マンダラから見た日本の宗教

2007年1月22日の授業への質問・回答


西洋の方では免罪符とそれに反対するプロテスタントの活動が、宗教改革時に具体的な当時の様子として示されることがありますが、立山信仰(護符など、罪を布施で解決)と浄土真宗(経を唱えるだけで成仏)が、富山で流行したことには、西洋の宗教改革と類似点があることはありますか。
富山における信仰と宗教改革との類似点はあまり考えたことはありませんでした。着想はおもしろいと思いますが、簡単には比較できないと思います。立山信仰は護符の販売だけではなく、立山そのものへの登拝(禅定登山)もありますし、今回紹介する布橋灌頂もあります。また、立山信仰は富山だけではなく、その他の地域、たとえば江戸や尾張などにも広がり、多くの参拝者を集めました。一方、浄土真宗はたしかに念仏を唱えることをもっとも重要としますが、蓮如以来、家庭内での毎日の勤行や、年中行事である報恩講など、一般の信者(門徒)が関わる儀礼や実践にはさまざまなものがあります。むしろ、白山信仰もそうですが、山岳修験が基層文化としてあるところに、浄土真宗が浸透するあり方に、この地方の宗教の特色が見いだせるような気がします。

熊野観心十界図の地獄絵がとてもおもしろかったです。地獄絵にはいろいろな地獄が描かれていますが、どの地獄絵も同じような地獄しか描かれていないのでしょうか。この地獄絵にだけこの地獄が描かれているというものもあるのでしょうか。
地獄絵の基本にあるのは源信の『往生要集』です。そこに説かれているさまざまな地獄の具体的な描写が、絵画として表現されています。そして、日本の地獄絵の中で重要な位置を占めるのが、聖衆来迎寺の六道絵です。この中に現れる地獄のモチーフは、構成の地獄絵の中に繰り返し現れます。しかし、そこには血の池地獄や不産婦地獄など、女性を対象とした地獄は見られません。このような地獄は、近世の地獄絵にあらたに加えられた要素で、その図像の典拠は当時の中国の地獄絵(名称はさまざまです)にあったようです。女性を対象とした地獄を加えた背景には、絵解きの対象として女性が重要な位置を占めたこと、女性の貞操観が重視されたこと、血のケガレが意識されたこと、イエの存続と女性との結びつきが強固になったことなど、いろいろ考えられます。

立山曼荼羅の奪衣婆のスライドのところで飛んでいる赤いぴろぴろしたものは何ですか。賽の河原のところにもあるのですが・・・。
「幡」といって「のぼり」です。形はいろいろですが、お寺の大きな法要や神社のお祭りでも、こんなのを立てます。中国では人間の魂を幡にのせて「あの世」に運ぶそうです。そのため、来迎図などで、持幡童子と呼ばれる幡をもった少年が先導役で現れることがあります。立山曼荼羅では布橋灌頂の場面で、布橋のまわりに幡が立てられています。これも賽の河原や奪衣婆のところの幡と同じでしょう。

江戸時代といえば、檀家制度の他に、寺どうしにしっかりとした縦のつながりが作られ、組織化した時代でもありますが、寺がどんな宗派のどんな格の寺なのか、はっきりときまったということ(寺に属していない僧が、うさんくさいものになった)も、絵解きの舞台が寺になった理由として考えられませんか。立山曼荼羅と熊野観心曼荼羅の図柄をくらべると、立山=老いの坂ともとれるのですが、関係はあるのでしょうか。
江戸時代の寺院制度が熊野曼荼羅の担い手やあり方を変えたことはたしかでしょう。ただし、熊野観心十界図などが特定の宗派で組織的に制作され、その絵解きの方法が宗派内で確立していたということはなかったようです。熊野観心十界図の担い手が、熊野比丘尼から寺院の住職へと変化したプロセスについては、私はよくわかりません。それぞれ個別の事例があったのではないかと思います。老いの坂と立山の山岳風景は、画面の上部に山岳を描くという点でたしかに全体の構図では共通しますが、立山の方には登拝の姿や、縁起の物語が描かれているだけで、老いの坂のような人生の流れは描かれません。これはむしろ社寺参詣曼荼羅で広く見られる山のモチーフで、熊野の方が特殊なのでしょう。なお、老いの坂を画面右端に描く地獄絵もあり、むしろ参詣曼荼羅ではなく、地獄絵や十王図の系統に属するモチーフでしょう。

