仏教文化論 仏教の信仰と美術
弥勒・文殊・普賢

2006年11月16日の授業への質問・回答


入定の説明のときに定期的に髪を切ったりすると言っていた気がするのですが、実際に生きているわけではないので、他の人の髪を切ることになるのでしょうか。それとも切ったことにするだけで、実際には何もしないのでしょうか。
どのようにするのでしょうね。私にもわかりません。真言宗の僧侶になって、出世して、その儀式の役に就けばわかるかもしれませんが、望みはないでしょうね。あくまでも儀式なので、おそらく「切ったことにする」といったところでしょう。そのほかにも、朝晩、入定中の弘法大師に食事をお出しするという儀式も、毎日行われています。「髪が伸びる」ということを、とくにクローズアップしている点も興味深いです。入定中であれば他にもいろいろな身体的な変化が起こると思いますが、とくに髪の毛が重要であることに意味があるようです。別の授業で五劫思惟の阿弥陀とよばれる阿弥陀像を紹介しましたが、それも五劫という長い間、思惟し続けた阿弥陀を表すために、髪の毛を異常なまでに伸ばしています。伸ばすといっても、仏の髪の螺髪なので、アフロのようです。時間の経過と、そこでの身体的な変化が、髪の毛に象徴的に表されるのです。手塚治虫の『火の鳥』の中に、ほとんど無限の生命を持った主人公が登場して、何億年も生きていくのですが、やはり髪の毛やひげを長く伸ばす姿で描かれています。なお、弘法大師の伝記絵の中で、髪の毛の伸びた大師の髪を剃る場面が見つかりましたので、今回配布します。

末法思想というと、「山越阿弥陀図」や「聖衆来迎図」などを枕元に飾って極楽浄土へ連れて行ってもらうというのがあったと思う。そこでは、阿弥陀が中心に信仰されているので、今日の弥勒信仰のように、さまざまな信仰の形があるのだと思った。
一般に末法思想は浄土教と密接に結びついているので、阿弥陀を中心とした信仰と思われていますが、実際はもっと複雑で、重層的です。前回の授業で紹介したように、藤原道長の経筒の文言からも、阿弥陀の極楽浄土への往生に加え、弥勒信仰が、その信仰世界の重要な位置を占めていたことがわかります。阿弥陀信仰と弥勒信仰は、相互補完的な関係にあったのでしょう。また、明恵の臨終行儀も紹介しましたが、明恵といえば法然に対して批判的な立場を取ったことで知られていますが、弥勒が来迎することには何の疑いも持っていなかったようです。仏教美術の分野では、平安時代の仏教は、法華経、密教、浄土教の三者が重要で、しかも重要度もこの順序になるといわれています。高校までの日本史では、平安後期の仏教はほとんど末法思想=浄土教で、そこから鎌倉新仏教につながっていくという説明がなされているようですが、実際はそれほど単純ではないのです。とくに、もっとも重要と見なされている法華経の信仰は、そこでは取り上げられることすらないようです。

真言を唱えるとありますが、真言はあまり意味のないことばで、唱えることに意味があるというような話を聞いたことがあります。真言って何ですか。また、座禅と真言とマンダラといろいろ出てきましたけど、何派の信仰なんですか。
真言について簡単に説明するのは、なかなか困難ですが、すくなくとも「あまり意味のないことば」ではありません。インドでは古代から儀礼の中でことばがきわめて重要な役割を果たしていました。儀式が成功するか失敗するかも、儀礼を行う祭官の発することば次第でした。このようなことばを「マントラ」といいます。これが真言です。インドではほとんどの宗教が、独自のマントラを有していましたが、仏教でも密教の時代になると多くのマントラが生み出されます。やはり、儀礼の場面で用いられましたし、密教の修行僧が瞑想やヨーガなどを行うときも、独自のマントラが唱えられます。この場合、実際に唱えることが大事ですし、場合によっては、文字の形も意味を持ちます。このような神秘的なことばなので、意味を解釈することが困難なこともしばしばあります。それは「意味がない」のではなく、日常的なことばとはレベルが違うことばなのでしょう。座禅は日本では禅宗の修行法として知られていますが、インド以来、仏教は静かなところで正しく坐り、瞑想をすることがもっとも重要な修行法のひとつでした。座禅の禅は「禅定」の意味で、精神統一を意味します。マンダラはもともとは密教のものなので、真言宗や天台宗に固有のものでしたが、日本では独自の展開をして、浄土教や神道なども独自のマンダラを持つようになります。

いろいろと謎に思ったことはあるのですが、マイトレーヤは何語なのでしょうか。トゥシタ、ウパーリ、アルハトなど、たくさんの横文字が出てきてむずかしいです。前、先生が言ってたかもしれませんが、弥勒や如来などの古称が一番ランクが高いのでしたでしょうか。
カタカナ読みの語はたいていサンスクリットです。インドの古典語で、おもに聖典に用いられました。仏教ははじめ民衆と同じことばを使っていたようですが、しだいにサンスクリットで自分たちの聖典を記述するようになりました。弥勒は固有名詞で、如来や菩薩が普通名詞です。如来は悟った存在で、仏とか仏陀、あるいは世尊などと同じです。菩薩はまだ修行の身で、請来は仏陀になることがいわば約束されていますが、現時点ではわれわれ衆生の救済につとめています。

