仏教文化論 仏教の信仰と美術
弥勒・文殊・普賢

2007年1月25日の授業への質問・回答


 今期の仏教文化論「仏教の信仰と美術:弥勒・文殊・普賢を中心に」も、1月25日に無事終了しました。ごくろうさまでした。いちおう、当初の予定どおりに進みましたが、最後の普賢が若干、物足りないという思いがあります。弥勒、文殊、普賢という3尊をとりあげたのは、大乗仏教の重要な菩薩で、しかも、ある程度共通性があるからですが、それと同時に、それぞれ単独では半期の授業はもたないという理由もありました。その中で、弥勒は比較的エピソードに富むのですが、文殊や普賢は、それ自体の信仰があまり明瞭ではありません。作例はかなりありますが、それだけを紹介してもあまりおもしろくないので、文殊の場合は真言律宗において理想の救済者として重視されたこと、普賢は延命法の主尊として、そこに見られる性的なイメージの源泉などについて取り上げました。3尊のまとまりをつけるために、最後は釈迦信仰を中心において、その補完的な役割を3尊が果たしたという構図でまとめましたが、ほかにもいろいろな考え方ができると思います。大乗仏教の菩薩としては、観音が一番重要ですが、すでに2年前の授業で取り上げたこと、弥勒等の3尊とはかなり性格が異なることなどの理由で、ふれませんでした。観音については『仏のイメージを読む』の第1章で取り上げているので、関心のある方は読んでおいてください。また、地蔵も重要な菩薩ですが、日本の地蔵信仰はさまざまな民間信仰と習合しますので、そのあたりも十分調べてあらためて取り上げたいと思っています。
 受講生の皆さんの顔ぶれは多彩で、文学部の3学科にまたがっていますし、教育学部からも大勢受講してくれました。経済学部の方もいらっしゃいます。それぞれ、基礎知識はさまざまで、よくわからない、話について行けないという方も多かったかもしれません。私自身、教養の授業などにくらべて、すこし複雑な話になったと思っています。しかし、大学の授業で、しかも自分の専門と異なる分野の講義が、すべて簡単にわかるわけはありません。わからないと感じつつも、いろいろ疑問に思い、何とか理解しようと努力すること、あるいは、自分の分野でも使えそうなアイディアを見つけることが、重要だと思います。
 以下はいつものとおりのQ&Aですが、最後なので、全員のものを掲載しました。そのため、私のコメントはあまりありませんし、あっても比較的短めです。


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普賢の文殊化というのは、やはり、文殊の方が日本の風土になじみやすく、信仰が盛んだったということを表しているのでしょうか。ウルヴァシーとプルーラヴァスの話で、落雷で子どもを身ごもる→それが火というのがなるほどと思います。裸身を見る事ができないのに、子どもを身ごもるというのもおかしな話だと思ったので。そういう矛盾はよくある話なのかもしれませんが。しかし、このあたりの文章は表現が生々しくて驚きました。

スライドの中で、円山応挙の絵が出てきたのでとても驚きました。普賢だけではなく象も色っぽいですね(カラーでぜひ見てみたいです)。授業を通して、今まで触れたことのない分野だったので、新鮮でおもしろかったです。とくにスライドでたくさんの仏教芸術作品を見るのが、毎回楽しみでした。仏については個人的に文殊の存在が「異邦人」というイメージがあって、興味深かったです。あと、レポートの提出がテストとかぶらないのでとてもありがたいです。十分に調べたいです。授業ありがとうございました。

まとめを聴いて、それぞれの仏の性質を今一度知ると共に、その相互の関連をうかがうこともできた。

最後のまとめがわかりやすかったです。善財童子によって文殊と普賢がつながるという見方に驚きました。また日本の民間信仰に消化されていく過程で、普賢が女性化していったということについて、やはり安らぎを求め何かを信仰する際には、男性的なイメージより女性的イメージの方がふさわしいと感じ、自然とそうなっていったのではないかと思いました。

なぜ仏教は数を増やしたがるのでしょうか。インド哲学の思想(アートマンとブラフマンの同一視)と関係がありそうですが。
インドの宗教は仏教もヒンドゥー教も神や仏をたくさん生み出していきます。梵我一如の思想を、唯一なるもが、さまざまな姿をとるという考え方ととらえると、たしかに通じるものがあるかもしれません。

授業内容にはまったく関係ないことですが、教室が暑い上に、空気が悪くてつらかった。舎利を納めた仏塔も弥勒の大事なイメージとなるのですか。(舎利自体ではなく、仏塔が重要なものであるのかということ。)
私もどちらかというと「暑がり」なので、教室が暑いと思いましたが、これは個人差があるので、皆さんの方で調節してください。ちなみに、受験のときには開始直後にヒーターを切ることになっています。授業でもそうするといいのかもしれません(教室の前のヒーターは切っていました)。仏塔が弥勒信仰と結びついて重視されるのはそのとおりです。また、舎利ではなく仏塔が重要というよりも、舎利をその内部に含む仏塔そのものが重要になったと見るべきでしょう。

