチーフにして概念を表すものはあったんでしょうか。
「壺性」がなくなっても、そこに実体や関係、無などがあるところに、ヴァイシェーシカ学派のおもしろさがあります。もちろんいずれも実在です。ちなみに、実在するものにもすべて「実在性」という属性(普遍)があります。こうなると、もう何が何やらわからなくなります。ヘビ、つまりヴァーストゥナーガが秩序を表すというのは、インド人が自分で説明しているわけではありません。あくまでも、われわれ(というか私)が、ヴァーストゥナーガの機能や形態から、そのように考えるとわかりやすいということです。一般に、概念を表すためにイメージを生み出すのではなく、はじめにイメージがあって、それが特定の概念や意味に収斂していくようです。なお、ヴァーストゥナーガはヴァーストゥプルシャ(つまり人間)のヴァリエーションのようなものと思っていますが、かなり広がりをもっていて、北東インドからネパール、チベットまで用いられていたことが、文献や資料から確認できます。以前、私の友人でこの分野の第一人者だった小倉泰氏が「ナーガではなくて、エビの例がある」と教えてくれましたが、「ヴァーストゥ・エビ」のようなものを説く文献や資料には出会っていません。小倉氏は10年ほど前に急逝されてしまいましたので、どこに載っているのかは永遠の謎になってしまいました。ヴァーストゥナーガについては「ヴァーストゥナーガに関する考察」という論文を、以前に書きました(『東京大学東洋文化研究所紀要』142: 219-263)。わたしのHPでも公開しています。

無のカテゴリーというのが気になります。存在の否定が無ならば、私たちは無数の無を持つことになりそうですが、逆に言うと、無数のカテゴリ、実体を持ちうる(持っていて無に否定されている)ということになるのでしょうか。
無数の無を持つというのは、正しいと思います。存在しているもののすべてに、その無が対応することになりますし、絶対に存在しないものも考えられます。そのすべてが無として実在しているという前提で、無というカテゴリーを立てています。そうすると、たしかに世界は無数の無で満ちあふれてしまうような気がしますが、おそらくそうではないのでしょう。ヴァイシェーシカ学派のダルマ・ダルミンの関係は、先週紹介したような図を用いるとわかりやすいのですが、これは日本人の研究者が用いているだけで、インドのヴァイシェーシカ学派で伝統的に用いられていたりするわけではありません。ダルマ・ダルミンをふたつの長方形と、それをつなぐ一本の線で表すと、それを基本として、世界は無数の長方形と線で網の目のような、あるいはモザイクのような構造を持つような気がしますが、それはヴァイシェーシカ学派の人の持つ世界のイメージではなかったようです。ダルマ・ダルミンというのは、どちらかというと関係としてとらえられます。そのため、後世のヴァイシェーシカ学派では、世界がどのような構造を持っているかということよりも、世界がどのような関係で成り立っているのかということに、より強い関心が示されました。それでも、単なる関係ではなく、関係それ自体が実在しているということは、徹底しています。

たとえば宇宙はビッグパンで生じた(とされる)けれど、ビッグバン以前には「宇宙は存在しない」ということが「存在した」ということでしょうか。宇宙は広がり続けていて広がっていくその外側には「何もない」ことが「存在する」のでしょうか。では、私が生まれる前には「生まれていない私」が存在していて、私が死んだら「死んだ私」が存在して、私が生まれていなかったら「存在しない私」が存在しているんですか。
句義のひとつの「無」は、「壺が壊れる」というような客観的な存在としては理解しやすいのですが、ご質問のように、自分に関わる問題になると、違和感を覚えるかもしれません。自分のまわりのものや人間は、壊れたり亡くなったりすることで、無に帰してしまいますが、自分自身のこととなると、そのように割り切ることに抵抗を覚えます。宇宙全体も同様です。認識主体である自分自身がいるからこそ、世界(宇宙)は存在するのであると思えるからです。自分が死んだ後も、世界がほとんどそのままの状態で存在するということは、推測としては成り立ちますが、確信は持てません。かといって、「死んだ私」が存在しているのであれば、その「私」は世界を認識するような存在であるかも、わかりません。

唯名論は観測する主体ということが大きい意味を持つと思う。では、観測者がいなくなったら、そこに世界は存在するのか?と考えたとき、一方、観測の対象となるもの、元素なり、概念なり、原子とか分子とかいった物理的なものなり、は存在するのだろうか?それすらも観測者の概念によって存在するなら、そも空間なんてものはないということでしょうか?しかし、その虚無の世界に観測者というものがいること、私たちの意識があること、それは矛盾ではないでしょうか?存在=空間の占有なのか?空間の占有ない存在はあり得るのか?仏教的にはどのような説明がされているのですか?観測者がいなくなると意味がなくなるので、ただ、どろどろした原子の空間が永遠に広がっているというイメージなら、何となくつくのですが・・・。
すぐ前のコメントと同様、宇宙が存在することと宇宙を認識(観測)することを、同じであるか別であるかが問題になるようです。仏教の場合、とくに大乗仏教の中観派と呼ばれる学派では、観測者も観測者が占める空間も実在しません。しかし、これはとてもラディカルな考え方で、仏教も含めインドの思想の多くは、空間は実在するということを前提にしているような印象を、私は持っています。あるいは、究極的には実在しないという立場でも、他のあらゆるものの存在が否定されても、空間はその直前まで残るようです。その場合、時間よりも空間の方に重点が置かれています。仏教の空間については、今回の授業で取り上げるので、またいろいろ考えてください。この回答も暫定的なものです。


(c) MORI Masahide, All rights reserved.