仏教文化論 仏教の信仰と美術
弥勒・文殊・普賢

2006年11月9日の授業への質問・回答


多宝如来を呼び出すために集まった仏は、「世尊の分身」とも書いてありますけれども、釈迦の過去仏などとはまた別の仏なのでしょうか。しかし「十万世界にある無数の仏国土」とはすごい表現ですね・・・。
過去仏も『法華経』の時代には無数にいますが、「見宝塔品」に登場する無数の仏は、現在世に属する仏たちで、空間的な広がりの中でとらえられています。「十万世界にある無数の仏国土」の他にも、このような仏国土が無数であることの表現はいろいろあります。たとえば「ガンジス川のすべての砂の数」とか、「さらにそれを砕いてできた砂の数」とかがよく用いられます。「恒河砂」(ごうがしゃ)と言って、現在でも数字の単位(億とか兆よりももっと上)にもなっています。大乗経典で説かれている内容は、現実的なイメージでとらえられるものではなく、宇宙全体とか、極小の世界とかに相当します。これは通常の感覚の世界ではなく、一種のトランスに入った状態での感覚に似ているでしょう。仏教ではそれを「三昧」と言います。大乗仏教以前の経典が、釈迦の日常的な世界を中心にしていることと、大きく異なる点です。

お経というと、釈迦の教えというイメージがあるが、これまでのプリントのお経の訳を見ると、「教え」というよりは釈迦やその他の神々のエピソードという感じがする。釈迦の弟子たちが釈迦の教えをまとめたということなので、「あれをしろ」「これをしろ」という内容なのだと思っていた。釈迦や神々の生活や生き方そのものが、見習うべき教えなのだといわれれば、納得しないこともないが。「法華経」や「華厳経」とかの有名なお経も同様なのでしょうか。
お経については上記の通りですが、初期の仏典や、部派仏教の時代の経典には、「あれをしろ」「これをしろ」という内容のものも多くあります。とくに律は基本的に禁止事項をあげるために編纂されたものなので、出家者の生活規範が細かく定められています。お経については渡辺照宏『お経の話』(岩波書店)がおすすめです。仏典の壮大な世界がわかりやすくまとめられています。

仏坐像の脇侍に観音と弥勒がいましたが、二つは対になるものでしょうか。最初の方にもどってしまうかもしれません(ごめんなさい)。このあいだ、法隆寺に遊びに行ったときにたくさん弥勒や観音がいたのですが、水瓶を持った観音や、勢至菩薩と対になっている観音ばかりだったので、気になってしまいました。
観音と弥勒が脇侍になるパターンは、インドの仏教美術でもっとも一般的な三尊形式です。これに加え、エローラやオリッサでは、観音と金剛手が脇侍になります。はやくはマトゥラーでも見られます。授業で写真を紹介したパーラ朝の三尊形式は、観音と弥勒の方ですが、まれに観音、金剛手の組み合わせも見られます。日本では釈迦の脇侍は文殊と普賢が多いのですが、この形式はインドでは見られません。法隆寺ばかりではなく、日本の観音の圧倒的多数は水瓶を持っているようです。日本で人気の高い十一面観音も同様ですし、千手観音も主要な手のひとつに水瓶を持っています。水瓶に蓮華が入っている場合もあります。日本の観音が水瓶を持つのは、インドとは異なりますが、インドでも四臂観音などの多臂になりますと、水瓶が持物に登場します。また、弥勒の持っている水瓶とも図像的な交渉があるのではないかと思います。勢至菩薩と観音とが対になる形式は、浄土教の来迎図に由来します。その場合、中尊は釈迦ではなく阿弥陀です。

