マンダラから見た日本の宗教

2006年11月13日の授業への質問・回答


授業が進むにつれて、登場する仏や曼荼羅が増えてきて、少し混乱してきました。何かわかりやすい系統図や体系図のようなものはありませんか?
そうならないようにと思って、前回は授業のはじめにこれまでのふりかえりと今後の見通しをお話ししましたが、だめでしたか。日本におけるマンダラの展開は、仏をどのようにとらえ、それをどのような形で表すかという点に関わってきます。たとえば、今見ている神道曼荼羅は、仏と神を同一視し、それを仏か神か、あるいはその両者で表します。それに加え、仏たち(あるいは神々)とどのように配置するか、その背景は何かも問題になります。むしろ、その方が重要な要素になることもあるでしょう。神道曼荼羅でいえば、中台八葉院のような胎蔵曼荼羅を意識したものもあれば、那智や大峯の山々を描き、その中に仏たちを点在させてものもあります。後者は宮曼荼羅や参詣曼荼羅につながっていきます。マンダラとは「仏の世界」なのですから、日本におけるさまざまな曼荼羅の表現方法は、日本人にとって「世界とはいかなるものであるか」を知るための重要な素材になると思います。日本におけるマンダラ全体を鳥瞰できるような図は、私自身これまで見たことがありませんし、授業ではそれをめざしています。皆さんも自分で、工夫して作ってみてください。

熊野詣は山を登ることか、それとも単に本宮や新宮に参拝することのどちらに重点を置いているのだろうかと思った(両方かもしれませんが)。山を登りたどり着くことに大きな意味がある、効験があるのだと思うのですが、院政の時期に白河上皇らは自分の足で登ったのでしょうか。そもそも熊野詣で(修験道)を行って、上皇、法皇たちにとどまらず、人々は何を成し遂げようとしたのでしょうか。熊野詣を行うことで、たとえば病気平癒といった、一定の効験があったのでしょうか。
熊野詣も、他の巡礼と同じように、行程と目的地の両者が重要だったでしょう。京から熊野に至る道には、九十九王子をはじめ、さまざまなポイントが設定されていて、その場所ひとつひとつで、きまった儀礼が行われました。これらは単なる通過地点ではなく、ポイントを順に押さえながら進むことで、目的地に近づくにつれて、人々の意識が高揚してはずです。目的地が本宮、新宮、那智という3つに分かれているのも、クライマックスを複数設定できて、効果的だったと思います。上皇がどのように山道を登っていったかは、調べてないのでわかりませんが、平地では牛車などが使えても、細い山道は、やはり自分の足で登ったのではないかと思います。熊野詣の目的は、それを行う人の社会的な位置づけで、さまざまだったようです。たとえば、下級貴族の人たちは、立身出世のような現実的な願望の成就を期待していたようですし、上皇や上位の貴族たちにとって、宗教的な権威を政治的な権力に結びつけ、それを人々にアピールすることが意図されていたはずです。一般には現世と来世の二世における幸福・安穏が主たる目的だったでしょう。とくに、この時代はいわゆる末法思想が人々の間に浸透していたので、何とか仏や神の力にすがって、少しでもよい境遇に生まれ変わったり、極楽に往生することを望んでいました。熊野ではありませんが、藤原道長が大峯山に登り、金峯山に埋蔵した経筒が出土していますが、そこに刻まれた願文からは、浄土信仰、弥勒信仰、法華経信仰など、当時の仏教のさまざまな信仰が渾然としていたことがわかります。

仏の形態が「俗体」とはどんな姿なのですか?法体は何となく僧の姿だと思ったのですが。
「俗体」は熊野垂迹曼荼羅の場合、中国の貴族のような姿です。今回取り上げる山王日吉曼荼羅の場合、衣冠帯職の、日本の貴族姿で描かれています。熊野垂迹曼荼羅では、このほかに女体、童体があり、それぞれ女性の姿、童子の姿を取ります。

