仏教文化論 仏教の信仰と美術
弥勒・文殊・普賢

2006年12月21日の授業への質問・回答


今日のNo. 4の文章にも書いてありましたが、ユートピア志向の阿弥陀や弥勒のアンチとして、現実直視型の釈迦や行基が出てくるのは何となく納得できるのですが、なぜ文殊が出てくるのか、その過程が漠然としていて判然とはわかりませんでした。
仏がどのような働きをするのかに、私は興味があるので、文殊や他の仏たちもそのような視点からとらえることが多くなります。阿弥陀が来世の仏として来迎することや、弥勒が遠い未来にわれわれを救済するために出現することも、その例ですが、文殊の場合、智慧の仏や少年神というイメージよりも、日本仏教では現実世界の救済者として信仰されたことに授業では焦点を当てました。なぜ、文殊が現実志向であるかは、いろいろ理由が考えられますが、大乗仏教の理想的な行者のモデルであったことが重要だったのでしょう。とくに『華厳経』において、善財童子がはじめに出逢った仏であり、その求道の旅を指示する役割を果たしていることがポイントだと思います。実際の求道者は善財童子ですが、その理想像が文殊であり、さらに言えば、善財童子という真摯な少年は、文殊の分身のようなものだと思います。五台山文殊や渡海文殊で、われわれの方に向かって進んでくる姿を文殊がとることも、そのような「活動する菩薩」というイメージと密接に関係します。同じ大乗仏教の菩薩であっても、観音が慈悲の仏として、ひろく民衆の救済者として出現するのに対して、文殊はもう少し異なるレベルで、たとえば実際に仏教の修行をする人や、救済を行う人がモデルとする仏として信仰されたのでしょう。

信じていれば死んだ後に救われるよーじゃなくて、福祉活動など具体的な活動を行ったあたり、ほんとうに現実の今の世界を見てるなと思いました。弱者の人たちこそ、今すぐに救いを求めてるはずです。そんな行基のエピソードなのに、今昔の37は子どもを捨てていて、弱者への偏見が見えるなぁと思いました。ちなみに行基は生きているときから、文殊の化身といわれて(名乗って)たんでしょうか?舎利と王権が結びつくのは知りませんでした。舎利の発見といわれましたが、何をもって「これは舎利だ!」と決めるのでしょうか。
叡尊や忍性が活躍した時代は、鎌倉時代半ばですが、そのころの仏教はいわゆる鎌倉新仏教がほぼ出そろった頃で、仏教が人々の現実の救済にふかくかかわるようになっています。叡尊も忍性も従来の仏教史では「旧仏教」に属していますが、このような「新仏教対旧仏教」という対立軸で当時の仏教をとらえることに、近年では批判的です。いずれも現実の世界との関わりを、それぞれ別の方法や立場でおし進めたに過ぎないからです。これは平安時代の仏教との対比でとらえるとよくわかります。密教も浄土教も、一般の人々の現実の世界とは交わることがほとんどないか、あってもごく限られた状況だけだったでしょう。行基についてはよくわかりませんが、おそらく本人は文殊の化身とは名乗っていなかったと思います。「行基菩薩」として、そのまま菩薩として信仰されてもいました。今昔の話はたしかにひどいのですが、当時の人々にとっての「優れた能力」や「業の論理」は、われわれとはまったく異なることを前提にすべきでしょう。舎利はおおいに王権と結びつきます。授業で紹介したように、鎮護国家の儀礼はしばしば舎利を本尊とします。舎利の発見のときの決める基準や方法もよくわかりません。わかってはいけないのかもしれません。ニセモノの証明のようなものですから。

「仏説文殊師利般涅槃経」の漢文の読み下し分のところで、「〜五百の化仏有り。一一の化仏に五の化菩薩有り」とあります。文殊の図像の中には、五つの髻の上に五人の仏がいるものがありますが、今まであれは仏(如来)かと思っていましたが、経中にあるように、菩薩なのでしょうか。それとも経中の五つの化菩薩と図像での五人の化仏はまったく違うものなのでしょうか。最初の文殊の授業に戻ってしまうようですみませんが。
後の方が正しいようです。化仏をいただくのは観音が有名で、髪の生え際のところに阿弥陀如来の化仏をたいてい飾っています。しかし、本来、化仏というのは仏の化身という意味なので、必ずしも髪の毛のところにあるばかりではありません。阿弥陀が来迎するときにも、まわりに化仏を何人も従えて、やってきます。「仏説文殊師利般涅槃経」の化仏や化菩薩もこれに近いイメージでしょう。ひとりの文殊のまわりに五百の化仏が現れ、それを五人ずつの菩薩がとりまいていることになります。5という数が強調されるのは、文殊にとってそれが重要な数だからです。文殊の五つの髻の上に表される五人の仏は菩薩ではなく、五如来です。これは密教系の文献に規定があります。密教ではしばしば五智如来という五人の仏が、他の仏の宝冠に表されます。文殊もこれにならい、ちょうど髻が五つあるので、ひとりずつそこに載ったのでしょう。

