仏教文化論 仏教の信仰と美術
弥勒・文殊・普賢

2006年10月26日の授業への質問・回答


弥勒(救済者)と転輪王(為政者)は、対立したものとしてとらえられていたが、チベット仏教などを見ても、実際は両者を分けない場合も多いのではないか。
たしかに、チベット仏教ではダライラマが仏教界のトップにいながら、政治的にもチベットを支配していました。チベットに限らず、人類の歴史の中で政治と宗教はしばしば重なり合います。古代日本においても卑弥呼のような呪術的な能力を持つものが権力者の地位にありましたし、天皇も本来は宗教的な力をそなえていたからこそ、人々を支配していたはずです(今でも、天皇の代替わりの大嘗祭などを見ると、そのことがよくわかります)。政治を「まつりごと」と呼ぶことも、その例としてしばしばあげられます。これに対し、インドでは世俗的な支配者である王と、宗教的な世界の最高存在(たとえば仏陀)とは区別されるのが一般的です。これは、インドにおいて世俗の世界と精神的な世界、いわば聖なる世界とが、完全に分かれていることによるのでしょう。神々のイメージに「バラモン・聖職者的イメージ」と「クシャトリア・戦闘者的イメージ」があることを以前に紹介しましたが、これもこのことと関係します。このような伝統は、おそらくインド人を含むアーリア人やインド=ヨーロッパ語族の人々に、ある程度共通するのではないかと思います。その上で、両者はイメージの上では対立しつつも、実際の政治や統治の場では、相互補完的な役割を果たしていたのでしょう。たとえば、聖職者は王権の正当性を神話や儀礼のなかで保証することがしばしば見られますし、王は聖職者の持つ呪術的な力を統治に利用したりしたようです。宗教と権力との結びつきは人類に普遍的に見られるでしょう。

転輪聖王の七宝は輪、象などのものがあるが、経典によっては別の七宝もあるということを聞いたが、本当だろうか。
それは私も知りませんでした。七宝は工芸品の種類としても用いられることばですが、転輪聖王の七宝とは、あまり関係ないようです。この場合は七宝(しっぽう)と読みますね。七宝焼きともいわれます。愛知県の尾張地方に七宝町というところがあり、七宝焼きで有名だそうです。そこのHPを見たところ、「七宝とは、仏典にある七つの宝物<金・銀・瑠璃・しゃこ・瑪瑙・真珠・まいえ>のことで七宝焼の美しさが七種の貴品に似て絢爛で高貴である所からこの名がつけられました」と説明がありました。これのことかもしれません。どの仏典かはわかりませんでしたが(というよりも、仏典にはこのような宝石の列挙がいたるところにあります)。

ヴァルナ・ミトラといった神々が、それぞれ「階級」や「役割」に対応した神性・属性を持っていたというのは、それによって「神の世界のルール」を定め、「人の世界のルール」を強固にするためだろうかと思った。簡単に言えば「神ですら役割がある。だから人に役割があるのも当然だ」といったような思想があったのではないか。
おもしろい発想だと思いますが、私自身は、神々の世界は人の世界の規範を示すために人為的に作られたものではないと思います。むしろ、人々の持つ世界のイメージや構造が、神々の世界に投影されるのではないでしょうか。もちろん、その場合も神々の世界が人間の世界の規範となるという見方もあります。神話のイデオロギー化とも言えます。神話学のおもしろさは、神や神話そのものにあるのではなく、そこからみえる人々の考え方の再発見にあるかもしれません。

スライドで半跏思惟像を見て同じ半跏思惟蔵なのに、だいぶ雰囲気がちがい少し驚きを感じた。彼らは何を思っている像なのですか。
インドには半跏思惟像がかなりありますが、意味はさまざまなようです。たとえば、釈迦が木の下で考えている姿は、樹下観耕図といって、出家する前に木の下で瞑想をしているところを表しています。また、降魔成道、つまり釈迦が悟りを開く前に、それを妨げようとした悪魔を撃退した場面では、妨害することができなかった悪魔が半跏思惟のポーズを取ります。この場合、なぜ失敗に終わったのかを反芻していると解釈されます。ガンダーラでは釈迦のまわりに大群衆を置いた作品がいくつかありますが、その中に、半跏思惟をする菩薩が登場します。ここでは、釈迦の示した奇跡を見て、その真意を熟考している菩薩を表すという説が有力です。広隆寺の弥勒像などで有名な日本の半跏思惟像については、日本の弥勒のところで取り上げましょう。