JRのはくたかが立山曼荼羅と関係があるとは知らず驚きました。僕は富山出身ですが、立山曼荼羅を見た記憶はありません。小さいころに富山県旧利賀村の曼荼羅を見に行ったことはあります。幼心に地獄は恐ろしいところだと感じました。
利賀村の「瞑想の郷」には、チベット系の大きな曼荼羅があります。これは、利賀村と交流のあるツクチェという村からやってきたネパールの絵師(国籍はネパールですが、民族的にはチベットです)が、日本で制作したものです。日本密教で重要な金剛界と胎蔵界の曼荼羅も含まれます。これらの曼荼羅の制作には、曼荼羅研究の第一人者である田中公明氏が監修していますので、図像学的にしっかりしています。

地獄で着ているものがなければ、生皮を剥がされるので、それを防ぐために経帷子(きょうかたびら)を着せるのだということですが、それは日本で死者に白装束を着せるのと同じ意味ですか。
そのように説明されます。ただし、死者に特定の装束をさせることは、古い時代から見られたはずで、奪衣婆の信仰はそれより後のものという気がします(あくまでも推測ですが)。白装束の姿は中国や朝鮮半島の死者儀礼との関係もあるかもしれません。なお、立山の衆徒たちが販売した経帷子は、布橋灌頂で用いた白い布が用いられると言われます(実際はそれでは足りないとおもいますが)。

観心十界図で竹の根を掘らなければならない女性たちがいましたが、竹の根というのは四方八方にのびてしまうので、植えるときは注意しなければならないと聞いたことがあります。そんな竹の根をろうそくの糸で掘るなんて、無理難題を押しつけるのだなと思った。また、如意輪観音が血の池から女性を救うということでしたが、女性のみ参加する月待講とも、如意輪観音は関係があると聞いたことがあります。女性と如意輪観音には、何か関連するものがあるのでしょうか。
不産婦地獄で女性が竹の根(あるいは芽)を掘るというモチーフは、なかなか理解しづらいものです。掘る道具のろうそくの芯が、民間信仰での堕胎薬や避妊薬であったという話を聞いたときは、なるほどと思いましたが、竹が何を意味しているのかは、今ひとつはっきりしません。たしかに掘りにくいものでしょうし、地面の中で伸び広がる生命力あふれた植物ですが、べつに竹ではなくてもいいような気がします。如意輪観音と女性の結びつきについては、たぶん重要だと思いますが、手元に資料がないのでよくわかりません。ぜひご自身で調べてみてください。如意輪観音そのものも、女性的なイメージです。観心寺のものなどが有名です。

先週初めに見たときは、とてもきれいだと思われたのだが、今日再び見たときは少し図式化されているという感じがしました。割合が均等である場合、単純に見えてむしろ絵の空白を読むのがむずかしいのではないかと思います。最初から気になったことだが、曼荼羅の研究の仕方というか解釈の方法というか、その絵に関する知識を持っていないと解釈ができないのだろうか。
はじめのコメントは熊野観心十界図のことだと思いますが、たしかに図式化されています。それはすでに存在する地獄絵などの図像のモチーフを、コラージュのようにちりばめていることにもよるでしょう。もともと十界図が十の世界の情景を均等に描いたものであることも関連します。曼荼羅の研究や解釈は、その絵に関する知識を持っていないとできないというのもそのとおりです。世間にはそれを知らずに、絵を見ただけで適当に説明して「曼荼羅はすばらしい」と無責任な賞賛をしている本が氾濫しています。

何かの記述で意味のない行動を繰り返し強いることが一番つらい拷問だと書いてあった。不産婦地獄や賽の河原は、そのところをふまえているのだと考えた。
そのとおりですね。ギリシャ神話のシーシュポスの神話などはその典型です。大学での勉強も、就職したときの仕事も、そうならないようにしてください。


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