高野山奥の院灯籠堂に、実際家族と一緒に行ったことがありますが、祈る対象物が門の奥にあると思わなかったです。だまされましたね・・・(泣)。
それは残念でした。でも灯籠堂がとても立派なので、そこで満足する観光客はけっこういるようです。それに、灯籠堂の後ろには開口部があり、そこから奥の院の御廟が見えたはずです。高野山はいいところなので、何度でもおでかけください。今頃の季節ですと、ほとんど観光客もいないので、幽玄な雰囲気にひたることができます。

東大寺の弥勒如来坐像を見て思ったのですが、仏像の美しさはどういった基準できまるのか気になりました。平安前期の仏像の特徴がよく現れているという点で評価されているのかもしれないのですが、他のスライドやイメージとしてある弥勒如来より、ぐったりしていて、あまり美しくは見えませんでした。
これは私の説明と、スライド用に使った写真がよくなかったのかもしれません。私は先週の火曜に東京に出かける用事があり、東京国立博物館の「仏像展」で、実際にこの作品を見てきました。以前にも奈良国立博物館で見ているので、はじめてではありませんが、授業で取り上げたこともありじっくり見ました。全体に力がみなぎった堂々とした作品で、独特の面貌も風格を感じます。何よりも見て驚くのは、この作品がわずか像高30?程度の、とても規模の小さな像であることです。東京国立博物館の仏像展は今週末の12月2日までです。チャンスがある人はおでかけください(ただし、会期末なので、猛烈な混雑が予想されます)。図録を購入してきたので、関心のある人はどうぞ研究室まで。

弥勒を待っている場所が弥勒の成仏している場所と、重層的になっているところが興味深かったです。
そうですね。高野山の場合、入定して弥勒の下生を待っている弘法大師がいるところが、そのまま弥勒の浄土である兜卒天と見なされています。弘法大師が大迦葉に対応するのであれば、高野山は鶏足山になるのですが、そうではないところが興味深いですね。高野山信仰は山上他界観でもあるので、そこが仏の国となるのでしょう。

カラーコピーを配布してくださってありがとうございます。アンクレットなどの細部まで見られてよかったです。人体のバランスとしては少し腕が長すぎますが、そんなことどうでもよくなるくらい美しい像です。手に持っている蓮の花に乗っている建物のようなものは何でしょうか。弘法大師像の右手がかなり不自然な形ですよね。実際やってみたらできないことはありませんでしたが。
なかなか、細部までよく観察しています。仏像の腕が長いのは、仏の身体的な特徴のひとつで、両腕を左右にひろげた長さが、身長と一致するという規定があるからです。坐像ではあまり目立ちませんが、立像にこのような腕の長い像がしばしば見られます。蓮の花に乗っている建物は仏塔(多宝塔)です。インドの弥勒の場合、頭の前の部分に小さな仏塔を表していましたが、日本の密教系の弥勒は、塔を持物として持ちます。醍醐寺三宝院の阿弥陀坐像なども、両手の上に置いています。弘法大師の右手は金剛杵という仏具を持っています。たしかに不自然な形ですが、これはおそらく画像に影響されたものです。弘法大師をはじめとする真言宗の祖師たち(その宗派の重要な歴史上の人物)は、はじめは絵で描かれたようです。そのとき、右手の持物がわかるように描くので、手首をひねったような形を取りました。それを彫刻にする際、ひねったままの形で作ったため、このような状態になったようです。

全然、授業について行けません!配布のプリントをちょっと読んでみても全然意味がわからないし・・・。レポートもしくは試験はどんな形式になるんでしょうか。何とか単位を取りたいと思います。とにかく欠席、遅刻をしないようにがんばって授業に出ます。
とにかく、そうですね。欠席、遅刻をせずに、わかる範囲で理解してください。それほど深刻に考えなくとも、何か考えるヒントになることがあって、仏像のイメージが記憶に残れば、それでいいでしょう。ついでに、「仏教ってこんな世界なんだ」ということも、感じてほしいです。レポートの課題などはまだ考えていません。それほど奇抜なものではない予定です。

弥勒などは鎌倉までは紹介してもらったので、仏教が当時の人々に影響が大きかったと思うのですが、江戸の仏像は少ないように思います。江戸では仏教が人々に与える影響は少なかったのですか。
授業で取り上げる仏像は、たしかに平安から鎌倉にかけてのものがほとんどです。もちろん、江戸時代にも仏教の影響も大きかったはずですし、仏像もたくさん作られました。その中にはすぐれた作品も少なくはないのですが、仏教美術史ではどうしても低く見られがちです。平安や鎌倉の仏像が一種の理想像であることは、現代の研究者だけではなく、江戸などの後代の仏師たちも、その時代の仏像を一種の規範としていました。古い時代の模倣をする時代には、新しい芸術は生み出されなかったのでしょう。


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