寿命が長すぎて想像がつかない世界だと思った。どこから未来の話になるのかよくわからなかった。仏陀は入滅した後、どこへ行ったのですか。歴史上の釈迦と仏教の釈迦が混乱して、どこから分けていいのかわかりません。「マイトレーヤはトゥシタ天から下り」とありますが、メッテーヤはどこでマイトレーヤになると宣言したのか疑問でした。
『転輪王師子吼経』で寿命が延びたり縮んだりする話は、すべて未来のことです。メッテーヤ(マイトレーヤのパーリ語表記)が仏陀になると宣言して、釈迦から授記を得るのは過去世のことです。釈迦は悟りを開いたので、入滅すれば涅槃に入り、完全な仏となるので、どこにも行きません。どこかに生まれ変わったりするのは輪廻の世界で、悟りとはその輪廻からの脱却だからです。あえていえば、仏の世界に行くのでしょう。ただし、それでは満足できない人々がたくさんいたようで、釈迦は涅槃に入ったように見せただけで、じっさいは永遠不滅の存在であると考える人々が現れます( 久遠実成の仏といいます)。過去七仏のように、釈迦以外にも別の仏がいたとするのは、それとは別の方法で仏やその教えの永遠性を信じる人たちが考えたものです。弥勒信仰もこれと同じです。この世界にはわれわれの世界以外にもさまざまな世界があり、そこでは釈迦以外の仏がいるという信仰も生まれました。いずれの場合も、歴史的な存在であった釈迦から、普遍的な存在の仏へという方向が認められます。なお、メッテーヤがマイトレーヤ(この場合は仏の名前として)となると宣言したのは、『スッタニパータ』では見られませんでしたが、前回紹介した多くの弥勒関係の経典で釈迦との会話の中で行われたことが記されています。トゥシタ天から下ったのは釈迦の前例にならったからで、ここにもモデルとしての釈迦の普遍化が見られます。

仏教にはもともと葬式という概念がないというのはよく聞くことだと思いますが、では、今日のスライドやプリントにもあった「荼毘」は、葬式ではないのでしょうか。先生は途中に「葬式」ということばを用いて説明されていたように思うのですが。葬式でないのなら「荼毘」はいったい何なのでしょうか。
「荼毘」は火葬のことです。原語はパーリ語でjhaapeti(点火する、火葬にする、破壊する)です。文法的な説明をすれば、この語はjhaayatiの使役動詞(causative)の形で、jhaayatiは「禅定をなす」という意味です。座禅の「禅」というにあたる語で、禅というのはしずかに瞑想するというよりも、煩悩などを焼き尽くすというイメージであったことがわかります。サンスクリットではテdhamという動詞が「荼毘にふす」という意味で用いられます。これは「息を吹く」という意味で、息を吹いて火をおこすところから来ています。荼毘は葬式そのものではありませんが、遺体の葬送の方法として、用いられることばで、葬式の重要な要素です。葬式というのは死者儀礼や葬送儀礼、それに付随したさまざまな儀礼の総称として用いられますが、遺体をどのようにあつかうかが、そのもっとも重要なことであることには間違いありません。仏教に葬式の概念がないというのは少し不正確で、本来、仏教は葬式に関与しないということでしょう。現在の日本で葬式と仏教が密接に結びついていることを批判的に見る人が、そのような極論を説いたのではないかと思います。そのときによく引き合いに出されるのが、釈迦が涅槃に入る前に、釈迦亡き後の葬儀を心配した弟子たちに「汝らはそのようなことに関わる必要はない」と言ったという経典の記述です。しかし、これに関しては最近ショペンという仏教学者が下記の論文で異論を唱え、釈迦が禁止したのは特定の比丘に対して遺骨の処理に関わるなというだけで、すべての比丘が葬儀そのものに関与してはならないと言ったわけではないことを明らかにしています。なお、このエピソードの中で、釈迦がみずからの葬儀の方法を「転輪聖王のごとくになすべし」と言ったことも、仏陀と転輪聖王の関連の深さを示すものとして重要です。
ショペン、G. 1996 「『大般涅槃経』における比丘と遺骨に関する儀礼  出家仏教に関する古くからの誤解」『大谷学報』76(1): 1-20 (平岡聡訳)。