私はマンダラといったら、今までやった両界や別尊のイメージが強かったので、こんな風景画のようなマンダラもあることが意外でした。でも、礼拝の対象となるような場所を絵に描いた場合、マンダラになるか風景画になるかはびみょうな気がしました。
日本のマンダラは次第に風景画になっていきます。それは日本人にとっての「世界」が、両界曼荼羅に見られるような幾何学的な構造を持ったものではなく、自然の景観のような漠然として、境界がはっきりしないものだったからだと思います。そして、礼拝の対象となる場所というのは、同時に宗教実践の場所にもなります。熊野詣のような巡礼や、修験道で行う山を舞台とした修行は、そのような「自然の景観」がいわば「聖なる空間」とみなされるのです。「マンダラか風景画か」という二者択一ではなく、おそらくその両者がそなわっている形式が、日本のマンダラの特徴でしょう。

那智の滝は滝そのものが本尊なのですか。何でそうなるのでしょうか。仏教で法具が神格化されることはよくあるみたいですが、道具そのものではなく、仏の姿が与えられます。でもこの滝はそれすらなしで、そのまま軸に描かれているので、変な感じがしました。
滝というのは日本の宗教においては特別の存在でしょう。それは単なる自然の風物ではなく、それ自体が神そのものとしてとらえられていることが多いようです。滝(瀧)という字は、その中に竜(龍)の文字が含まれているように、しばしばご神体を龍と見なします。しかし、滝そのものが天と地をつなぐ霊的な存在なのです。熊野の那智の滝をはじめ、日光の華厳の滝や、身近なところでは立山の称名滝など信仰の対象となっている滝は日本中にあります。実際に滝を前にすれば、その迫力に誰もが圧倒されます。非日常的な空間がそこには出現し、それがしばしば宗教的な世界ととらえられるのでしょう。そのため、滝は水行などの宗教実践を行う場所にもなりますし、神や仏と出会う場所にもなります。那智の滝では、文覚という鎌倉初期の僧侶が、滝に打たれる修行をして、瀕死の状態になったときに、不動が現れて、その眷属である二童子によって助けられたという物語がよく知られています。これは那智参詣曼荼羅にも描かれています。

密教というと、空海と最澄が伝えた真言宗と天台宗というイメージが強かったです。そうすると、そのまま金剛峯寺と延暦寺を思い浮かべてしまいます。私は以前からただ世界遺産になったからという理由で、熊野に行きたいと思っていましたが、熊野も密教において重要な意味を持つことを知り、密教と熊野についての知識を深めて、熊野に行きたいと、さらに思いました。
高校までの授業で密教について学ぶのは、日本史の平安時代初期だけでしょう。しかし、密教の寺院は日本中にあって現代に至るまで活動を続けています。金剛峯寺と延暦寺だけではなく、各地の名だたる寺院が密教寺院です。京都では東寺、仁和寺、醍醐寺、大覚寺など、いずれも真言宗の寺院です。千葉の成田山、神奈川の川崎大師などもそうです。石川県では加賀の那谷寺、金沢市内の雨法院や伏見寺、富山県境にある倶利伽藍寺などがあります。日本において密教は山岳信仰と結びつき、修験道を生み出しました。神仏習合も、神道曼荼羅で見ているように、密教があってはじめて成り立つ考え方です。一方で、鎌倉新仏教はいずれも天台宗からあらわれた高僧たちを開祖としています。日本の宗教の底流として、密教はとくに重要な存在なのです。そのような意味でも、熊野、吉野、高野の世界遺産は日本の宗教の原点とも呼ぶべき姿を今に伝えています。

インドの輪廻思想においては、神々も仏の救済を必要とし、人間と同じようにヒエラルキーの中に位置づけられているようなのですが、日本の神道曼荼羅では、神々が実在した人物と同じどころか、それより下に描かれているものがありました。両者は同じ考え方によるものなのでしょうか。
日本でも神々が救済されるべき存在という考え方は、古い時代にはあったようですが、神道曼荼羅を生んだ時代には、すでに本地垂迹思想が登場していますので、ヒエラルキーの中では仏と同格でしょう。神道曼荼羅にあらわれる実在の人物は、おそらく役行者や弘法大師を指していると思いますが、いずれも歴史上の人物というよりも、すでに神格化された存在です。神道曼荼羅では画面の上下が、そのまま神々の上下関係を表す場合もありますが、それと同時に自然の景観が描き込まれているため、それにしたがった配置も取っています。役行者が画面の上部にいるのは、そこに大峯山が描かれているからでしょう。

