仏教文化論 仏教の信仰と美術
弥勒・文殊・普賢
2006年10月19日の授業への質問・回答
・釈迦によって仏(過去仏)のルールができ、それが仏のルールの一般化へ進んで、釈迦すらもそのルールの中に埋もれていくという過程がおもしろかった。
・過去仏が過去菩薩に授記を与え、現在菩薩が釈迦になり、釈迦が未来で弥勒になる流れでいいのですよね?釈迦以前の過去仏はいったいどこから生まれたのか(宗教的に)疑問です。現地の宗教と合体したのでしょうか。
・釈迦が過去仏や弥勒以下の他の仏のモデルになったということは、過去仏が悟りを開くまでの経緯等も釈迦と同様になるように改変されたということでしょうか。
・釈迦の生涯をモデルに他の仏の話を作っていったのに、釈迦が数ある仏の一つになってしまうなんて、おかしな話だけど、後の世の人たちはそんなこと気づかすに、見過ごしてしまいそうだと思いました。
授業の本筋とははずれるのですが、過去仏から釈迦、そして弥勒という考え方から、仏はすべて同じ生涯をたどるという話を、前回の授業では紹介しました。これについてコメントする方が何人かいらっしゃったので、ここではそのうちの4名分を紹介しました。釈迦以外にも仏がいるという信仰は、大乗仏教以前から仏教の中には古くからあったようです。研究者の中には、仏教は釈迦が開いたのではなく、すでに存在していた宗教を釈迦が改革して、広めただけであるという人もいます。インドにおける仏教の歴史では、釈迦以外の仏の数は、時代を追うごとに多くなり、その結果、授業でもお話ししたように、釈迦すらもその中の一人として位置づけられることになります。授業では時間的な文脈でお話ししましたが、同じことは空間的にも起こり、この世界以外にも別の世界があり、そこには釈迦ではない別の仏が、今でも説法しているという信仰が生まれます。極楽浄土の阿弥陀仏ものそのひとりです。このような時間的、空間的な仏の世界の広がりが、大乗仏教の基本的な考え方となります。皆さんにとっての仏教というイメージとは異なるかもしれませんが、弥勒をはじめとする菩薩の思想も、この中にあります。質問中の「釈迦以前の過去仏はどこからか」というのは、たしか『徒然草』の中でも同じような疑問が記されていますが、大乗仏教の仏とは永遠の時間の中につねに存在するので、質問そのものが無意味になります。
ミスラ教は後のローマ帝国で迫害を受けたと思っていたのですが、迫害しつつ一方ではその構造を受容するというパターンは、他の文化圏(イスラームなど)でも、よく見られるものなのですか?民衆への受け入れやすさを考えると、よくありそうですね。
先週紹介したキュモンの『ミトラの密議』を見ると、ローマ帝国でははじめはミスラ教(ミトラ教)はそれほど迫害されていたわけではないようです。地中海の周辺地域には、ミスラ教の遺跡や遺物が多数存在しています。ローマからはるか離れたロンドンからも見つかっていて、ローマ軍の駐留とともに、ヨーロッパ各地にミスラ教は広がっていたようです。ミスラ教が迫害されるようになったのは、キリスト教の発生と伝播の過程で、ミスラ教のようなオリエント起源の宗教が攻撃されたからだと思います。「迫害しつつ一方ではその構造を受容する」というのはおもしろい指摘ですね。たしかに、そのようなパターンは宗教一般で見られるようです。たとえば、中世の魔女狩りはキリスト教のマリア信仰の裏返しです。迫害するというのは、それだけ迫害される方が力を持った魅力的な存在だから、それを危険視するのでしょう。宗教の基層には、このような両義的なものへの畏怖がつねにあるようです。
三機能説で、祭祀(バラモン)、戦闘(クシャトリア)、生産(ヴァイシャ)がありましたが、この一つ一つの階級の上下関係とかはあったのですか。
生産階級がそれよりも低い位置にあったのはたしかですが、のこりの二つは時代や状況で、一概には上下関係は示せないでしょう。通常はカースト制度(正しくはヴァルナ制といいます)では、バラモン(ブラーマン)の方が上位におかれますが、実際の社会では為政者であり、軍事力を持ったクシャトリア(王侯貴族)が、優位に立つ場合も多かったでしょう。むしろ、機能分担にもとづく相互補完的な関係にあったと見た方が適切かもしれません。祭祀階級が社会の頂点というのは、現代的な感覚では違和感があるでしょうが、神秘的な力や、呪術的力を持つ者が、社会を統治するのは、インドに限らず、広く見られます。日本の天皇もかつてはそうでした(今もそうかもしれません)。
