マンダラから見た日本の宗教

2006年11月20日の授業への質問・回答


熊野垂迹曼荼羅の中で唯一中心を持った曼荼羅は、中心の2神を囲むように輪が描かれている。私は光輪のように思えた。また熊野の本迹曼荼羅は、下半分に雲のようなものが描かれている。印象でしかないですが、光輪や雲といったものを見ると、極楽を連想してしまった。とくに本迹曼荼羅は、下半分が現世で、雲をはさんで、上半分に仏や神がいる構図のように思った。
スライド25の垂迹曼荼羅(明石寺)のことだと思いますが、たしかに日輪のように見えますが、残念ながらそうではないようです。この部分は蓮の花の花芯と蓮弁の間に相当し、おしべが並んでいるところです。全体に金色(あるいは黄色)に塗られていますが、こまかい筋が放射状に描かれています。細いおしべがびっしりと並んでいる様子が表されています。このモチーフは、もとになった胎蔵曼荼羅の中台八葉院でも見られ、それを踏襲したものです。本迹曼荼羅はたしかに下半分に雲がたなびいています。ここは熊野や大峯の山々を表した部分で、雲か霞か霧に相当するでしょう。登山する人が言うところのガスです。私も高野山に住んでいたころは、少し天気が悪くなると、まわりの山々がこのような霧(雲)で覆われるのをよく見ました。高野山そのものも、よく霧で覆われます。この本迹曼荼羅が神々の世界と自然の景観というふたつの領域で形成されているという見方は、適切だと思います。神々の世界を社殿で表し、それと自然の景観が組み合わされるというのが、神道曼荼羅のひとつのパターンになります。これは山王日吉曼荼羅でも当てはまります。本迹曼荼羅や垂迹曼荼羅には極楽の要素はあまり認められないと思いますが、この後、社寺参詣曼荼羅を取り上げるときには、極楽図を含む浄土教の美術が登場するので注意していてください。

なぜ日吉曼荼羅において神々が増えていったのでしょうか。ご利益が上がると考えられたのですか。それとも何か他の神社と提携したのですか。
なぜ増えたのでしょうね。このあたりは日本の神道史の問題になるので、私もよくわかりません。日本中には同じ名前の神社がたくさんありますし、逆に、別の神社の中に他の有名な神社の神がまつられていることも一般によく見られます。このような神々や神社の統合や連携は、日本の神道の流れの重要なポイントになるようです。山王日吉曼荼羅に関して言えば、日吉の山王二十一社だけでもずいぶん多くの神様がいますし、さらにそれに祇園や北野などの有名神社が加わります。はじめからの上七社ですら、外来の神が半分程度はいたので、このような神の増加は、山王日吉曼荼羅が本来持っていた特徴のひとつでしょうし、おそらく他の有力な神社の曼荼羅でもある程度は認められるようです。熊野曼荼羅でも時代とともに登場する神の数は増える傾向にあります。ただし、神道曼荼羅をあつかう場合、曼荼羅に登場する神々の拡大と、神社や神々の組織の拡大とは、ある程度分けて考えた方がよいようです。たとえば、曼荼羅として描く場合、全体のバランスや構図といった、技術的、美意識的な要素も加わるからです。

最初に見た絵(映像)のことですが、前回の残りで、先生はたとえば、絵25番の場合に、キツネに乗った女が登場した、他の宗教が入ってきたとおっしゃいました。今回の分でもわかるように、神々の姿、構図などで、象徴性や個性が表れているが、それなら前回分の31、32のように、実際の景観を描いたものの場合、どの点からその個性を探すことができるか、気になりました。
キツネに乗った女はダキニ天と呼ばれ、稲荷信仰と関係があります。熊野信仰とダキニ天、あるいは稲荷信仰とがどのような関係にあるかは、よくわかりませんが、本来、熊野とは関係のない要素が、神道曼荼羅にはしばしば加わっていきます。それは、はじめから描かれる仏の顔ぶれがきまっていて、左右上下のバランスを重視する密教の曼荼羅ではありえないことです。それは、日本において曼荼羅が幾何学的な仏の配置図ではなく、山や雲、実際の神社仏閣などを背景として描くものに変わっていったことと密接な関係があると思います。新たな要素を加えることが容易だったからです。鳥瞰的な景観図や建物の絵が曼荼羅と呼ばれるのが、日本の曼荼羅のひとつの特徴ですが、その背景には神道曼荼羅の登場と、さらに今回から取り上げる浄土教の曼荼羅の影響が大きかったと思います。