清凉寺にある「生身の釈迦」のお話はたいへん興味深かったので、詳しいことを伺えなかったのが残念です。
清涼寺の釈迦像は、日本の釈迦信仰を知る上できわめて重要な作品です。以下のような研究もあります。
『釈迦信仰と清凉寺』京都国立博物館1982。
石原 明 1975 「清涼寺釈迦立像納入の内臓模型」『MUSEUM』293: 27-34.
石原 明 1975 「清涼寺釈迦立像納入の内臓模型(続)」『MUSEUM』289: 15-20.

法華経と般若経と弥勒系経典の関係が分かった。

釈迦三尊像において、釈迦と文殊の結びつきはよく分かりましたが、釈迦と普賢の結びつきはよく分かりませんでした。しかし、文殊に対の概念を適用すればやはり適するのは、普賢なのだろうと思いました。けれど、スライドでの次第に普賢が文殊化していくのを見て、対とされるべきが類似してしまうというのも、また面白いと思った。また女性的なイメージが付与されてきたことには、観音菩薩の流行による影響もあったりするのでしょうか。
私も、普賢と釈迦との結びつきは、じつはよくわかりませんでした。釈迦像の左右に文殊と普賢が置かれることと、文殊と普賢が似ていながらも系統が異なり、補完的な関係にあることとを、結びつけて考えました。広く菩薩に女性的なイメージが現れることに、観音が影響を与えたことも、そのとおりだと思います。文殊の場合は「少年」という、中性的なイメージもあると思いますが。

今までの講義で弥勒、文殊、普賢をそれぞれ別々に考えていました。けれど、これからの3人の仏は釈迦の化身と考えられることもでき、それぞれの関わりをとらえなければならなかったのではないかと思いました。

女性を侍らせていた男らしい普賢が、文殊と同一化して文殊よりも女性らしくなってしまったのが面白かったです。

今日みた釈迦などの仏がたくさんいた絵は、キリスト教やギリシャ神話にも似たような絵があるような気がしました。

今まで弥勒とか文殊とか、あまり分かっていなかったが、この授業で大まかながらそれぞれの違いについて理解しました。レポート頑張ります。

「元帥」が仏教語とは知りませんでした。

今日の今までやった3つの仏のまとめにより、講義の内容が少し理解できた。3つとも釈迦に関わりがあり、善財童子の旅など関連性があったのだと気づいた。

遊女のイメージとして普賢が描かれるということについて、先週のセミナー発表を思い出しました。遊女が聖なる存在だとはそこでも説明がなされていたが、この授業でも聞くことになるとは思わなかった。釈迦像にひげの生えた姿が、隣の普賢や文殊の少年的・女性的イメージとは対照的で、印象的だった。八文字文殊菩薩ですが不動かと思った。

毎回思うが仏教はインドの神と混ざっているのでややこしい。

金剛界八十一尊曼荼羅のスライドが、見事な左右対称できれいだった。

これまで内容が難しくわかりづらかったのですが、それだけに最後のまとめはためになしました。重要点を理解し直せた気がします。

今日で最後ですね。個人的にあんまり仏教とかに関心がなくて、授業に集中できなかったし、内容も理解できなかったのが残念でした。あとはレポートをしっかり書いて単位を取ります。

全体の講義を通してですが、仏のイメージは固定されず変化しつつ伝わり、本当に一筋縄ではいかない。そだけに仏の面白さがあると思った。

この授業を通じて、仏教に対する見方が変わりました。半年間ありがとうございました。

神話や宗教の中にみられる雷はやっぱり興味がひかれます。恐ろしいイメージは理解できますが、生命や豊饒のイメージがあることがおもしろいです。

円山応挙図の江口君図は優雅な女性と象がミスマッチで、普賢について学んだ流れで見なかったら、きっと意味が分からないだろうなと思いました。文殊が乗っている獅子は、釈迦三尊図で釈迦のどちら側に位置するかに関係なく、左向き(向かって右向き)だった気がします。たまに正面向きもいましたが、右向き(向かって左向き)はいなかったです。

仏教の世界観の広さには本当に圧倒されます。そのためか各仏同士のつながりが、今一つピンとこないところもあるのですが。そのあたりもレポート作成過程でいろいろ調べてみたいとも思います。

