マンダラから見た日本の宗教

2007年1月15日の授業への質問・回答


社寺参詣曼荼羅を「曼荼羅」とほんとうに言えるかどうかが気になりました。日本の曼荼羅が多様であるのはわかるのですが、密教関係の絵図をすべて曼荼羅としたらきりがないでしょう。この曼荼羅を曼荼羅という理由は何ですか。
特定の仏教絵画を「曼荼羅」と呼ぶのは、いろいろなレベルがあります。当時の人々が実際に曼荼羅と呼んだものもあれば、もともとは曼荼羅とは呼ばれていないものが、後世の研究者によって曼荼羅と呼ばれたものもあります。社寺参詣曼荼羅はどちらかといえば後者で、近年、各地の寺院仏閣のこの種の図像を、まとめて呼ぶときに「社寺参詣曼荼羅」という総称を作り出したようです。今回取り上げる立山曼荼羅も、もともとは「曼荼羅」とは呼ばれず、「御絵伝」というのが一般的だったようです。縁起絵や高僧絵伝の伝統を受け継ぐものであることがわかります。これに対し、密教の曼荼羅は両界曼荼羅も別尊曼荼羅も、はじめから曼荼羅と呼ばれていました。垂迹曼荼羅や浄土教の曼荼羅の場合は、かなり早い段階から曼荼羅と呼ばれていたようです。「ほんとうに曼荼羅と呼べるもの」が何かという問題は、それをとらえる立場によって異なります。むしろ、日本では過去においても、現在でも、ある種の宗教的な絵画を「曼荼羅」と呼ぶ伝統があるのでしょう。その基準が何であるかに、その時代の世界観や仏のイメージが関わってくるのです。今回は立山曼荼羅でそのことを考えてみるつもりです。

補陀洛渡海もある意味「聖なる領域」へ向かっていく行為なんですよね。でも曼荼羅は上に行けば行くほど神聖で、人の視点も上に行くようにできている。補陀洛渡海の存在って何なんでしょうか。
社寺参詣曼荼羅でもとくに那智が有名なのは、補陀洛渡海のような特異な信仰のありかたが絵の中に含まれているからでしょう。しかも、補陀洛渡海は単に南の方角にある観音の浄土への渡海というだけではなく、日本人の重要な他界観である「海上他界観」や「蓬莱信仰」とも関係があります。海の彼方に聖なる世界や死者の国があるという信仰です。実際、補陀洛渡海はもともと「水葬」の習慣であったとも言われています。日本人の他界観にはもうひとつ「山上他界観」があり、那智の場合、妙法山とそこに描かれた五輪塔がそれと関係があります。那智参詣曼荼羅は海と山というふたつの「聖なる世界」を極として持つことになります。さらにおもしろいのは、那智の中心に描かれている青岸渡寺が、観音巡礼の西国三十三カ所の第一番の札所であることです。海の果てにある観音の浄土は、じつは画面の中央にあり、そこから西国の観音の霊場の世界が広がっていることになります。補陀洛渡海僧にとって、海を進んでいるつもりが、ぐるっとまわって、ふたたびたどり着いたのは出発点だったことになります(このことは、以前『インド密教の仏たち』を書いたときにも取り上げました)。なお、多くの社寺参詣曼荼羅は、本殿のような中心となる寺院を画面のやや上部に置き、そこにいたる参道や参詣の道を下から上に向かって描くため、人の視点が下から上に向かいます。これは、以前とりあげた垂迹曼荼羅や神道曼荼羅で、実際の景観を背景に描き込む手法にも関係があると思います。

那智の滝に行ったときは、何も知らなかったので、今度行くときは曼荼羅の知識をもって訪れたいと思った。熊野山伏が勧進をどの地域にまで赴いていったのか気になった。
日本の宗教に関心があるものにとって、那智や熊野はとても興味深いところです。金沢からは少し遠いのですが、ぜひまた訪れてください。私は高野山にいたころに2回、熊野に行きましたが、行けども行けども山が続く紀伊半島は、ほんとうに不思議な世界でした。熊野勧進や熊野比丘尼の活動は、相当、広範囲だったようです。那智参詣曼荼羅は、現存する社寺参詣曼荼羅の中でもっとも作品数が多く、また熊野観心十界図はそれを超える数が残り、しかも、日本全国各地にあります。熊野比丘尼が絵解きをするのは、人々があつまる社寺の大規模な法要や祭礼のときだったようで、それを求めて日本各地を遍歴したのでしょう。宗教的な活動というよりも、一種の芸能で、縁日やお祭りのときにできる見せ物小屋の小規模版というイメージです。そこに描かれた地獄の光景も、人々の「怖いもの見たさ」を意識したものでしょう。