菩薩は仏ではないですよね。では観音や弥勒や普賢は、仏になる前段階の僧で、釈迦と同列ということですか?また、ヴァルナはミトラと切り離せないくらい重要な神だったのに、仏教においてはあまり重要な存在にならなかったがふしぎです。
観音などの菩薩が仏になる前段階であるのはたしかですが、かれらは「僧」ではなく、特別な存在でした。モデルとしては悟りを開く前の釈迦がいますが、菩薩それぞれの起源はことなります(その多くは不明といった方が適切かもしれません)。大乗仏教の「だれでも菩薩」と、観音などの大菩薩の間にも大きな断絶があるのです。ヴァルナは仏教に取り入れられると水天になり、西の方角を守る神として、マンダラなどに描かれます。他のヒンドゥー教の神々と十方天というグループを形成し、彼らを描いた絵画作品も多く残されています。ミトラは仏教ではほとんど登場しません。これは仏教がヒンドゥー教の神々を取り入れた時代に、すでにミトラの信仰がインドにはなく、ヴァルナも護方神としてしか信仰されていなかったからです。ミトラやヴァルナなどの至高神は、すでに『リグ・ヴェーダ』の時代において、インドラなどの別系統の神に、その座を譲っています。そのインドラも、次の時代にはシヴァやヴィシュヌなどの新参の神々の台頭を前に、護方神に格下げされます。神々の世界はこのような交代が頻繁に起こり、とくに至高神はその時代ごとに大きく異なります。
弥勒の説明から「神」ということばが出てきましたが、もともと仏教における神の地位はどうだったのでしょうか。今日の授業では仏と神は自然に融合というか、同列の地位のように感じられたのですが。インドなどでも神vs.仏などの論争はあったのでしょうか。
授業では仏や菩薩などがたくさん登場するので、混乱を招くのですが、神も仏もほとんど同じような意味で使っています。仏教では仏は悟った者である仏陀を指しますが、菩薩などの他の信仰の対象も、広い意味で仏と呼びます。神という語はヴェーダの宗教やヒンドゥー教に登場する神々を指すときにも使いますが、仏教に取り入れられたものも、それにしたがって神と呼びます。仏教の用語では「天」という方がふさわしいのですが・・・。それ以外に、仏教でもヒンドゥー教でも、あるいはキリスト教などの他の宗教でも、信仰の対象として何らかの「超越的な存在」があるとき、総称として「神」と呼ぶときもあります。
観音という名が固有名詞だったなんておどろきました。○○観音像、△△観音像と多くの観音像があり、姿も違うけれど、同じ「観音」の存在だとわかった。ミトラとヴァルナがプリントのNo.2で対比的に描かれていて、ヴァルナはマイナスなイメージとして扱われていたのに、至上神、神とされているので、神は必ずしもよいイメージではないのだなと思った。
観音は菩薩の中で最も人気があるのですが、なかなかやっかいな存在で、その起源もよくわかりませんし、イメージも普通の菩薩とは異なります。変化観音(へんげかんのん)と呼ばれるように、さまざまな姿をとり、それに応じて名前が変わるところも特別です。日本仏教では、このような観音の多種多様さから、「観音部」というグループを菩薩とは別にたてることがあります。そこでは観音という名称は、かぎりなく普通名詞に近いです。ミトラとヴァルナが明と暗のイメージをともなうというのは、多くの文献が指摘するとおりですが、べつに「闇の神」がよくないイメージであるとは一概には言えません。神というのは慈悲深い優しいだけの存在ではなく、人々に畏怖心を与え、ときには懲罰を与える恐ろしい存在でもあります。旧約聖書の神などは、まさにそうですし、ユダヤ教やイスラム教も同様でしょう。
プリントの「ミトラとアスラがともに両数形で並び立つとき・・・」の「両数形」とはどういう意味ですか?なんだか数学みたい・・・。
両数形というのは文法上の用語で「数」の一種です。英語などのヨーロッパ系の言語では、単数と複数の区別があることは、よく知っていると思いますが、サンスクリットではこれに「両数」が加わります。二つのものを表すときに、名詞や動詞がそれに応じた活用形をとります。英語ではsをつける程度ですが、サンスクリットでは、名詞の場合は格、動詞の場合は人称などにしたがって、異なる語尾になります。ミトラとヴァルナはつねにひと組として扱われるので、文章の中では両数形になるのです。