今日見たスライドの中で、舎利厨子がありましたが、実際に遺骨は入っているのでしょうか。また、キリスト教の聖遺物のように、聖人(仏)に関係するものも信仰の対象になるのでしょうか。
舎利に対する信仰はインド以来、仏教の伝播したところでは、おそらくそのすべてで見られます。そこでは舎利は単なる「釈迦の遺骨」というだけではなく、仏教の教えや信仰そのものと密接に結びついた重要なものです。仏教の歴史は舎利信仰の歴史と言うことさえ、ある意味では可能です。日本にも舎利は伝わり、それに対する信仰はきわめて重要でした。舎利は本物の釈迦の遺骨もありましたし(本物かどうかは信じるか信じないかにかかっていますが)、水晶も舎利としてあつかわれることがありました。本物の方を生身(しょうじん)の舎利とも言います。聖衆来迎寺の舎利容器の舎利は本物の方のようですね。なお、舎利以外にも釈迦の歯、托鉢の鉢、大衣なども聖なるものとして、インドやその周辺地域で信仰の対象となりましたが、日本にはほとんど伝わっていません。舎利信仰については拙著『仏のイメージを読む』の最後の章で取り上げています。

前のスライドの熊野曼荼羅のところで「これは空海」という説明があった気がするのですが。熊野と天台宗は密接なつながりがあるということなので、本来、そこにはむしろ最澄が来るべきなのでは。それともやはり修験道と密教の関連という点から、密教をもたらした空海を重んじ、そこに描いているのでしょうか。密教では重要視される大日如来が、山王曼荼羅では下七社のうちのひとつに当たっているが、密教と修験道のつながりが深いということと、大日を頂点とする(根源とする)ことはイコールではないのでしょうか。
空海が登場することのはっきりした理由は、私にはわかりません。熊野垂迹曼荼羅に空海が登場するのは、かなり後の作品のようで、そのころは高野山を中心とする真言宗でも修験道と密接な関係を持つようになったのではないかと思います。天台宗が修験と関係を持つようになったのは、最澄よりも円珍の時代で、天台宗の中でも寺門派と呼ばれるグループ(円珍が開いた園城寺が中心)です。山王日吉曼荼羅でも紹介しているように、天台宗はもともと山林修行を重要な行として位置づけ、回峰行のような実践を行っていましたが、これは修験道の修行と近いものです。質問の後半の、密教の仏の世界と、神道曼荼羅の本地仏の構造とが対応しないことは、私も重要だと思います。本地仏では大日如来の位置づけが低く、観音や薬師、阿弥陀などが上位におかれる傾向にあります。これら上位の仏は山林修行がはじめられた奈良時代の仏教(とくに古密教と呼ばれます)における重要な仏に相当し、平安時代に伝えられた密教の仏の世界とは異なるからでしょう。とくに観音はその中で重要な位置を占めます。

日本の神道曼荼羅は中心に向かっているのではなく、外側に拡散していくように描かれており、風景画のようになっていったらしいが、他の国でもそのような例はあるのですか?
授業中にも少しふれたかもしれませんが、チベットでもマンダラは「解体」されて、風景画のように描かれることがあります。しかし、日本とは異なり、完全に風景の中に溶け込むことはなく、背景として自然の景観を持ちつつも、仏たちはかなり幾何学的に配されます。日本とチベットではマンダラの解体の方法が一致しないところに、それぞれの地域でのマンダラのとらえ方の相違、さらには「仏の世界」や「聖なる世界」の表現方法のちがいが現れるようです。

