マンダラから見た日本の宗教

2006年12月4日の授業への質問・回答


當麻曼荼羅が注目を浴びるようになったのは、證空という人物の影響があってからという話だが、日本に當麻曼荼羅が伝わってから四世紀以上かかっているのは、不思議だった。かなり印象の強い絵画であるし、大きいようなので(布教のときは小さめにしたという話だったが)、布教活動にはかなり役立ったのだろう。最後に、絵の具ではなく織物だと言うことに驚いた。
當麻曼荼羅が鎌倉初期に證空によって再発見されるまで、あまり歴史の表舞台に出てこなかったのは、たしかに不思議です。しかし、まったく公開されていなかったわけではなく、その存在は広く知られていたようです。また、来迎会とか練り供養とよばれる儀礼が行われたのは、この曼荼羅があったからこそでしょう。そのときには、いつもは厨子に入れられていた曼荼羅も公開されていたはずです。ただし、『當麻曼荼羅縁起』の絵にあったように、指示棒でその内容を説明する、いわば絵解きをするようなことはおそらくなかったでしょう。この絵巻が描かれた鎌倉後期に、このような布教活動が一般化していたからで、それは證空以前にはさかのぼれないからです。鎌倉時代までの仏教は、基本的に民衆への布教には重点は置かれていませんでした。證空が果たした役割は、再発見と言っているように、その内容が善導の『観無量壽経疏』に正確に一致することを明らかにしたことでしょう。善導は中国浄土教の重要人物ですが、とくに日本の浄土宗や浄土真宗では、もっとも重視される祖師のひとりです。浄土教の開祖法然には、夢の中で善導と出会い、後継者としてのお墨付きをもらったという伝説もあります。善導の著作は、前回にも簡単に触れた「二河白道図」とも関連し、日本の浄土教絵画を知る上でも重要です。なお、當麻曼荼羅は天平時代に中将姫が蓮糸で織ったという伝承がありますが、後世の仮託で、中国で制作されたという説が有力です。

山折哲雄さんの本に夕日信仰の話がありました。大日如来が月を連想させるのであれば、何か夕日を連想させる仏はいないのでしょうか。
該当する山折氏の本は読んでいませんが、おそらく阿弥陀信仰にも関連するものでしょう。阿弥陀と夕日は密接な関係があり、當麻曼荼羅に描かれた十六観のはじめの日相観は、まさに沈む夕日をじっと見つめることで始まります(目が悪くなりそうですが)。阿弥陀そのものが無量光とも呼ばれるように、光を本質とする仏で、その極楽浄土が西にあるのも、太陽の沈む方向と一致します。その上で、禅林寺の山越阿弥陀が月と関連すると解釈される背景には、単なる浄土思想の阿弥陀ではなく、月を瞑想の要素として重視する密教があり、さらに、大日如来と阿弥陀如来を同一視する当時の仏教の独自の考え方があります。

阿弥陀と山や雲をはさんで見る側が対面する構図はおもしろい。6番に織物のマンダラの風景がありますが、當麻曼荼羅はすべて織物なのですか。またマンダラ用の織機と考えてもよいのでしょうか。
来迎図は見るものの視点が重要だと思います。授業で紹介した3点の山越阿弥陀のあいだでも、阿弥陀とそれを見るものの視点が微妙に違うようです。山越阿弥陀や来迎図は、臨終行儀といって、死にゆくものの枕元に置かれたと考えられ、その前に横になったり、あるいは端座することが前提となっています。プロジェクターでスクリーンにうつした絵を見るのとは、状況が違うのです。さらに、金戒光明寺の山越阿弥陀は、地獄極楽図屏風もセットだったようで、それがまわりに置かれていたようです。阿弥陀が正面向きに描かれているか、斜め方向に描かれているかで、その見え方がずいぶん違うはずです。なお、當麻曼荼羅は原本が綴れ折りである以外は、ほとんど絵画作品です。絹本着色といって、一般の仏画などと同じ描き方をしていますが、極楽浄土を表すために、金を多用することが多いようです。これは當麻曼荼羅の副本を大量に作った鎌倉時代の絵画の嗜好でもあります。