奈良の大仏は螺髪で、手に何も持っていないので、釈迦ですか?そもそも螺髪があるから弥勒なのですか?今日の最後のスライドの弥勒がたまたま螺髪だったのですか。あと、ふたつの神が対になっているというのは、なるほどと思いました。そういえば、日光菩薩像と月光菩薩像というのがあったなーとか思いました。
螺髪は仏の重要な身体的な特徴のひとつで、釈迦以外でも仏であればすべて螺髪です。阿弥陀も薬師もそうです。弥勒が螺髪の髪型になるのは、菩薩ではなく成道後の弥勒仏として表現されているからです。なお、奈良の大仏はこれらのいずれの仏でもなく、毘盧遮那(びるしゃな)です。仏ですからやっぱり螺髪です。でも、密教になると毘盧遮那は大日如来になり(一種の進化)、そこではなぜか螺髪ではなく、菩薩と同じ髪型になります。これを菩薩形(ぼさつぎょう)の大日といいます。ややこしいというか、よくわからない世界ですね。ふたつの神が対の例は、たしかに三尊形式の脇侍菩薩にしばしば見られます。インドで観音と弥勒が対になることも、脇侍としてでした。なお、日光菩薩と月光菩薩を従えるのは、薬師如来で、釈迦の場合は別の菩薩になります。

『増一阿含』で弥勒が母の右脇から生まれたとありましたが、釈迦の人生の一般化とはこのことでしょうか。しかし、いくら何でも脇から生まれる考えに驚嘆です。いったいインド人は脇をどのように考えておられたのでしょうか。
「釈迦の人生の一般化」はそのとおりです。脇(あるいは腋)から生まれるというのは、釈迦の伝記で共通してみられますので、古い時代からそう信じられていたようです。ちなみに、釈迦は母親の摩耶夫人の胎内にはいるときも、右脇から入りましたし、そのときには六本の牙のある白象のすがたを取ったと言われていますので、これももっと驚異(脅威?)というか驚嘆すべきことです。釈迦のような特別の存在が、通常の人間とは別の方法で生まれるというのは、古今東西の神話や物語でよく現れるモチーフです。帝王切開のことばの起源であるシーザー(カエサル)などが想起されます。シェークスピアの『マクベス』のクライマックスの場面なども。

わかりやすい仏像の解説本とかありませんか。
仏像の本は星の数ほどありますが、中には読まない方がいい本もたくさんあります(授業でもこのことにはふれました)。タレントや有名人が書いた本は、エッセイとしてならともかく、学術的にはほとんど使い物になりません。私は至文堂の『日本の美術』シリーズを授業の準備ではよく使っています。「ぎょうせい」という出版社から出ている『日本の仏像大百科』は、タイトルが少し安易な感じですが、内容はしっかりしていて重宝しています。このほか、毎日新聞社刊の「国宝」シリーズも便利です。展覧会の図録も役に立ちます。12月3日まで東京国立博物館で「仏像」という特別展が開催されています。この展覧会の図録はとても充実しているそうです(私自身は未見です)。この展覧会にあわせて、『芸術新潮』の今月号が特集を組んでいて、これもよくできています。最近、山と渓谷社から『仏像』という本が出ました。奈良と京都を中心に、数百点の仏像について、良質の写真とコンパクトな解説からできています。すこし値段が高いですが、持っていると一生使えるでしょう。

ブッダと弟子の問答は読んでも全然意味がわからないのですが、これは知識が増えればわかるようになりますか。抽象的すぎてさっぱりです。同じ弟子との問答でも、儒教などとは全然違うのですね。
『スッタニパータ』の抜粋の部分だけでは、たしかによくわかりませんが、知識が増えれば確実に理解できる部分が増えていきます。しかし、2千5百年も前の人々の会話なのですから、文章の本当の意味が理解できるという保証はありません。さまざまな知識を動員して、それにアプローチします。たとえば、当時の言語をくわしく研究することでそれをめざしたり、あるいは、同時代の資料(たとえばジャイナ教文献)と比較したり、さまざまです。それが仏教研究、とくに文献学的な仏教研究の醍醐味でもあります。


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