マンダラから見た日本の宗教

2006年12月18日の授業への質問・回答


往生の流行は末法思想(現世への不信)がもとになっていたと思います。それは平安末期の混乱の中で、人々の間に現実味をもって感じられていたかと思いますが、蓮生が往生した1208年の鎌倉時代においても、往生が流行していたことには疑問を持ちました。
おそらく、往生を願う人はいつの時代にもいたでしょうし、それを生み出すような厳しい社会状況は、いつの時代にも共通していたでしょう。熊谷直実が法然の弟子になり、実際に往生をとげたのは鎌倉時代初期で、『法然上人絵伝』が作られたのはそれよりも後の鎌倉時代後期ですが、いずれの時代でも往生思想は依然として有力だったようです。『法然上人絵伝』にはさまざまな人物の往生の様子が繰り返し登場します。絵巻の作者にとって、往生は重要な関心事であり、そこに描かれた往生の方法(臨終行儀ともいいます)は、その時代に実際に行われていたものでしょう。法然のおこした浄土宗では、臨終行儀の伝統は、形を変えつつも現在に至るまで続いています。なお、同じ浄土教系の宗派でも、浄土真宗では阿弥陀の来迎は否定されるため、臨終行儀は行われません。

そもそもなぜ五色の糸なんですか?「五色の糸」自体に何か意味があるのですか。曼荼羅を見ていて極楽に行くためにはかなり苦労しなければ行けないと感じました。法華経の中に地獄に堕ちるのに6000年かかるという話がありますが、極楽につくまでもかなりの時間が必要なのですか(概念的に)。
五色の糸については、昨年刊行された私の『仏のイメージを読む』の中で、以下のような説明をしているので、あげておきます。ポイントは、密教的な要素がベースにあるということです。

 五色の糸はもちろん繊維の糸でできているが、実際は光を表したものであろう。五色は密教では大日如来を中心とする五智如来を象徴する色である。とくにその智慧が光となって顕現するときにそれぞれの色が現れる。大日如来の頭光に五色の光が描かれることもあるが、これも、大日如来が五智如来の中心的存在であることの表れである。阿弥陀と往生者をつなぐ五色の糸は、単なる物質としての糸ではなく、両者をつなぐ光の帯であり、その機能は白毫からの光に等しい。
 ところで、密教の瞑想法においても光は重要な役割を果たす。密教では仏の姿を瞑想し、行者の近くに招き寄せ、礼拝供養する観想法や成就法と呼ばれる実践法があることは、すでに前章の不動のところでも述べた。この中で、光は仏を招き寄せるための一種の道具として用いられる。行者は瞑想の対象となる仏を象徴する文字などを、自分の心臓に生み出し、これを核としてあらかじめ仏のイメージを自分の中に準備しておく。そして、この仮のイメージから光を放射して、実際の仏へとその光を到達させ、引き寄せてくる。このときに光は鉤のような働きをすると言われる。鉤で対象を引っかけて、そのまま連れてくるというイメージである。仏を相手にずいぶん荒っぽいやり方のように思われるが、光とはそのような機能を持った物質かエネルギーの一種としてとらえられていたのであろう。
 仏の白毫から放射される光が、それを受けたものを必ず浄土へと導く機能を持っていたのに対し、行者の側からのびる光は、仏そのものをこちら側に引き寄せる役割を果たす。山越阿弥陀などと往生者をつなぐ五色の糸は、このような意味をそなえた五色の光の代替品なのである。

極楽に生まれ変わるためにかかる時間は、九品往生のそれぞれで異なります。最もはやい上品上生の場合、あっという間に往生できるといいますが、下品下生では十二大劫かかるそうです(劫はそれだけで想像を絶するような長い時間です)。その場合も、極楽に到達するための時間ではなく、極楽の蓮池の蕾の中に滞在する時間です。極楽に往生したものは、すべてこの蓮の蕾から生まれるのですが(蓮華化生といいます)、そこでどれだけ待たなければならないかが、往生の方法で変わります。