中国の石窟の箇所で、仏教の世界の時間の流れが、そのまま参拝の経路に沿っているのがとてもおもしろかったです。今までそういうものを見ても漫然と眺めるばかりでしたが、他にもあるのだろうかと思いました。
キジルに現れる弥勒が、単なる単独像ではなく、石窟全体のプラン(仏や菩薩などをどのように配置するか)を視野に入れて、全体がひとつの流れになるように組み立てられていることを、私も興味深く思います。とくに兜卒天上の弥勒が涅槃や大迦葉説話と結びつくことで、壮大な時間が圧縮されて、石窟の中で再現されているようです。前回紹介したキジル石窟の弥勒の図像は、名古屋大学の宮治昭先生が明らかにされたものです。参考文献にもあげました『涅槃と弥勒の図像学』という名著の中でくわしく説かれていますので、参照してください。仏教美術や図像研究の魅力のひとつに、このような寺院内部のプランの持つ象徴性や物語性の解明があります。たんに仏像が美しいとか、特徴がどうであるとかいうばかりではありません(それも重要ですが)。

キリスト教の教会とかに、天井に天使がたくさんいる絵が描かれていますが、キジルの天井に描かれているのを見て、天井に描くことに何か意味があるのかと単純に疑問に思いました。
天井に描くことに意味があります。というか、石窟の内部空間が、そのまま現実世界に対応して、天井が天界を表したりします。授業では省略しましたが、キジル石窟の場合、仏教的な世界観の中心にある須弥山(しゅみせん)という山も、内部に表現されているといわれています。宇宙全体が石窟の中に象徴的に再現されているのです。入口上部という特別な場所に兜卒天上の弥勒がいることも、これに関係します。兜卒天とは須弥山の山頂に位置する神々の世界だからです。キリスト教の教会からも、仏教以上にさまざまな象徴性が読み取れます。教会とは神の家であり、神の国であり、さらに神の身体でもあったりします。キリスト教の建築や美術は、直接仏教と影響関係はありませんが、さまざまな点で共通性や類似点があり、興味深いです。

石窟は大きな穴がひとつ開いているだけかとおもっていたが、穴がたくさんあることがわかって、少しおどろいた。石窟は寺院とは別なのだろうか。それとも石窟全体がひとつの寺院のようなものなのだろうか。
石窟そのものの説明を授業ではしませんでしたので、イメージがわきにくかったかもしれません。寺院と理解してもらってけっこうです。日本に石窟寺院はほとんどありませんが(皆無ではないのですが)、インドからシルクロード、中国にかけて、多くの石窟寺院があります。インドではアジャンタ、エローラ、アフガニスタンのバーミヤン、中央アジアのキジル、中国の敦煌、龍門、雲岡などはその代表です。いずれも山腹に多くの石窟が作られています。石窟は仏教の出家者の修行の場であり、その居住空間でもありますが、さらに参拝者や巡礼者の礼拝の場所でもあります。「石窟全体がひとつの寺院」というのは、そうである場合も、ない場合もあります。石窟を作るには、当然かなりの時間が必要とされますので、窟がふえていくにしたがって、全体をひとつのまとまりととらえる意識が薄れていくこともあります。エローラのように、仏教窟に隣接して、ヒンドゥー教の石窟やジャイナ教の石窟がある場合もあります。なお、岩山に穴を掘るというのは、われわれ日本人から見れば、「わざわざどうして」と思うことかもしれませんが、いったん作ってしまえば、ほぼ半永久的に使えますし、内部はきわめて快適なようです。

昼休みに流れていた考える人のスライドが、とてもおもしろかったです。ドイツにキジルの石窟が多く移されたのはなぜか気になりました。ドイツの仏教との割合は高くないと思うので、仏教美術ブームでも起きたのでしょうか。
昼休みのスライドは、授業の番外編ですが、考える人のポーズが弥勒の半跏思惟像と関係があるので、紹介しました。おもしろいという感想の方が、他にも何人かいらっしゃいました。一般向けの類似のスライドが他にも若干ありますので、ときどき昼休みに流しておきます。ドイツにはたしかに仏教徒はあまりいないでしょう。キジルの壁画がはがされてドイツに持って行かれたのは、20世紀の初頭のことで、たしか探検家のグリュンベーデルによるものと思います。この時代は探検の時代で、ヨーロッパ各国からかずかずの探検家たちが中央アジアに入っていきました。イギリスのスタインやフランスのペリオなども有名です。敦煌が広く知られるようになったのも同じ頃です。ロンドンの大英博物館や、フランスのギメ東洋美術館などには、ヨーロッパにはアジアの美術のすぐれたコレクションが所蔵されています。その多くはこの時代の獲得物(強奪品?)です。日本からも大谷探検隊が中央アジアを中心に活動しました。ヨーロッパにおいて、東洋美術はオリエンタリズムとよばれるような異国情緒を感じさせる重要なジャンルです。アジアへの探検はこのような需要を満たすためでもありました。それに対して日本の探検家たちは、仏教の起源を探るという、日本人独特の使命を強く意識していました。