ヴェーダの話はおもしろかったです。もっと詳しく知りたいです。何かお薦めの本はありますか。
資料の参考文献にもあげた辻先生の以下の本が最適です。
辻直四郎 1967 『インド文明の曙 ヴェーダとウパニシャッド』(岩波新書) 岩波書店。
ほかにも以下のような本があります。
辻直四郎 1970 『リグ・ヴェーダ賛歌』(岩波文庫)岩波書店。
辻直四郎 1978 『古代インドの説話 ブラーフマナ文献より』春秋社。
ヴェーダの人々の思考法や哲学については、つぎのものが読みやすいでしょう。
服部正明 1979 『古代インドの神秘思想 初期ウパニシャッドの思想』(講談社現代親書)講談社。
ヴェーダの神々を含め、インドの神話については
上村勝彦 1981 『インド神話』東京書籍。
立川武蔵他 1980 『ヒンドゥーの神々』せりか書房。
印欧語族の神話に見られる三機能説については、デュメジル自身の著作の他に、デュメジルの弟子だった吉田敦彦氏の本が読みやすいでしょう。
弥勒はインドの宗教から来た神のようですが、そういう神は天という部類に納められ、マンダラではちょっと外側の方に描かれていたように思います。弥勒が仏教で重要な存在となったのは、至上神だったからでしょうか。それとも早い時期に取り入れられたからでしょうか。
弥勒の起源がミトラやミスラであるという説は、必ずしも定説ではありません。しかし、ミトラやミスラの持っているいろいろな性質や機能は、弥勒にも通じるものがあるので、紹介しています。これは私が神話学の大風呂敷的なものが好きだからでもあります。仏教の弥勒はさらに直接のモデルとなる仏弟子も存在したようで、それについては今回紹介します。マンダラの周囲に描かれる天部は、あきらかにヒンドゥー教起源の神なのですが、ミトラがその時代のヒンドゥー教で、すでに信仰の対象ではなかったことは、すでに述べたとおりです。
地域において神々の呼び名が異なっていますが、発音が地域によって異なることにより、呼び名が異なるというのはわかりますが、他に呼び名が変わる要因として、どのようなことがあったのでしょうか。また辻さんの論文に「ヴァルナの神性は、アヴェスタの最高神アフラ・マズダーに対応する」とありますが、両者は同じ神なのですか?また「神性」ということばがよくわからないので、できれば教えていただきたいです。
神々の名称の変化は、さまざまな要因があると考えられますが、私自身はよくわかりません。おそらく言語学の領域に属する問題でしょう。バンヴェニストとかの本を見てください。ミトラとミスラはほとんど変化がない方でしょう。アフラ・マズダーのアフラはインドではアスラです。「神性」というのは「神という存在」「神であること」といった意味で用いられています。ミトラとアフラ・マズダーは別の地域で別の名前で信仰されているのですから、「同じ神」とはいえないでしょうが、きわめてよく似た存在であるということです。
燃燈仏授記の他の物語も見てみたくなりました。お薦めの本などはありますか。
物語そのものは、授業で配布した「ジャータカ」の他に、『仏本行集経』や『ディヴヤアヴァダーナ』などの文献に含まれています。燃燈仏授記を含む授記思想については、以下の本があります。
田賀龍彦 1974 『授記思想の源流と展開』平楽寺書店。
平川彰 1989-90 『平川彰著作集3・4 初期大乗仏教の研究』春秋社。
板書、saktaの「執着」が「執著」になっていました。
これは失礼しました。板書をすると、よく字を間違えます。でも「執着」の場合、仏教用語としては「執著」と表記する方が一般的なようです。『広辞苑』では「執着」なのですが、仏教語辞典では「執著」が見出しになっていて、「執着」は「執著」を見よとなっています。インドの有名なお坊さんに無著(むちゃく)という人物がいますが、もとの名前は「アサンガ」といって、「何ものにもとらわれないもの」を意味します。興福寺には有名な無著像が、世親像と一緒に残されています。このあたりの印象が強くて、一般的な表記ではない「執著」のほうを書いたようです(単なるいいわけですが)。
(c) MORI Masahide, All rights reserved.