叡尊らの時代、ハンセン氏病患者は非人とされていたという話ですが、こうした差別が仏教観にも関係しているとは驚きました。彼らを仏罰を受けた存在とするなら、途中から感染、発症した人も、何らかの悪行を行ったということになるのでしょうか。前世の悪業ならば、もっとはやく発症しているはずであり、また現世でも悪業らしきことを行っていない場合、矛盾が生じませんか。また、いったん感染してしまうと、貴族、皇族などでも差別の対象になったのでしょうか。
病気の歴史については、おそらくいろいろ研究があると思いますが、基本的な考え方として、われわれの持っているような現代的な疾病観や治療法は、この時代にはまったく適用できないということが重要でしょう。病気になるのは病原菌やウィルス、あるいは精神的なストレスなどではなく、怨霊やモノノケ、そして悪業によるのがあたりまえでした。そのため、病気とその原因との間には科学的な因果関係などは不要で、論理的な矛盾とかが問題になることはなかったでしょう。皇族や貴族がハンセン氏病患者になった場合、どのような状況に置かれたかは、私自身よくわかりませんが、何らかの差別があったでしょう。この病気がとくに恐れられていたことは、遠い昔の話ではなく、ごく近年まで続いていましたし、不幸なことに、現在でも完全には払拭されていないでしょう。

舎利が増えるというのは言い訳にしか聞こえなかった(偽物が多々あることの)。世界にある舎利がすべて本物だとすると仏陀はゾウのような巨人になる(うろ覚え)とか、キリストの処刑に使われた釘がごろごろあったり(たしかそんな話もあったように思う)など、宗教が権力(聖遺物の所持は、同業者及び民衆へのアピールになるはず。結果、宗教の勢力が拡大されると考える)を欲して、頽廃するのは必然にも思える。それ故に偶像崇拝を禁じる宗教が出てきたのだろうかなどと考えた。
舎利が増えることに疑問や否定的な考えを示したコメントが多く見られました。もちろん、現実にはそんなに簡単に舎利が増えるはずはありません。世界にある舎利が本物だとすると云々、という指摘はそのとおりで、たぶん一頭のゾウでは収まらないでしょう。インドから中国への重要な輸出品が舎利だった時代もあります。宗教が権力と結びつくときに、そのような聖遺物がたくみに利用されたこともたしかですが、だからといって頽廃するとも限らないと思います。むしろ、そのような「増えるはずがないもの」が現実に増えたと人々が信じたことに、私は興味を覚えます。なぜ増えなければならなかったのか、増えることによって人々に何をもたらしたのか、というようなことがそこからわかるからです。なお、偶像崇拝の禁止と聖遺物の氾濫は、すこし次元が違うという気がしますが、偶像崇拝にも私は関心がありますので、皆さんもいろいろ考えてみてください。

善財童子の目のキラキラは玉眼で、鎌倉時代にはやったということですが、玉眼を使った他の仏像(有名なもの)はどのようなものがありますか?他の時代にも使われていたのでしょうか。
平安時代の終わり頃にも玉眼が用いられたことは少しあるようですが、平安末から鎌倉初期の慶派によるものが本格的なはじまりです。慶派の彫刻は写実的と形容されることも多く、実際の眼の輝きが、玉眼の水晶によって表現されます。私の知っている玉眼のすぐれた使用例は、高野山の八大童子像で、運慶作です。善財童子もそうですが、少年の目のキラキラした輝きに、玉眼はぴったりの表現方法です。玉眼を入れるときには、一度、顔を前面から数?のところで切り離し、中から入れます。なかなか、作り方はグロテスクですね。なお、玉眼ではなく、もとの木材を眼の形に彫ることを彫眼といいます。

舎利が治世の状態を表すバロメーターというのが、どういうことかよくわかりませんでした。宝珠を舎利として儀式を行うというのは、別に舎利がなくても宝珠があれば、仏舎利塔は建てられるということですか。舎利の基準って何なのでしょうか。僧がそれは舎利だといえば、舎利になるのでしょうか?だとしたら、舎利が多いと世の中がよくなるというのは虚言で、単に仏舎利を増やし、舎利信仰をさかんにするための手段なのでしょうか。
すでに上で述べたことの繰り返しになりますが、たしかに虚言であり、単なる手段でしょうが、実際に歴史的にそれが信じられたことが重要だと思います。「舎利がバロメーター」というのは、わかりにくい表現だったようですが、その背景として「舎利とは増えるもの」であり、「増えなければならないもの」だったという仏教の基本的な考え方があります。このあたりは昨年刊行した私の『仏のイメージを読む』の第四章で、くわしく書いておきました。「舎利が増えるなんて信じられない」という人にこそ、ぜひ読んでほしいと思います。舎利がわかれば仏教の本質がわかります。

奈良国立博物館に行ったときにあった舎利容器がたいへん美しかったことを思い出した。「舎利信仰」というのは、舎利自体ではなく、その力だとか国家とのつながりに意味があって重視されるというのが、何となくでしかつかんでいなかった部分なので、勘違いが解けた。舎利容器が塔の形をしていたり、特定の場所に置かれるのは、そういった舎利の持つ力と社会との結びつきを象徴するためなのかと(舎利自体を守るというだけでなく)思った。
奈良国立博物館にはすぐれた舎利容器のコレクションがあるようです。叡尊が開いた真言律宗の総本山は西大寺で、奈良市の中心にあります。奈良博で以前「仏舎利と宝珠」というテーマの特別展が開催されたときには、地の利を生かして、授業でも紹介した国宝の西大寺舎利塔も出展されていました。地味な展覧会だったようですが、舎利信仰に関心を持つものには、とても興味深い展覧会でした。


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