プリント「マンダラの表現方法とその意味」の中で「偶像崇拝の禁止」について、おもにおそれおおいからという解釈を当てはめています。そこは少し疑問で、私なりには、宗教は基本、精神への働きかけがメインで、それが偶像崇拝をすると、ものへの信仰に置き換わる危険があるからと禁止にしたのでは?
そうかもしれませんね。ぜひ、そのあたりのことを宿題で詳しく書いてみてください。具体的な例をあげることもいいでしょう。前回もお話ししたように、私の文章はあくまでもきっかけであり、皆さん自身がいろいろ考えてみることが大事だと思っています。

以前、熊野に行きました。静かで神々のすみかにはよいところだと思いました。道は山沿いをくねくねと行き、昔はこの峠ひとつひとつを歩いていたと聞きました。熊野は死者の国といわれますが、その入り口はどこになるのでしょうか。恐山や立山には、この橋の向こうが死者の国と境界がきまっていますよね。
高野山に住んでいるときに、紀伊半島を回る機会が何度かありましたが、そのたびに、どこまで行っても山が続いていく景観に驚かされました。ほんとうに紀伊半島は山ばかりです。熊野はたしかに古くから「死者の国」と呼ばれていたようですが、その入り口ははっきりきまってはいなかったのではないでしょうか。紀伊半島にはいくつかの古道があり、それらを通って昔の人たちは吉野や熊野、高野を参詣していました。これらの道にはいくつかの節目となるポイントがあり、それを順に超えていくことで、次第に目的地に近づくという感覚だったのではないでしょうか。そして、ポイントごとで禊(みそぎ)や浄めを行うことで、境域を通過するという意識が高められたと思います(人類学でいうところの通過儀礼です)。高野山や大峯山の場合、女人禁制が原則でしたから、女性が入れない場所が重要な聖域ととらえられていたはずです。修験では一定期間、山に入って修行をしますが、そのときには時間の経過とともに、六道(あるいは十界)を輪廻すると見なされます。空間の移動だけではなく、時間の推移によっても「死後の世界」を体験するのです。

一枚目のスライドに載せてあった図の概念がいまいちわかりませんでした。
たしかに、あの図だけではよくわかりませんね。ポイントとしては、紀伊半島の中に三つの聖地があり、それをとりまく宗教が重層的になっているということです。密教、修験道、山岳信仰などが、それぞれバラバラに存在するのではなく、密接な関係を保ちつつ、ひとつの信仰世界を形成しているということです。「道教・神仙思想」といった個々の名称には、あまりこだわらないでください(英語表記も少し問題です)。

小野小町は「深草少将百夜通い」という伝説もありますが、もうひとつ、竜神伝説があります。その内容は、仁明天皇の雨乞いの宣旨を受けたときに、小野は
 千早振る 神も見まさば 立ち騒ぎ
  天の戸川の 樋口あけ給え
という和歌をもって答えて、みごとに雨を降らせたそうです。そこから「雨乞い小町」とか「竜神の生まれ変わり」といわれるそうです。この「雨乞小町」は能や謡曲になり、そのほかに「草紙洗小町」「卒塔婆小町」「通小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」「清水小町」があり、すべてまとめて「七小町」と呼ばれるそうです。
*この内容はとある小説の中から取りました。参考書としてつぎの本があげられていたので、以下に記します。
「小野小町 落魄の真相」高橋克彦(『歴史街道』より)
以前の授業で請雨経法と小野仁海について取り上げましたが、その関連で小野小町と雨乞いの伝承について調べてきてくれました。私もまったく知らない分野なので、勉強になりました。実際にいつ頃からこのような伝承が現れたのか、その典拠となる文献は何か、能や謡曲の世界で、小野小町がどのようにあつかわれているのか、など興味がわきます。請雨経法は平安時代にもっとも頻繁に行われた修法のひとつなので、それとの関連もわかればおもしろいでしょうね。


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