曼荼羅の原点回帰として、構図に中心性が生じたというお話でしたが、神がそのままの姿で曼荼羅に描かれるのも、日本の宗教への回帰という風にも考えられます。両者に関連はありますか。
その場合、日本の神々が持つ「そのままの姿」というのが問題になります。日本の神々は本来、特定の姿を持って表現されることがなかったのではないでしょうか。古墳時代や飛鳥時代に、特定の神の像が彫刻や絵画で表された例はおそらくありません。アマテラスもスサノオも、イコン(神の像)によっては表現されなかったのです。現在、神社や神宮寺などに、神像、すなわち神の像が伝わっていますが、それらは仏教のイコンである仏像や仏画の影響を受けたものと考えられています。神道曼荼羅に描かれている神々も同様で、神を描いた垂迹曼荼羅は、仏教の影響のもとで制作されたものと考えられています。「回帰」ではなく「創作」なのでしょう。授業で熊野曼荼羅も山王曼荼羅も本地仏曼荼羅、垂迹曼荼羅という順に紹介しているのは、そのためです。

山王二十一社本地仏一覧で、下七社の中に摩利支天という本地仏がありました。南アルプスの中の標高3,192m、日本第二位の北岳の山頂のかたわらに、「摩利支天」という名の付いたピークがあります。丸っこい塔みたいにそびえ立つ、特徴的な姿で、その名前から何となく荘厳なイメージをいだかせる山容です。旧称に「山末」とあることから、山と関係があるのでしょうか。
南アルプスのピークの名のことは知りませんでした。摩利支天は仏教の仏のひとりで、女神です。もとの名前をマーリーチーといいます。密教の仏で、大日如来と密接な関係を持つのに加え、ヒンドゥー教の神である太陽神(スーリヤ)やヴィシュヌとも関係があります。いずれもそれぞれの宗教における最高神や至上神で、きわめて位の高い神や仏です。山の形が塔のようというのは、偶然かもしれませんが、インドにおいてマーリーチーが塔の中に描かれることに由来するからかもしれません。日本における摩利支天信仰については、私はほとんど知識を持っていませんが、以前、鈴鹿の山のひとつ、御在所岳でも、山頂で摩利支天がまつられているのを見たことがあるので、山岳信仰とつながりがあるのかもしれません。インドのマーリーチーについては『インド密教の仏たち』の第二章を参照してください。写真もいくつか出しています。

前後鬼というのが昔何かのテレビで見たインドの神様とかいうのに似ていました。たしかハヌマーンとかいうのだと思ったのですが、そのような名前の神様は実在して信仰されてたりするのでしょうか。
います。サルの神様です。ただし、前後鬼とはあまり似ていないと私は思います。インドの有名な叙事詩『ラーマーヤナ』の登場人物のひとりで、主人公のラーマを助ける重要な人物(動物)です。ラーマがヴィシュヌの化身であることから、ヴィシュヌ派ではとくに篤い信仰を集め、ハヌマーンをまつる寺院も多くあります。『ラーマーヤナ』は東南アジアに伝わり、ジャワ島では有名な影絵芝居(ワヤン・クリッ)の演目になっていますが、そこでもハヌマーンは人気が高く、主人公のようになっています。ちなみに前回とりあげた山王日吉曼荼羅の大行事もサルの姿をしていますね。

種子曼荼羅は簡略化と考えればいいのでしょうか。それとも他に何か意味や意図があるのですか。
簡略化と見てもいいのですが、密教ではことばや文字を重視するので、それよりは重要な位置づけです。密教の仏たちは一尊ごとにきまった文字が対応していて、瞑想をするときにその形を仏のかわりに出現させたり、文字から仏を生み出したりします。そのときには文字の形とともに音も重要で、行者は発声もします。文字は一種のシンボル(象徴)で、その背後にはインド以来の文字やことばに対する神秘思想があります。単なる言霊(ことだま)ではありません(もちろん、日本ではそのようなとらえ方もされますが)。密教ではこのような象徴として、三昧耶形(さんまやぎょう)もあります。仏ごとにきまったモノ(まさにシンボル)が定められていて、マンダラを描くときも、仏ではなく三昧耶形で描くことがあります。神道曼荼羅の場合、授業でも紹介したように、種子曼荼羅はあるようですが、三昧耶曼荼羅はないようですね。このあたりも密教とそれ以外の曼荼羅の相違になります。


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