内臓の模型の入った釈迦の像というのは、今まで持っていた仏像のイメージと違っていてびっくりした。

最後の釈迦の話がおもしろかったです。今回は弥勒、文殊、普賢について詳しく学んだので、レポートではまた別の仏について調べたいです。

今日は最後のまとめだった。弥勒、文殊、普賢、その関係性がとても分かりやすくなった。

今日の授業で釈迦、弥勒、普賢、文殊の関係性がよく分かった。文殊と普賢が対になっているのも似通った点があるということが分かった。

最後のまとめで、なんとなくバラバラに思っていた弥勒、文殊、普賢の関係が釈迦を中心にしたものという構造でつながりを持って理解できた。文殊と普賢はモチーフが似通った点が多いのは、もとの概念が対になっていたからなのでしょうか。

前回のセミナーで「宗教とは何か?」というテーマが取り上げられていたので、私も考えてみました。しかし疑問しか残らないんです・・・。とりあえず、宗教は人々の脳の中で生み出されたものですが、それが、ここまで複雑に、深く広がっていく状態はすばらしいものだと思いました。

弥勒、文殊、普賢が皆、釈迦を中心にしていて、日本においてその4つの仏たちは相互に関係が作られていったのだということが分かりました。

最後のまとめを聴いて、仏同士が繋がった気がした。

ただ釈迦の両隣にいるだけだと思っていた普賢と文殊に、対のイメージがあるのは面白いと思いました。また、「仏」のまわりを「神」が囲んでいるというのは不思議な感じですね。今まで神と仏とはまったく関連性がなく、神=西洋、仏=東洋というイメージが、この授業によって一気に変わったように思いました。

釈迦の両脇にいた文殊と普賢が似てくるのがおもしろいと思った。三尊像が釈迦を中心として左右対称的できれいだと思った。両脇が少年になることで、中央の釈迦(成年)が引き立っているようにも見えた。善財童子の旅が、少年から大人への成長とかぶっているのがすごいと思った。帝釈天が象のグループに入っているのを見て、メ百億の昼と夜モという漫画で、帝釈天が戦いの場で象にのっていたのを思い出しました。関係があるかどうか分かりませんが、あったらちょっとおもしろいなと思いました。
萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』(原作は光瀬龍)は、わたしも連載中に読みました(高校生の頃です)。インドの思想や仏教を知る上でも参考になります。あそこに出てくる帝釈天は東寺講堂の像がモデルになっています。主人公の阿修羅はもちろん興福寺の八部衆のひとりの阿修羅像です。

仏教美術は本来のものにさまざまな変化があるので、その流れを理解するのは難しいなと思いました。
その変化や流れがおもしろいところでもあるのですが。

半期のまとめで、今まで学んだことが結びつきました。友達が森先生の授業は面白いと勧めてくれたので、今回初めて履修したのですが、基礎知識がなく難しく感じたところもありましたが、スライドなどとても面白かったです。継続して受講すれば知識が深まり、もっと面白くなりそうだと思いました。

きょう最後のまとめで初めて、なるほどーと全体として理解できたように思います。文殊と普賢が少年→大人という善財童子の旅の話につながっていくのが面白かったです。3つの中で一番面白かったのは文殊です。ぜひまた文殊の授業をして下さい。

ダヴィンチ・コードでも、性的な儀式がかかれていました。地域に関係なく生殖は宗教と関係が深いなと思います。

図像の中の普賢の姿が女性化して行くにつれて、像の顔立ちも目の鋭さがなくなって柔らかくなっているように感じられるのが、面白いと思いました。

懐かしいスライドを見て思ったのは、一番迫力があったのは普賢延命像でした。生身の釈迦像の話が面白かったです。

最後のまとめの関係図ですっきりしました。釈迦のはらわたに興味があります。

普賢の文殊化で没個性という話で、たしかにこの授業に出るまで普賢という仏は、知らなかったと思いました。

今回まとめを聞いて改めて思うところがありました。これをもとにレポートへとつめていこうと思います。

最後のスライドで、生身の像の中身の話がありましたが、中身を確かめるというのはとても「ばちあたり」な気がします・・・お寺の方もよく許したと思いました。
仏像の修理のときなどによく胎内納入品が見つかります。修理をするときには、仏像から魂を抜きますから、ばちあたりにはなりません。最近はエックス線で胎内を確認することもできます。

弥勒と普賢と文殊にも違いがあることが分かりました。

文殊や普賢が手に持っていた「にょい」という木べらのような棒は、孫悟空の持つ如意棒と一緒なのでしょうか。
「如意」とは「思い通りになる」という意味です。孫悟空の如意棒も、思い通りに伸び縮みするところから来た名前でしょう。インドでは如意宝、如意樹、如意牛などいろいろあります。望みどおりのものを生み出してくれる魔法の宝物です。

