仏教の空間論

2006年4月23日の授業への質問・回答


地下6階の井戸の建物を見たときに(先生のジブリの話の前に!)宮崎駿アニメを思い出していました。宮崎駿の話の中で、よく「水に沈んだ古代文明」の建物が出てくるのですが、そのイメージとそっくりだったのです。階段井戸はどうして作られたのでしょうか。あそこまで深く掘らなければ水が出なかったのですか?それとも別の目的かあったんでしょうか?
はじめに写真を紹介した階段井戸(Step Well)へのコメントがたくさん見られました。今年の教養の授業でも見せたのですが、そこでも反響が大きかったです。私もあの遺跡に行ったときはおどろきました。建物というのは上に伸びるものだと思っていたのですが、それを逆にしたような構造なのです。教養の授業での受講生のコメントで「現在の建築と言えば、積み上げて上方に大きくしていくものですが、その常識にとらわれなければ、重力に逆らわず、下に建物を取っていくという考え方も不自然ではなかったのかな」というものがありました。工学部の1年生ですが、こういう場合、理系の人の発想はなかなかするどいです。「建築とは重力との戦いだ」ということばを聞いたことがありますが、地下に掘れば、戦う必要があまり無いわけです。インドには岩山を掘って作られた僧院や寺院がありますが(たとえばエローラのカーラーサナート寺院)、それも同じ発想なのでしょうね。階段井戸の目的はよくわかりません。授業でお見せした階段井戸はヒンドゥー教の寺院としても機能しているのですが、本来はイスラムの建築様式で、水が少ない砂漠地方で見られるようです。実用的な井戸ですが、その一方で、国王の即位儀礼なども行うようで、政治的、宗教的な儀礼の場でもあるようです。ただし、私はこのあたりのことはあまり詳しくありませんので、パタンの階段井戸に関する詳しい研究書を紹介しておきます。写真も多数収録されています。
Kirit Mankodi. 1991. The Queen's stepwell at Patan. Bombay : Franco-Indian Research

・階段井戸はいったい汲み上げるときはどうするのだろう。上からつるべを投げ入れて引き上げるのか、バケツリレーのように階層ごとに運んでいくのだろうか?それにしても巨大だし、井戸だからといって、細部にまで手を抜かないあたりがすばらしいと思う。
・伏見神社の鳥居にしろ、イスラム様式のアーチにしろ、幾何学的なものが連なる下を通っていくと、やはり何かしら不思議というか、静謐な気持ちになってくる。これはトランス状態をもたらすことを少しを意図しているのだろうか。
・ジブリに限らず、母胎回帰と再生というテーマは、日本のアニメや漫画(SFもの?)でよく取り上げられるものだと思う。「もののけ姫」も自然を母胎として考えることができるのかもと思う。単に自然破壊への警鐘なのかもしれないが。
階段井戸の水の汲み上げは、つるべ方式のようです。パタンではすでに無いようですが・・・。幾何学的な模様がトランス状態を生み出すというのは、たしかにあるかもしれません。それと同時に、幾何学的な模様は、しばしばその建築を生み出した宗教の教理、とくにコスモロジーや世界の構造、基本的な原理などの影響を強く受けます。もちろん、それも「通過することによる変化」を生み出すことになると思いますが。トランスを生み出すためには、むしろ旋回などの運動の方が効果的かもしれません。「母胎回帰」は授業でも紹介したように、子どもの物語の基本にしばしば見られます。私の乏しいジブリ体験ではよくわかりませんが、トトロにおける母親の不在と、家を含む空間の神秘性は、どこか通じているというか、代替となっているような気がします。トトロを発見したときに、木のむろのようなところ(=産道)を通過することや、ネコバスがその体内(=胎内)にサツキを入れることなどもあげられるかもしれません。たぶん、こういうことはジブリのアニメの解読本などですでに指摘されているのでしょうが。

空間≒世界であるように感じた。それゆえ、子どもの「世界観」と大人の「世界観」では、空間の認識に違いが出てくるのではないか。ジブリアニメが「母胎回帰」をテーマにしているといったような話が出てきたが、「日常?非日常」を行き来するのは物語の型のひとつなので、あまり母胎云々は関係ないのでは・・・と個人的に思う。母胎=日常という解釈なのでしょうか。
空間と世界の関係はいろいろあると思いますが、この授業ではどちらもまとめて「空間」と呼んでおきます。どちらかというと、「世界」という語には哲学的な意味を持たせることもあります。子どもと大人の世界観の違いは、空間が構造を持ち、非連続的であることのわかりやすい例として取り上げました。宗教的な空間は、科学的、合理的思考に慣れた(あるいは麻痺した)大人よりも、子どもの方が感じやすいからです。子どもによる空間認識という問題は、これからの授業ではあまり登場しませんが、心理学的な発達や、文学作品における子どもの視点など、いろいろな分野と問題が共有されるような気がします。母胎回帰については上でも取り上げましたが、さまざまな解釈が可能でしょう。「日常?非日常」という対立の中では、「母胎=日常」という図式も成り立つと思いますが、イニシェーション(入門儀礼)のような場合、儀礼の期間や場が、母胎の中で過ごすというメタファーでできていることもあります。その場合、母胎が非日常になります。