罪人が往生してから地獄→極楽という経路をたどるのは、参詣曼荼羅で聖所へ参拝する人々が、長い参道を経た後に、聖所へ入るという流れと同じようで、おもしろいなぁと感じた。やはりケガレを落とすということは、もっとも大切なものだと考えられていたのだろう。しかし、なぜ「細く」長い道(橋)なのだろう?細くなくてはならないのか。
授業では浄土教の曼荼羅をとりあげた後に、参詣曼荼羅に進んでいきますが、ご指摘のとおりで、二河白道図や地獄図の細い道が、参詣曼荼羅の参拝の道筋に対応するようです。参詣曼荼羅には地獄絵の要素が描かれることもあり、そこにも日本の曼荼羅の複合的な要素が認められます。このような長い道を辿ることでケガレを落とすというのはたしかにありますが、それだけではないようです。ケガレというのはむずかしい概念で、参拝の場合、禊(みそ)ぎなどとも関連しますが、地獄の中ではあまり明瞭ではありません。地獄の責め苦は、死と再生という枠組みの方があっているような気がしますし、実際、修験道などで峯入りといって山には入る修行は、六道や十界という世界を通過することで、再生をとげるととらえられていたようです。

當麻曼荼羅は絵解き、布教にもっぱら用いられたということですが、どのようにして布教をしたのでしょうか。寺に来た人々に見せたのでしょうか。あるいは手頃なサイズの曼荼羅を持ち歩いて、布教をしたのでしょうか。
実際にどのように布教に用いたのかはよくわかりませんが、おそらく寺院の中に懸けたままで、法会などの特定の儀式のときに参拝の人に説明したのでしょう。ちょうど『當麻曼荼羅縁起』に描かれているような感じでしょう。布教用の曼荼羅を持ち歩いたのは、後世の参詣曼荼羅では一般的で、たとえば立山曼荼羅は参拝者を募るために、江戸や名古屋などの大きな町で、人々を集めて絵解きされていたようです。宣伝用の重要なポスターだったようです。

敦煌に「浄土変」が多いですが、浄土曼荼羅といえませんか。このような「変相図」という作品は、曼荼羅とは違う点がありますか?當麻曼荼羅はどのような作用がありますか?『當麻曼荼羅縁起』を見れば、やはり「来迎」と関係するような気がしますが(他の瞑想とか関係もありませんか)。
敦煌の浄土変あるいは浄土変相図は、中国では浄土曼荼羅とは呼ばれなかったようです。中国では「曼荼羅」という言葉は、日本ほどは乱用されなかったのでしょう。日本でも、もともと「曼荼羅」とは呼ばれなかった作品でも、後世、曼荼羅と呼ばれるようになることがしばしばあります。立山曼荼羅も絵伝とか、絵図とだけ呼ばれたものが、ごく最近(たしか明治時代)になってから、立山曼荼羅と言われるようになったそうです。ただし、浄土図の場合、曼荼羅という名称はかなりはやくから用いられたようで、當麻曼荼羅と並ぶ重要な浄土教の曼荼羅である清海曼荼羅や智光曼荼羅は、形式上は極楽浄土図とほとんど変わりません。當麻曼荼羅の作用(機能や役割のことと理解します)は、来迎そのものよりも、来迎会などの儀式と関係が深いでしょう。しかし、當麻曼荼羅の形式そのものは、すでに中国にあったのですから、そこでどのように用いられたかも考慮すべきでしょう。『観無量寿経』や善導による注釈書と関係することから、瞑想(観想)と関係が深かったのは、十分予想されます。善導はこのような観想の実践を重視した人物であったことも知られています。

修行をするときに山にこもるというのは、日本ではかなり一般的だし、ヨーロッパのキリスト教などでも、切り立った山に修道院を作ったりしているが、こういう思想と「山は神仏とわれわれの世界の境界」という考え方は、どんな結びつきがあり、どちらが先にあったものなのでしょうか。
キリスト教でもたしかに山が修行の場として重視されますし、それはインドやチベットでも同様です。しかし、その場合の山は、われわれ日本人のとらえる山とは、必ずしも同じではないでしょう。中国も神仙思想などは山と密接なつながりがありますが、景観も植生も、日本の山とはまったく異なります。私自身、中国やインドに行くと、同じ山でも大陸ならではの壮大な姿にいつも驚かされます。日本には日本独自の山のイメージがあり、そこでの宗教実践があったようです。よく知られているのは山そのものが神としてとらえられることですし、女人禁制のような聖域としての山は、日本にとくに顕著だと思います。奈良時代には山を修行の場とする仏教が広く知られていたようで、のちに修験道として整備されます。空海が唐にわたる前に山の中で修行をしていたことも有名ですし、高野山や比叡山が山の中にあるのも偶然ではありません。