今日のまとめ、分かりやすかったです。文殊から普賢に至るところの過程が善財童子の出会うところは、すごく面白かったです。

それぞれ別の経典と関係深い仏であっても、釈迦を通してつながっていることが分かり、おもしろいなと思いました。財善童子が文殊と普賢をつないでいるとは、思いもしなかったので驚きました。

まとめの時間での財善童子が知恵者に会う華厳経で、最初に文殊(童子)に出会い、最後に普賢(生命・生殖)に会うストーリーになっているのは、「人が子どもから大人になり、次の世代を創る」という人の大命題を表していると知って一種興奮を覚えました。それ故に、文殊は男性的なイメージがありながら、子に対する母というイメージがあるのかなあと思いました。

今日のまとめで、やっと三つのテーマ「弥勒」「文殊」「普賢」の相関がとらえられた。今までは分からないことが多かったけれど、最後で何とか理解ができた。

半期の間、講義していただきありがとうございました。仏教は身近なようでその用語に関してはほとんど無知だったり、あいまいに理解していた。この授業で、内容は僕にとっては難しかったが、観音、文殊、弥勒について知ることができ、講義を受ける前より身近になった気がする。授業の内容をなかなか理解するに至らなかったが、これから機会があれば、少しでも仏教の世界に触れたり考えてみたりしたいと思う。まずその一歩として、期末課題にしっかり取り組みたいと思います。ありがとうございました。

最後のまとめの図(位置関係など)非常に分かりやすかったです。この講義を受けて、忘れかけていた仏像などに対する関心、仏教美術の作品などを見る楽しさを思い出すことができました。さらにその作品の背景やその時代の特徴、人々の信仰とのつながりを知り、新たな興味がわきました。またこういった授業があれば受けてみたいです。

仏伝図なんかに出て来るヤクシャは夜叉ですが、夜叉と薬者はまた別ですか。金剛薬者と文殊師利が確か同じだったと思うのですが、では文殊と薬者は同じなのでしょうか。『普賢金剛薩?修行念誦儀軌』とかもありましたが、何でもかんでもごちゃ混ぜにして全部同体にしてしまうなんて、あとを追う方には何がなんだかわけがわからなくて困ってしまいました。結局、釈迦と弥勒と普賢と文殊その他諸々は、全部同体になってしまうんですね・・・。
夜叉と薬者は同じもので、音写するときの漢字が違うだけです。金剛薬者は金剛界曼荼羅の北の親近菩薩のひとりで、金剛牙だと思いますが、文殊師利は西の金剛利菩薩に相当します。いちおう、別の仏だと思います。仏教の仏が全部同体になるのは、密教の世界で、大日如来のような法身を立てた場合で、大乗仏教ではまだ区別があると思います。特定の仏を同体視するのはそれなりの理由があるのでしょう。

今日の授業はまとめだったわけですが、今日まで弥勒・文殊。普賢の3菩薩を順番にみてきて、これがそもそも仏教の話で、そもそも釈迦が開始した宗教であることを忘れがちでした。あまりにも各仏たちが個性的だったからでしょう。しかし今日のまとめの話は釈迦と関連づけられていて、一応全体に一本筋がいったような気分です。

授業全体を通して仏ごとに様々な性格、機能を持っていたということがわかりました。それらの仏を信仰する人たちは、それぞれの性格を理解していたのでしょうか。ただ崇い存在としてではなく、どのようにどのような仏に頼るべきかということはわかっていたのかということが疑問に残りました。
授業で紹介したような話は、一般の人々には知られていないことが多かったでしょう。しかし、当時のエリートたち(高僧や貴族)には十分理解されていましたし、その知識が国を動かすこともありました。宗教とはそれを受容する人々によって、さまざまな姿を見せるものです。

ウルヴァシーの話で、裸を見ないでどうやって身ごもるんだと思っていたのですが、ガンダルヴァの雷光による火=子どもという解釈になるんですね。普賢の文殊化とありましたが、持物以外の、少年と男性というイメージも混同していくんでしょうか。だから女性化??文殊=智慧で人気がありますが、普賢=・・・?とう感じでイメージが薄いです。かわいそうに。版画がとても美しいなと思いました。釈迦の分身、中身として三尊が入っていたということで、仏がどれだけ増えても、やっぱりそれは釈迦なのかなと思います。
清涼寺の釈迦の胎内納入品に、釈迦、弥勒、文殊、普賢の刷り絵があることに気付いたのは、授業の前日に準備をしていたときですが、その内容が授業のまとめにぴったりなことに、私自身驚きました。授業の準備や論文を書いているときには、このように、ときどき意外なところから、自分のアイディアを補強する素材が現れることがあります。神の啓示のようなものでしょうか(内容は仏教なのですが)。


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