Webページで見せていただいたときに、寺院の彫刻で水牛を殺す女神の像がありました。ヒンドゥー教では牛は神聖なものだと聞きますが、この像にはどういった意味があるのでしょうか。
この女神はマヒシャースラマルディニーといって、授業でも紹介したように「水牛の悪魔を殺す女神」という意味です。水牛と牛は似て非なるもので、牛はおおむね神聖な動物としてあつかわれるのに対して、水牛はどちらかというと「悪しきもの」のイメージが強いです。マヒシャースラマルディニーが活躍する神話は、水牛の悪魔が神々(もっぱら男性の神)を征圧し、世界を支配している暗黒時代に、美しい女神が登場し、この悪魔を殺戮するというものです。『マールカンデーヤ・プラーナ』というヒンドゥー教の聖典の一部『デーヴィーマーハートミヤ』という文献で語られています。これは平凡社の東洋文庫に含まれる『ヒンドゥー教の聖典二種』として翻訳が発表されています。インドの神話を紹介した『インド神話』(東京書籍)や『ヒンドゥーの神々』(せりか書房)にも簡単なあらすじが含まれます。

建造物やマンダラ、とてもきれいだと感じました。こうは思ったんですが、なぜ日本では巨大建築とならなかったのですか。土地や材料の問題なんでしょうか。マンダラも日本ではそれほどメジャーではないように感じられます。
日本における巨大建築物の不在の理由は、この授業の中でみなさん自身で考えてみてください。日本人の世界観や、聖なる空間のイメージに密接に関わると思います。マンダラが日本でメジャーではないというのは、正しいとも正しくないともいえるでしょう。インド以来の密教の正統な曼荼羅(両界曼荼羅)は日本では固定化して、あらたな形態を生み出しませんでしたが、別尊曼荼羅という特別な密教の曼荼羅は数多く現れました。神道、修験道、浄土教、そして民間信仰などでもさまざまな曼荼羅が作られました。そこにも、日本人の世界観の反映が認められますが、これについては昨年度の同じ仏教学特殊講義のテーマでしたので、これ以上は省略します。授業の内容は、以下の小論として発表していますので、関心のある人は参照してください(比較文化の研究室にあります)。pdfファイルもHPにアップしてあります(仕事の中の一覧と、マンダラ研究の2か所)。
 森雅秀 2007 「日本人はマンダラをどのように見てきたか」『点から線へ』第50号 pp. 78-102.

空間というものが、ただ一続きになっているものではなく、その場所、その場所において、意味を持たされていて、それぞれに別の特殊な空間になっているということだろうか。その特殊性は、たとえば個人のその場所での思い出などに由来する個人的なものがあるようだが、他にどのような形で特殊性は発生するのだろうか。「聖なる」「俗なる」というのは、その宗教に関わる場合にのみ発生する空間の特殊さと見ていいのか。また、空間に特殊性を見いだすのではなく、その空間にいることで、何か影響を受けていることがあるとすれば、それは特殊な空間という言い方ができるのだろうか。
質問のほとんどはそのとおりでしょう。ただし、個人的な空間のみが「聖なる空間」ではないでしょうし、宗教に関わるものだけが空間を「聖なるもの」として感じるわけではないと思います。ひとつの文化や民族、共同体などが共有するような「聖なる空間」もあります(皇居、武道館、土俵など)。空間の内部に含まれることと、空間を外から観察することも、空間を体験するときには重要な違いになるでしょう。質問の多くは半期の授業の中で取り上げる問題です。ぜひ、ご自身で積極的に答えを見つけていってください。

同じ「仏教」を信仰していても、建造物の様相はずいぶんと異なるのだなと思った。その世界観を構築するにあたり、その土地ごとの風土や人間性が関係しているのだろうが、そういったことを考えるのもおもしろそうだと思った。
そのとおりで、おもしろいです。その一方で、風土や人間性を越えたところで、普遍的な要素が見られることも重要でしょう。

聖なる空間を生み出すことによって、世界や宇宙の構造が見いだされるという点が、基準にするひとつのものを決め、それと他のものを比較し、区別するという考え方なのかと思った。具体的に何も決めず、ただ人が生きているだけの世界は、世界とはいえないものかと思った。
世界を階層化することによって、世界の構造を把握するということでしょう。基準にするものがしばしば世界の中心となることから、エリアーデはとくにそのような儀礼や神話に注目するのです。世界の構造はスタティック(静態的)なものではなく、ダイナミック(動態的)に展開することが重要です。「ただ人が生きているだけの世界」というのは、実際はありえないという気もします。人間はどんなに合理的に生きているつもりでも、どこかに非合理的な要素をかかえているはずなのですから。


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