社寺参詣曼荼羅が単に飾って拝むためではなく、持ち歩いて人々に説明し、仏教的な世界に導いたり、寄進を募るためのものだったいうことを念頭において見ると、仏教に対する知識があまりない人でも、興味をひかれるように工夫してあることがよくわかりました。
「那智参詣曼荼羅」や「熊野観心十界図」には、絵解きの台本のようなものがあったとも考えられますが、現存していません。おそらく、人々の関心をとらえて、お布施を払いたくなるようなさまざまな工夫が、絵にも口上にも凝らしてあったのでしょう。そのときどきで、当時の世相や有名人などを織り込むなど、即興的な要素も含まれていたと思います。このような口上は、弟子に口伝えで伝えられたのかもしれません。絵解きの場面に登場する熊野比丘尼の横には、小さな女の子も描かれることがあります。比丘尼とともに生活する弟子で、寄進のお布施を集めて回る役割をしていたようです。このような一種の芸能にたずさわる人々が、社会の周縁に位置し、差別の対象になっていたことも重要です。歴史研究ではこのような人々に注目した研究が、近年さかんですね。

補陀洛渡海は死ぬことが前提ということなのだろう。それなのに、食料を積む必要はあるのだろうか?わざわざ専用の船まで造って海で死ぬのかよくわからない。修行とか往生の方法のひとつということですか。
補陀洛渡海僧のほとんどは実際は死んだでしょうが、送り出す側にとっては、あくまでも観音の浄土へ往生をとげる崇高な実践だったはずです。渡海僧たちにとって、海の向こうに補陀洛浄土があると信じていたからこそ、できる行為で、単に死ぬためだけではなかったでしょう。それは、渡海僧だけではなく、周りの人々も同様です。渡海の前にはその功徳を少しでも分けてもらうために、渡海僧と結縁を結ぶ人々があとを絶たなかったようです。渡海僧の中には、沖縄に漂着し、そこでふたたび宗教活動を行った日秀上人という僧侶も知られています。

那智参詣曼荼羅はさまざまな有名人が登場していて、おもしろいと思いました。あと、那智参詣曼荼羅はカラスも多く描かれていましたが、カラスは熊野のシンボルか何かだったのでしょうか。
カラスについて指摘のあるコメントが、他にも数名いらっしゃいました。私は気がつきませんでしたし、あまりこれまでの研究でも注意が払われなかったと思います。たしかにカラスは熊野信仰において重要で、熊野の本宮では神様のおつかいとして、よく知られています。足が三本のヤタガラスで、古事記の神武東征に登場することによると言われています。最近では日本サッカー協会のシンボルマークとしても、よく目にします。

補陀洛渡海の船はなぜ四方に鳥居がついているのか不思議だった。そもそも観音菩薩の浄土に行く船に、鳥居があるのも不思議ですが。
補陀洛渡海船の四方の鳥居は、仏教の修行のための四つの重要な段階(門と呼びます)を表します。四つとは発心門、修行門、菩提門、涅槃門です。悟りを求める心をおこし、修行をし、悟りを開き、涅槃に入るということです。この四つのプロセスは、仏教の修行の基本で、あちこちで目にします。たとえば、四国巡礼の八十八カ所でも、全体の行程を四つに分け、この四門に配当します。ただし、補陀洛渡海の四方の鳥居を四門に対応させるのはあとからの解釈で、本来は葬送儀礼のための船形の棺についていたものでしょう。死者があの世に向かうまでに通過する鳥居です。

補陀洛渡海は残酷なものだと言っていたが、当時信仰していた者たちにとってはそうではなかったのだろうと思った。それは死に行くわけではなく、浄土?に行くためのものであるので、即身仏やひいては涅槃のようなものだと思った。そのため、井上靖氏を否定するつもりではないが、お坊さんの苦悩というものはほとんどなかったのではないかと思う。
前回の授業では補陀洛渡海に興味を示したコメントが多かったようです。井上靖氏の『補陀洛渡海記』の主人公の金光坊という補陀洛寺の住職は、たしかに現代人のように苦悩しています。しかし、全くのフィクションというわけではなく、現地に伝わる金光坊伝説のようなものを題材にして、井上氏はこの小説を書いています。熊野灘には「金光坊島」というこの住職に由来する島がありますし、金光坊が往生できずに「ヨロリ」という魚になったという言い伝えもあるそうです。なお、現地では「こんこうぼう」ではなく「こんこぶ」と呼ぶそうです。

物語的というだけあって、絵巻的な修法をいろいろなところで感じて興味深かった。比丘尼が遊女となっていったのには、どんな経緯があったのだろうか。白拍子のように巫女から遊女への変遷と何か関係があるのだろうか。
熊野比丘尼の遊女化については、私自身ほとんど知識がありません。先週の参考文献としてあげた小栗栖氏の論文では、「17世紀中期に傾城(遊女)化していた。17世紀中期において都市部における熊野比丘尼は、宗教者としての機能を衰退させる変容期にあった」とあり、その典拠として『東海道名所記』『近世奇跡考』などの複数の文献をあげています。白拍子の遊女化は、それよりも前の時代のことなので、比丘尼の遊女化とは時代がずれるようです。また、熊野比丘尼が傾城化するこの時期は、同時に熊野観心十界図が大量に制作される時期と一致するとも述べています。絵解きの芸能化と、比丘尼の遊女化が同時に進行したことを示唆していて、興味深いところです。


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