パーラ朝のものは弥勒がやたら色っぽいというか、女性的に見えました。観音もですが。弥勒のシンボル、水瓶、龍華、仏塔はすべて「水」に関係しませんか?(水瓶はそのまま、龍はナーガ、仏塔も語源のひとつがたしか水です)。むりやりすぎますかね・・・。キジルの弥勒は行者風でなく、装飾がけっこうあるように見えました。キジルや敦煌の青系の彩色は、何で塗ってあるんでしょう。
弥勒のシンボルに水が密接に関係しているというのは、そのとおりだと思います。弥勒の起源のところで、ミトラ信仰を紹介し、その中で水の要素を強調したのも、そのためです。水を軸にして弥勒の信仰や図像をとらえると、おもしろいでしょうね。キジルの青は本当に鮮やかです。どの石窟を見ても、背景や人物の一部に青がふんだんに使われていますし、数ある色の中でもひときわ目立つ色彩です。青色の絵の具の原料は、宝石のラピスラズリだそうです。日本では瑠璃の名で伝わっています。手元にあった『シルクロード キジル大紀行』(NHK出版)を見たら、わざわざキジル石窟の青について一章をさいて、くわしく説明されていました。ラピスラズリがシルクロードで貴重な交易品であったこと、その原産地はほぼアフガニスタンに限られていること、エジプトなど、さまざまな地域で珍重されたことなどが書いてありました。とくに興味深いのは、この地域ではラピスラズリの青が水を表すと一般に理解されていることです。ここでも水のシンボリズムのようなものが登場します。

ゾウの寿命とアリの寿命、当然、違っていると思っていました。しかし、心臓の動いた回数で寿命が決まると考えたら・・・。すごく納得させられました。ではもし、お風呂にたくさん入ったり、スポーツをたくさんやっている人は、他の人よりたくさん心臓を動かしているので、寿命は縮んでしまうのか、などと考えてしまいます。そこはだれにもわからないことですが。
『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)は一般向けの科学書として傑作なので、紹介しました。同じ著者が同じタイトルで福音館書店からも児童向けの本を出しているので、それを見た人もいるかもしれません。お風呂やスポーツはたしかにそうかもしれませんが、おそらく一生の心臓の鼓動数からすれば、その差は誤差の範囲内なのでしょう。それよりも、他の病気によって寿命の長さが決まることの方が一般的です(あたりまえですが、すべての人が心臓病で亡くなるわけではありませんし、心臓病であっても生活習慣病などの方がより大きなウェイトを占めます)。同じ本に書いてありましたが、動物が一生の間に食べる量も、体重比にすると、種類に関係なくほぼ一定なのだそうです。人生とは絶対的な時間ではかれるものではないようです。

法華経、その他の経典と宗派のつながり、とくに大乗形の思想の系譜がよくわかりません。大乗系の思想の源みたいなものと、各派の解釈の展開について、わかりやすい説明や本はないでしょうか。
大乗仏教についてのくわしい本としては『講座大乗仏教』(春秋社 全十巻)があります。もう少し短いものでは平川彰『インド仏教史』(春秋社)や玉城康四郎『仏教史』(山川出版社)があります。入門書としては渡辺照宏『仏教』(岩波新書)がおすすめです。


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