いろいろなものがありすぎて、よくわからなくなってきました。曼荼羅の確実な定義とかあるんですか?仏の世界の構成図ととらえればいいのでしょうか。
たしかにいろいろな曼荼羅が登場しますし、そこに描かれている内容も複雑多岐になってきました。しかし曼荼羅の定義ができないところが、日本の曼荼羅の特徴だと思います。仏の構成図でもありますし、複数の仏がいれば、すぐにそれは曼荼羅と呼ばれるようになったり、場合によっては仏がひとりだけでも曼荼羅と呼ばれたり、仏が描かれずに文字が書いてあるだけでも曼荼羅になります。日本の曼荼羅をたどっていくと、日本における仏や仏の世界の表し方が、あきらかになると考えています。

先日、NHKの「知るを楽しむ」で、當麻曼荼羅をあつかっているのを見ました。折口信夫はそこから「死者の書」という小説を書いたそうです。立山の布橋灌頂会では、布橋の上に白い布をしいて、目隠ししてわたります。これは二河白道図と同じ構造のように思いました。
私は最近ほとんどテレビを見ないので、知りませんでした。タイムリーな番組でよかったですね。立山の布橋灌頂は、立山曼荼羅を取り上げるときに詳しく見る予定です。立山曼荼羅の中にも、その情景が描かれています。布橋灌頂は今年も9月の中頃に行われたようで、わたしも見に行きたかったのですが、別の用事が金沢であったため、行けませんでした。行けば授業でお見せする写真なども撮れたのですが、残念でした。

阿弥陀の来迎と臨終のところで、五色の糸の話を聞き、高校のときの古典の問題に、阿弥陀来迎の際には、何らかの音が鳴ったり、いい香りが立ちこめると言ったことが起こるというものがあったのを思い出しました。浄土教が流行したのは「短い念仏」が民衆に覚えやすかったことが大きな理由だと思っていたが、他にも當麻曼荼羅を使った布教もまた一役買っていたのだろうと思った。
来迎のときの神秘的な状況はそのとおりで、『日本極楽往生伝』や『法然上人絵伝』などには、実際にそのような「よきしるし」が現れたことがしばしば書かれています。その真偽は定かではありませんが、人々が信じていたことはたしかです。実際に阿弥陀の来迎を見ることがなくても、そのような兆候によって極楽に往生したことを知ることが、死者を看取る人たちにとっても重要なことでした。死者が夢の中に現れて、極楽に往生したことを人々に伝えることも、期待されていました。日本で浄土教が流行した要因はいろいろありますが、むしろ、現在、もっとも信者の多い宗派である浄土真宗は、はじめはそれほど一般の人々には受け入れられなかったことも、注意しなければなりません。現在の浄土真宗の基礎を築いたのは、じつは親鸞ではなく蓮如です。また、當麻曼荼羅を用いた證空は、京都の貴族たちと強い結びつきを持ち、大衆への布教というよりも、社会の上層階級の人々への浸透の方が強かったと思います。

當麻曼荼羅の一枚目の阿弥陀浄土図を見て、仏たちがずらりと並んでいる点で、中尊寺金色堂のお堂の仏像もそのようにずらりと並んでいるのを思い浮かべました。そこから曼荼羅は平面的なイメージがありますが、立体的な仏像を並べることで、曼荼羅を表したものはあるのでしょうか。
立体マンダラはあちこちにあります。インドでは絵画による曼荼羅だけではなく、彫像を並べてマンダラを作ることがあったようで、それは絵画のマンダラよりもすぐれいているという文献もあります。チベットに伝わる砂マンダラも、どちらかというと立体的ですし、実際に3次元の建物を造り、中に仏を並べた立体マンダラもあります。日本では立体マンダラは東寺の講堂が有名ですが、これは厳密にはマンダラと呼ぶことはできませんので、この授業では取り上げません。なお、中尊寺金色堂は浄土思想で説明されることが多いのですが、実際は密教とも密接な関係があったことが、最近の研究で明らかになってきています。


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