迎接曼荼羅では阿弥陀以外にも多くの化仏や菩薩が描かれていましたが、もともとこのように多くの化仏等が必要とされていたのでしょうか。来迎図を見ても、多くの諸仏が登場するので、時代を経るごとにどんどん化仏等が増えていくような気もするのですが。
たしかに清涼寺の迎接曼荼羅は、異様に化仏の多い作品です。知恩院の早来迎では、メインの二十五菩薩以外には、ごく小さく化仏が数人描かれているにすぎません。しかし、迎接曼荼羅では来迎でも帰り来迎でもぞろぞろと化仏や化菩薩が並んでいます。この作品が来迎図ではなく、迎接「曼荼羅」と呼ばれることも、注目されます。阿弥陀三尊や二十五菩薩のみの来迎図は「曼荼羅」とは呼ばれません。もともと浄土教では、當麻曼荼羅のように、来迎図ではなく浄土図が「曼荼羅」と呼ばれていました。迎接曼荼羅にも極楽の楼閣が上部に現れますが、中心は来迎と帰り来迎です。化仏などで登場人物を増やすことで、来迎図も曼荼羅と呼ぶことを可能にしたのかもしれません。これと同じように、極楽浄土と迎接の阿弥陀を描いていた二河白道図は、曼荼羅とは呼ばれませんでしたが、それと密接な関係のある地獄絵や六道絵が、今回取り上げる参詣曼荼羅に影響を与えたことを考えると、「曼荼羅」が浄土教の曼荼羅と参詣曼荼羅をつなぐ重要なキーワードになっているとも考えられます。このあたりは、今回と次回で注意して見ていこうと思います。

『法然上人絵伝』の中の最後の方のよい兆候のことを書いている中に「大地震動す」のところで、「山越阿弥陀」が思い浮かんだ。大きい阿弥陀が向かってくるなら、地面が揺れてもおかしくないと思った。でも、飛んでくる場合は地面が揺れたりする必要はないのでは・・・。来迎は阿弥陀が迎えに来てくれるということで、阿弥陀が積極的に来るというイメージだったが、『栄花物語』の道長は、むしろ阿弥陀を呼んでひっぱてくるような感じがした。
たしかに、山越阿弥陀のような巨大な阿弥陀が現れたら、地面も震動しそうです。でも、現存する山越阿弥陀図では、その名とは裏腹に、阿弥陀はわれわれの世界にやってきた状態では描かれません。あくまでも阿弥陀本人は山の向こうに立っているだけです。すぐそこに見える山の向こうで、阿弥陀が待っているというところが、日本人的な他界観なのです。よい兆候で「大地が振動する」のは、インド仏教の釈迦以来の伝統です。釈迦が特別なことを行おうとすると、かならず大地が六種の方法で震動します。これによって大地が柔軟になり、釈迦の奇跡(神変といいます)を受け入れる準備をするのです。なお、五色の糸が引っ張るための道具という見方は、上記の引用でも示したように、まったくそのとおりだと思います。

曼荼羅の表現の仕方がだんだん複雑になってきて、概念しにくくなってきた。インド仏教のときは割と形がきまっていたので、わかりやすかったが、日本では絵画に見え、また浄土宗でのとらえ方など、整理しにくくなってきた。
日本の曼荼羅はたしかに難解です。形や表現形式が複雑になったというよりも、なんでもかんでも「曼荼羅」と呼ぶようになっていくのだと思います。社寺参詣曼荼羅ではさらにそれがエスカレートすることになります。整理する必要はないのですが、日本で曼荼羅と呼ばれるものにどのようなものがあり、それが本来の密教の曼荼羅とどのように違うかを意識してください。

栄花物語で皆が往生を楽しみに見に来たというのにびっくりしました。昔は死や出産のときをにぎやかにしたと最初の頃の講義で言っていましたが、それと関係あるのでしょうか。
死や出産のときににぎやかだったと言ったのは、別尊曼荼羅のときと思いますが、そこでは僧侶の修法や読経がひっきりなしに行われたためで、人々が楽しみに集まったわけではありません。往生を見届けようと人々が集まったのは、それとは別で、来迎の場に立ち会うことで、来迎の仏を見ることや、それに付随する奇跡を体験することにあったのでしょう。それによって、仏縁を結び、自分自身の功徳を積むことが期待できたからです。仏を見ることだけでもそれは救済になったのです。熊谷直実の場合、わざわざ高札をたてて人々に往生することを予告していたわけですから、往生は一種のイベントと化していたことがわかります。『法然上人絵伝』の数々の臨終の場でも、大勢の人々がわざわざ見に来るようすが描かれています。

二河白道図でお迎えと送り出す仏がいるのはおもしろいと思いました。やはり立山の儀式に似ていると思いました。
立山の布橋灌頂は、布橋と呼ばれるように白く長い布を端の上に伸ばし、その上を女性たちが渡っていきます(昔は男性もいたようです)。まさに二河白道図です。立山曼荼羅とその儀礼は来週のテーマとなります。


金戒光明寺の「地獄極楽図屏風」のことだと思いますが、ご指摘のように、往生者の存在(魂かどうかわかりませんが)を示すと解釈されています。形は日輪を表しているようです。今回取り上げる那智参詣曼荼羅では、ご神体を表すために、同じような日輪が扇の中に描かれています。関係があるのかどうかはよくわかりませんが。


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